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少年プリズン351
体が焼ける。
タンパク質の焦げる匂いが鼻腔をつく。
「っ…………」
ちりちりと火の粉が燻る。鼻腔を刺激するのは髪の毛が焦げる異臭だ。体が熱い。知覚未満の痛みは熱でしかない。僕の時もそうだった。背後から脇腹を刺された時最初に感じたのは痛みではなく熱、衝撃ではなく違和感だった。
体の中でどろりと熱塊が蠢く、とてつもなく不快な感覚。
無意識に腹に手をやる。
手のひらに湿りけを感じ、薄目を開ける。
視界がぼやけている。
吐き気と眩暈と頭痛とに同時に襲われる。
体が熱い……痛い。脇腹が酷く疼く。
おそるおそる手をどけて脇腹を見下ろす。
上着の脇腹が血に染まっている。どうやら傷口が開いたらしい。
昨夜蹴られたせいか移動中に乱暴に扱われたかそのどちらかだ。
静流ときたら全く手加減がない。僕は重患だぞ、少しは慎重に丁重に扱ったらどうだと抗議したくとも舌が回らない。
なけなしの気力と体力を振り絞っても、鉛の如く重たく垂れ下がる瞼を開き続けるだけで精一杯なのだ。
完全に瞼を閉じてしまいたい誘惑に抗い、奥歯を食い縛り激痛を堪える。額に脂汗が滲む。ここはどこだ?覚醒時から脳裏にあった疑問を確かめるべく、疲労と激痛に霞む目を凝らしてあたりを見回す。
ふと視線を下ろし、息を呑む。
金網を隔てた下で轟々と炎が燃えている。
僕が前後不覚で座り込んでいた場所は鉄骨の骨組みの上、より詳しく言うなら横幅5メートル全長30メートルほどの高架上だった。
下から上へと視線を移動、また驚愕。
何本何十本という足場が縦横無尽に交差して上へと続いている。
頂は闇に没している。
重層的な構造が作り出す幾何学的な眺めに言葉を失う。
下は休むことなく炎を吐き続ける巨大な炉、上は要所要所で接続と連結と分岐を繰り返し無限に派生していく通路。
漸くわかった、視界が歪み続けているわけが。
巨大な炉が稼動しているせいで空気が高温となり陽炎が発生、よって周囲の光景が湾曲して見えるのだ。
呼吸を整え心を落ち着け、今一度現状を顧みる。
僕が意識を失い倒れ込んでいた通路は立体交差の中層に位置するらしく、底部の炉までは30メートル程距離がある。
炉がどれ位の深さかはわからない。こうして見ている限り底など存在しない錯覚に囚われる。
赤熱の光沢を帯びて液体化した金属が沸騰している。
核爆発にも似た閃光を放つ炉には、じっと見ているうちに体が傾いで吸い込まれてしまいそうな磁力がある。
炉に廃棄された鉄屑が溶解していく過程は炎に阻まれてよく見えない。炎の勢いは衰えるどころか激しくなるばかりで僕まで焼け尽くされてしまうのではと不安になる。
ここから突き落とされたらひとたまりもない。
炉で溶けて骨すら残らないー……
足音。
接近の気配に振り向こうとして、不意に眩暈に襲われバランスを崩す。
金網に手を付いた僕のもとへ何者かが近付いてくる。
顔を上げる前から誰だか察しは付いていた、重態の僕を医務室から拉致した張本人だ。
カシャン、カシャン。金網が鳴る。
足裏に体重を分散させた優婉な足運びにはまるで威圧感がなく、舞踊でも嗜んでいるかの如く生来の優雅さがある。
火影に照らされて泰然自若と歩み寄る人影はおよそ現実とかけ離れ、霞を食べて生きているような幽玄な印象を抱かせる。
すでに彼岸に渡ってしまったような。
現実に生きる人間ではないような、そんな矛盾した印象。
越えてはいけない一線を越えて、人の身でありながら修羅に堕ちた姿。
