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翌朝、注文した憶えのないイリナ・リツコワのコートが届いた。
鮮やかなヴァイオレットのコートだ。どうしたってわたしの趣味ではなかった。発注者はサイファ。注文したのは十時間前だ。
「なによ、このコート」
「良家の子女にふさわしいコートだ」
タグを見て、サイファがなにを考えて注文したのか、やっと理解できた。
一平方センチメートルあたり千ワットの出力に耐えるレーザ・バリア生地だ。
「レーザ・ガンって紫色なの?」
「よくできました」
こういうことだ。白色光、つまり可視光線のすべての波長の光が均等に混った光があたるとリンゴが赤く見えるのは、リンゴに他の光が吸収され、赤い光が反射されるからだ。
では、赤いリンゴに赤いレーザ・ビームを照射すると?
理論上は鏡にあたったのと同じだ。赤いレーザは反射される。
威力の高いレーザ・ガンは青から紫領域。つまり、ヴァイオレットのコートは、レーザ・ビームを撥ね退け、良家の子女を守ってくれる。
ほとんど、おまじないという気もするけど。
「ブラウスはいちばん上のボタンまで留めろ」
「いつから衣装係になったの」
「彩神音さンにブレイン・ロックが効いてると信じてもらう必要があるんだ。おとなしく、従順に」
「良家の子女らしく?」
「蕾のまま枯れたくなければ」
衛星リンク遮断のマニュアル運転、道交法違反で五十万円の罰金、免許停止処分半年間。港湾局からは事故現場の復旧費用の請求二百五十万円。
「それだけ?」
「もっと払いたいの?」
フレンチ・ツイストのなかのロック・オンのライトより剣呑に継母の眼が皓った。
「破損したコンテナの被害届とか出てないの?」
「あれは廃棄品。誰も被害を受けてない」
「警察の事情聴取は?」
「ないわよ。警察は忙しいのよ。昨日はフィリピン人のギャングが中華街で撃ち合いをやったらしくて。どうせ、ただの自損事故なんだし」
娘が死んで、クローンで蘇って、ただの自損事故ぉ?
「銛先先生に診てもらいなさい。あなた昨日は十五時間睡ってるはずなのに、徹夜明けの顔してるわ」
「わたし、ひとりで行っていい?お母さん、忙しそうだし」
継母がタブレットのスクリーンを指で叩き、うなずいた。
「シジフォス・システムのエネルギー収支が合わないのよ。これから冬に向うんだから、北半球では排熱は減るはずなのに、逆に増えてる」
シジフォス冷却レーザの排熱が生む電力の販売管理は継母の仕事なのだ。
「気になるのは周囲1キロの反射能の変化よ。北半球の全てのプラットフォームで想定よりコンマ・01から05高い」
「最近、太陽の黒点が急に増えたから、雲量が減ってるでしょ。冬至が近づくと、北半球の日照時間は短くなるけど、太陽と地球の距離は縮まるから、放熱器に当たる太陽光のエネルギーはわずかに増えるし、氷から反射されるエネルギーの正味量も増えてるはずよ。だから排熱が増えるのは当然じゃない?」
「アルベド値の変化は?」
「海水が凍るとまわりの塩分濃度が上がるから、それにつれて太陽光の吸収率が上がっているんじゃないかしら」
「全ては太陽の黒点活動のせい?」
「わたしの見立てでは」
継母が楽しげにわたしを見た。
「今四半期の収支演算のパラメータ、見直しが必要ね」
「手伝うわ」
「あなた、本当に多変量解析好きね」
「算数大好きなの」わたしは微笑んだ。
「銛先先生のあとで古本屋さんに行ってもいいかしら。ゴールドバッハ予想の本が出てて、見てから買うか、電子書籍にするか決めたいのよ」
「いってらっしゃい。帰ったらパラメータの見直し手伝って、輝理香」
「よろこんで。お母さん、いってまいります」
まるで、本当の親子みたい。
疲れた。
廊下に出るなり顔から笑顔が剥がれ落ちた。
しかし、まずい。
あやうくアルベド値のトリックを見破られるところだった。
エネルギー収支に計上されないはずの排熱から取り出した電気を闇で売り払い、五万ユーロ稼ぐ予定だったのに。
あのオバサン、思ったより切れる。
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