不安定な足取りに刹那的で危うい雰囲気を漂わせてやってきた少年が、清楚に微笑む。
「やあ、お早う。すごい汗だ。びっしょりだよ」
呑気な挨拶に怒りが込み上げる。
「……こんな場所に放置されれば誰だって汗を分泌する。君は随分涼しげな顔をしているが、自分で体温調節ができる特異体質の持ち主かそうでなくば一段階上に進化した新たな人類なのか?ついでに面白いことを聞かせてやる。哺乳類の中でもイヌやオオカミは汗腺を持ってないために温度調節ができず、そのため汗腺の代わりに長い舌を垂らして激しい呼吸を行い、それによって舌に付着したよだれを蒸発させる事で体温調整を行っているんだ。悪趣味な所長の犬が常に舌を垂らしてるわけがわかったろう、低脳め」
「相変わらず威勢がいい。好ましいよ、腹が破けても憎まれ口をやめない根性」
台詞に巧妙に棘を混ぜ、唇を綻ばす。
足音が止む。
手前で立ち止まった人物を火の粉が艶やかに彩る。
闇に爆ぜる火の粉に彩られて鮮烈に浮かび上がったのは、白鷺の生まれ変わりとおぼしき美しい少年。濡れた様に長い睫毛、憂いと潤いを含んだ目は澄んだ漆黒。線が細く肉が薄い鼻梁と華奢な顎が絶妙な均衡を保ち、薄命で儚い美貌を作り出す。
闇に映える火影が顔に化粧を施す。
しとやかな挙措とたおやかな容姿を裏切るが如く、唇だけが妖艶に赤い。
「ようこそ、レッドワークの巨大溶鉱炉へ」
静流だった。
「レッド、ワーク、だと……」
レッドワーク。
都会から運ばれてきた危険物を加熱処理する仕事、サムライと静流の仕事場。当然それくらいの知識はある。
とすると、ここがかの有名なレッドワークの巨大溶鉱炉?
レッドワーク担当の囚人とは地下停留場で乗り込むバスが別で、地下停留場を出たバスがどこへ向かうかも僕は知らない。僕が知っているのは広い砂漠のどこかに危険物を加熱処理する溶鉱炉があり、レッドワークの囚人が働いているという端的な事実のみ。
待て、静流の話はおかしい。矛盾だらけだ。
「待て。ここがレッドワークの溶鉱炉だとするなら、どうやって僕を連れてきた?」
頭が酷くずきずきする。
脳裏が朦朧と霞みがかって記憶がはっきりしない。
固く目を閉じて昨夜の顛末を思い出す。
医務室で就寝中に看守に化けた静流に襲われた、首をナイフで切り付けられた、それきり気を失って……
口の中に苦味を感じる。
唾液が苦い。
なんだこれは?いくつかの断片がフラッシュする。
僕に圧し掛かり無理矢理口をこじ開ける静流、口に突っ込まれる指、口腔に放り込まれた錠剤が溶け出し独特の苦味が広がり喉を通り……
あのクスリは何だったんだ?
静流が持っていたのだからどうせろくなクスリじゃないだろう。クスリを飲んだあとの記憶がないのもおかしい。
記憶の欠落とクスリが関係している?
頭がくらくらする。
気分の悪さと戦いつつ、片手で頭を押さえて口を開く。
「レッドワークの溶鉱炉にくるにはバスを利用するしかないが囚人との相乗りは避けられない。静流、君はどうやってこの難題をクリアした?他の囚人にバレる危険を犯してまで失神中の僕を連れてバスに乗り込んだのか、いや、そんなことは絶対に不可能だ!地下停留場のバス停に並んだ時点でつかまるに決まってる、君は柿沼を殺し医師を殺し独居房を脱走した凶悪犯だ、東京プリズン中の看守が君の行方を追ってるんだぞ!」
悪戯っぽく目を細め、内緒だといわんばかりに唇に人さし指をおしあてる。
「君に飲ませたあの錠剤、ね。人を操り人形にするクスリなんだ」
謎めいた示唆に不安が増大する。
「な、に?」
人を操り人形にする?どういうことだ?
あのクスリによって意志を奪われて静流の思うがままに行動したということか?
まさか。そんなクスリ聞いた事もない。衝撃を受けた僕にしなやかにくねりより、自分の唇にあてた指をそっと僕の唇へと移す。
間接的な接吻。
僕の唇に触れたまま、淡々と説明する。
「自白剤の一種。リョウ君から貰ったんだ、暗示にかかりやすくするクスリを。君には予想以上に効き目があったらしいね、クスリを呑ませた途端に目がとろんとして僕に言われた通り行動するようになった。あれを呑んだ人間は一時期的な催眠状態になって命令を遂行する。直君、君は自分から僕についてきたんだ。僕には絶対逆らうな、何でも言われたとおりにしろって暗示をかけたせいでね。全治二ヶ月といっても半分は経ってるんだ、歩いて歩けないわけじゃない。よろめいた時は腕を掴んであげたし」
「心の中で三秒数えてから馬鹿を言え。IQ180の天才たるこの僕がそんな初歩的な暗示にかかって下僕と化すはずなかろう」
プライドにかけて反論するも腹に力が入らず声から空気が抜ける。
ぼんやりと記憶がよみがえる。
バス停の列に並んで夢遊病者めいた足取りでステップを踏みバスへと乗り込み、目立たないよう顔を伏せて、静流の誘導で隅の席へ押し込まれて……
「仮に、仮に貴様の荒唐無稽支離滅裂倫理破綻の戯言が真実だとしよう。だがそれでもまだ疑問が残る、何故バス停に並んでいた時に怪しまれなかったのだ?レッドワークには東棟の人間もいる、東棟の人間が君と僕に気付かないはずない」
「そうかな。それこそ先入観じゃない?」
静流が苦笑する。
「思い出してもごらんよ、昨日の東棟は大騒ぎだった。僕が曽根崎の魔羅を噛み千切って独房をでたせいでね。さて、看守はどこを捜す?最初に捜すのは当然東棟だ。なんたって僕は東棟の人間だし知り合いに匿われているとも限らない。看守は東棟の囚人を追い出して片っ端から房をひっくり返して僕がいないか改めた。無粋なガサ入れは夜遅くまで続き、可哀想に東の囚人たちは極端に眠りを削られるはめになった」
嫌な予感が徐々に現実の形を取り始める。
静流の言わんとしていることがおぼろげに察しが付き、そんなまさかという衝動的な反駁が喉元まで出かけるのをぐっと堪える。
腕を回して腹を庇い、全身に敵意を漲らせ静流を睨み付ける。
静流の種明かしは続く。得意げに。
「東の囚人は寝坊する。昨日ろくに寝させてもらえなかったんだから当たり前だ。東棟の囚人は始発バスに乗り遅れる。別に始発バスを逃したところで問題はない、レッドワーク行きのバスは他に出てるんだから」
「他棟の囚人は僕たちを知らない、顔を見られても問題はない。看守にしても脱走者が強制労働に出るわけないと思い込み、バス停付近はノーマークだった。盲点だな」
「『問題ない』?東京プリズンに来たての僕ならそう言えなくもないけど君は違う、それはちょっと謙遜がすぎるってものさ」
静流がおどけて肩を竦め、正面に片膝付く。
僕の顔を両手で手挟み、真っ直ぐ目を覗き込む。
「噂によるとペア戦に出たこともあるんだって?仲間思いで結構な事だ。もちろん他棟の人間で君を覚えてるヤツもいる、ペア戦の舞台に上がった人間を今だに記憶してるヤツがいる。だからね、ほら」
違和感を感じる。静流の顔がぼやける。
こんな至近距離にいるにもかかわらず……
そこで初めて気付く。
怪我の痛みで頭が朦朧としてなかったらもっと早く気付いたはずだった。
「貴様、恵とサムライの次に大事なメガネをどこにやった!?」
我が意を得たりと静流が微笑み、もったいぶった仕草で懐からメガネを覗かせる。
「先入観を逆手にとったのさ。人の記憶なんて所詮曖昧なもの、髪形を変えただけで誰だか分からなくなることもざらにある。メガネをとっただけで誰だか分からなく事もね。メガネをかけてる人間自体が少ない東京プリズンでメガネをかけてる囚人、鍵屋崎直とメガネを抱き合わせで覚えてる囚人は予想以上に多い。鍵屋崎直といえばメガネ、メガネといえば鍵屋崎直。そんな君からメガネをとったら……どうなる?」
メガネを上下左右に振っておちょくる静流に激怒、叫び返す。
「メガネのない僕などただの天才だ!」
「ただの無個性な囚人だ。ずっと俯き加減でいれば顔もわからない」
片腕で腹を庇った不自由な体勢でメガネを取り返そうとするも手は虚しく空を切るばかり、動きが素早くてつかまえられない。
重患をおちょくるとは本当に性格が悪い。サムライと血が繋がってるのが信じられない。
「くそっ、メガネを返せ!メガネがなければ何も見えない、サムライの顔だって見えないんだぞ!」
屈辱と惨めさを噛み締め、静流の手からメガネを奪い返そうと躍起になる。
鼻先に吊られたメガネを取り返そうと膝立ちになれば、脇腹に激痛が走る。体を動かしたせいで傷口がまた開いたらしい。激しい運動は傷にさわるとわかっていながらも挑発に乗せられてしまうのが悔しい。
深々と体を折り曲げ、苦鳴を発して悶絶する。全身の毛穴が開いて脂汗が噴き出る。たまらず前のめりに倒れた僕の顎先をスニーカーのつま先で起こし、静流が目を光らす。
「他棟の囚人や看守に見つかる危険を犯してまで君をここに運んだのは、ここがいちばん復讐の舞台にふさわしいと思ったからさ」
スニーカーのつま先で顎を起こされ、憤りを感じる。
静流の足元に這いつくばったみじめな体勢から起き上がろうとするもうまくいかない。
眩暈と激痛に唇を噛み締め抗い、気力と体力を振り絞ってゆっくり慎重に体を起こすも、あえなく肘が滑り突っ伏してしまう。
僕の努力をあざ笑うごとく、予言めいて達観した声が響き渡る。
「もうすぐ貢くんはここに来る。今なら強制労働が終わったあとで邪魔者はいない、地獄の炉の縁で存分に斬り結べる。君は強制労働が終わるまでずっと資材の中に隠しといた。足場を組む為の資材の鉄骨がちょうどいい隠れ蓑になってくれた。彼は必ずやってくる、危険を承知で死を覚悟で僕が待つここへとやってくる。由緒正しき帯刀本家の跡取りが命欲しさに逃げるわけない、君一人おいて逃げるわけがない。ねえ直くん、君もそう思うでしょ。十ヶ月もの間貢くんのそばで貢くんを見詰め続けた君なら帯刀貢がどんな人間かよくわかるでしょう」
「勇敢な、男だ」
優しい、男だ。
「そのとおり」
僕の答えがお気に召したのか、静流が満足げに首肯する。
僕の顎先から薄汚いスニーカーをどけ、またしても僕の顔を手挟み、噛んで含めるように言い聞かす。
静流の目に吸い込まれる。
どこまでも純粋で、危うい光を孕んだ双眸。
「今度こそ彼はここに来なくちゃならない、間に合わなくちゃならない。一度目は間に合わなかった、苗さんの死に際には間に合わなかった。好いた女ひとり見殺しにしておきながらのうのう生き延びて恥をさらしたんだ、帯刀貢は。それだけじゃない。彼は君のときだって間に合わなかった、君が僕に犯されて刺される前に駆け付けることができなかった。二度だ。性懲りもなく二度過ちをくりかえした、二度も大事な人の窮地に間に合わず救い出すことができなかった武士の魂が試される、それが今この刻だ!三度目の正直はあるかな、今度こそ貢くんは間に合うかな?大事な人を殺してばかりの帯刀貢、いつも遅れてくる男、肝心な時に間に合わない男!ああ可笑しいね可笑しいね、どうして貢くんはこんなに間が悪いんだろう、身内の情だの従弟への愛着だのくだらない感情に拘泥していちばん大事な人を守れないんだろう!?」
静流が身を仰け反らせ哄笑する。
癇性な笑い声に呼応するかのように次々と火の粉が爆ぜる。連鎖的に爆ぜる火の粉に腕を差し伸べ踊り狂い、空虚に笑い続ける。
静流は異常だ。明らかに狂っている。
来るな、サムライ。
「……サムライは、どうしようもなく弱い男だ」
来るな。来るべきじゃない。僕など見捨ててかまわない。
医師を殺し僕を拉致し、そうまでしてサムライをおびきだそうという静流の行動は完全に常軌を逸している。いかに技量が上といえど、理性の枷を解き放たれて本能のままに刀を振るう修羅を相手に無事ですむはずない。
苦戦を強いられるのは確実。
最悪、死亡する可能性もある。
息を吸い、吐く。
呼吸を一定に激痛がひくのを待ち、断言する。
「サムライは愚かだ。貴様のうそ臭い芝居を見抜けなかったのは目が節穴だからだ、身内の情に流されて貴様の本質を見誤りありもしない希望に縋っていた。薄々本性に勘付きながらも敢えて目を逸らし続けたのは愚の骨頂だ、よりにもよって僕ではなく貴様を選んだのは最大の失策、最大の誤算だ。ああ、貴様の言う通りだ!サムライは愚かで弱い男だ、物心ついた頃からともに遊んだ従弟と再会してできる限り力になってやろうとした、貴様のことを親身に気にかけて人生を狂わせた償いをしようとした、鈍い頭を懸命に働かせて不器用な手先を懸命に働かせて一生かかっても成し得ない『償い』の『購い』をしようと必死になっていたんだ!!!」
脂汗が目に流れ込む。
一言一言吐き出すたびに脇腹に激痛が走る。
文字通り身を引き裂かれる痛み、脇腹に楔を打つ痛みだ。
片手を拳に固めて金網をぶつ。金網が撓み、体に振動が伝わる。
『窮地に間に合わなかった』?それがなんだ。表面だけ見て物を言うな、決め付けるな、僕と彼のあいだにあるものを断ち切るな。
サムライはちゃんと、ちゃんと間に合った。
僕が呼べば必ず来た。
犯されても刺されても手遅れじゃない。本当に手遅れなのは僕が彼を嫌いになった時、彼の顔など見たくない声など聞きたくない触れたくない触れられたくないと存在そのものを否定した時だ。
僕が手遅れだと思ったときが、本当に手遅れなんだ
手遅れかそうじゃないかを決めるのは僕自身だ。
他の人間であっていいはずがない、絶対に。
それ以外は手遅れじゃない。サムライはいつだってちゃんと間に合った。僕が呼べば必ず来た、顔を見せてほしいときに見せてくれて声を聞かしてほしいときに聞かせてくれて触れてほしいときに触れてくれた。
手遅れであるものか。
でも、今度だけは。
「サムライに、苗を追ってほしくない!!」
手遅れで、あってほしい。
『償い』の『購い』ならもう十分じゃないか、十分すぎるほどよくやったじゃないか。もういい、許してやれ。自分を許してやれ。頼むから自分を責めるなサムライ、苗を救えなかったことで僕を怪我させたことで自分を責めて思い詰めるな。
死にに来るな。
生きてくれ。
「たかが血縁の分際で思い上がるなよ、静流。ヒトの血液量は体重のおよそ 13分の1だ。13分の1の鉄棒の味がする水に人生を狂わされただの操られてるだの迷信も大概にしろ。不幸を血のせいにするな。人の不幸が血によるなら残り13分の12は自分のせいだ、トラウマを脱却できず現実と折り合いがつけられず妄想に逃げ込む惰弱な精神のせいだ、貴様とサムライの繋がりなどたった13分の1に過ぎないんだ!!!」
腹の奥底から突き上げる激情に駆られて咆哮する。
腹が痛い。脇腹の刺し傷が激痛を訴える。けれども叫ばずにはいられない、帯刀家の呪縛からサムライを解き放ちもう自分を責めずともいいと諭したいのだ。
絶叫の余韻が業火の唸りにかき消される。
静流は感情の消失した目でこちらを見詰めている。
「たった13分の1、か」
静寂の水面に呟きが落ちる。
静寂の水面に不吉な波紋を広げた呟きの主は、静流。腹を庇って倒れた僕を見下ろし、抑揚なく続ける。
「……そうか。そんなものだったのか。その程度のものにこだわっていたのか、姉さんは。僕は。苗さんは」
伏せた双眸に一抹の悲哀が宿る。
「本当に………帯刀の人間は、救いがたい馬鹿ばかりだ」
静流が緩やかに懐に手を忍ばせる。
再び懐から出た手には、縄が握られていた。
「縛るのか?服装倒錯に続いて緊縛趣味とは、変態の末期症状だな」
口では強がってみたものの、脇腹の痛みのせいで声に力が入らず虚勢にしかならない。静流が少し哀しげに微笑む。いつだったか、夕焼けに染まる展望で見たのと同じ微笑だ。
展望台と場所こそ違えど、ここもまた紅蓮に燃える煉獄には違いない。
煉獄とは、天国に入る前に炎によりて罪業を浄化する場所だ。
「………………っ、」
腹を押さえたままあとじさる。ロープを手に垂れ下げて、静流がゆっくりとこちらにやってくる。
「わざわざ縛らなくても逃げたりしない!」
いつロープで首を絞められるか気が気じゃない。
ロープで絞殺されるのを恐れて首を振れば、僕の傍らに屈みこんだ静流が、奇妙な節回しで口ずさむ。
「苗さんは首を吊って死んだ。折角だからあの時と同じ舞台を整えて迎えてあげようじゃないか」
静流が僕の背に片膝乗せて圧し掛かる。激痛で視界が真紅に染まる。ちょうど脾臓の上あたりを膝で圧迫され抉られ穿たれ痛い痛い痛いなんてもんじゃない死ぬあああああああああああ痛い痛い呼吸ができない!!!
手足をばたつかせ抵抗するも怪我のせいで力が出ない。
両手が纏めて頭上に持ってこられてロープが巻かれる、手首を戒められ腕が開けず完全に抵抗を封じられる。両手をきつく縛り上げられたせいで脇腹を庇うことすらできなくなる。
「やめ、ろ、しず、るっ……あくしゅ、み、だぞ」
「緊縛は得意なんだ」
「重患を緊縛するなと言ってるんだ……」
それ以上言葉を発することができず首を項垂れた僕を引きずり、腋の下に手をさしいれて抱き起こす。
意識朦朧としたまま、体が手摺を乗り越えるのを感じる。
静流が僕の体を手摺の向こうへと押し上げる。
火の粉が服を炙り、上着とズボンが焦げる。
「炉に落とす気か」
足の下に炉がある。
「太陽の中心は密度が1.56×105kg/m3で、熱核融合反応によって水素がヘリウムに変換されている。1秒当たりでは約3.6×1038個の陽子すなわち水素原子核がヘリウム原子核に変化しており、これによって1秒間に430万トンの質量が3.8×1026Jのエネルギーに変換される。……待て、溶鉱炉とは製鉄所の主要な設備で鉄鉱石から銑鉄を取り出すための炉だ。ならば溶鉱炉という名称は不適切で焼却炉と呼ぶべきか、しかし焼却炉はあくまで可燃物を燃やす施設であり不燃物まで燃やしているなら焼却炉は正しくない」
どうでもいいことを唱えて平静を保とうとするも今にも生身で溶鉱炉に落とされそうなこの状況下で平常心を保てるはずない精神崩壊を起こしそうだ。
僕の体の下では溶鉱炉とも焼却炉ともつかない巨大な炉が世界を焦がす勢いで凄まじい熱量を放射している。
落ちたらひとたまりもない。
「地獄を下見してきて」
「―――――――――――――っああ!!」
静流が耳元で囁くと同時に縄がすべり急降下。
炎の坩堝に呑み込まれた。
[newpage]
鍵屋崎が消えた。
サムライの従弟に拉致られた。
「こんな時に強制労働行だと!?なに考えてんだよサムライはっ」
怒りに任せて壁を殴る。衝撃で拳が痺れる。
房に帰ってきてからこっちイラつきどおしだ。手当たり次第に壁を殴り付けて鬱憤ぶちまけるも手を痛めるだけで何も解決しない。
それはそうだが、壁でも殴らなきゃやってらんねえ。
独房を脱走したシズルが医務室を襲撃、見張りの看守と医者を刺して鍵屋崎を拉致った事件で東棟は持ちきりだ。
鍵屋崎にはさんざん世話になった。
こっぱずかしくて言えないが、兄貴みたいな存在だ。
その鍵屋崎が看守二名と医者を殺した凶悪犯と一緒にいる。
脇腹刺されて全治二ヶ月の重傷でベッドから動けない体なのに、無理が祟って傷口が開いちまったら大変だ。時間が経つにつれ苛立ちと腹立ちは募る一方、壁を殴るだけでは気がすまずに足がでる。
「落ち着けよ、ロン。お前が壁破壊したってキーストアはもどってこねーぞ」
「余裕ぶっこいてんじゃねーよレイジ、お前鍵屋崎が心配じゃねえのかよ!?」
ベッドに腰掛けて優雅に足を組んだ王様に憤懣をぶつける。
レイジは退屈そうに胸元の十字架をまさぐっている。
色硝子に似て醒め切った目を過ぎるのは、しみったれた感傷とは程遠い酷薄な色だ。
「心配だよ、もちろん」
「だったら王座から腰を上げろよ、鍵屋崎をさがせよ!お前に人望ないのは俺だってわかってるよ、それでも王様の命令は無視できねえだろ、王様の影響力は絶大だろ!?東棟の奴らにひと睨みで言う事聞かせるのもできなくないはずだ、お前がその気になりゃシズルとっつかまえて鍵屋崎見つけだすのもわけねーのに……聞いてんのかレイジ、耳垢ほじくってんじゃねえよ!!」
「単純だな」
耳に人さし指を突っ込んでねじり、あきれたふうに首を振る。
無神経な一言に怒りが沸点を突破、憤然たる大股でレイジに歩み寄る。レイジはベッドに座ったまま、絶対的優位を誇示して俺を待ち構える。人さし指に付着した耳垢をふっとひと吹き、左目に悪戯っぽい光を閃かせる。
「喧嘩売ってんのかよ。買い叩いてやるよ」
精一杯ドスを利かせた声音で威圧する。
俺はめちゃくちゃ気が立っていた。
鍵屋崎は見つからないシズルはどこにいるかわからない肝心のサムライは強制労働先から帰ってこない八方塞がり状況だ。
俺も本来なら房にシケこんで壁に八つ当たりしてる場合じゃない、いますぐ房をとびだして鍵屋崎の捜索に加わって東京プリズン中を駆けずりまわるべきなのだ。そうだ、俺だって本当はそうしたい。鉄扉をぶち破って廊下をひた走って鍵屋崎の居場所を突きとめたい衝動を塞き止めるのに自制心を使い果たしてるのだ。
それもこれも、レイジが余計なことを言うからだ。
「……レイジ、いい加減説明しろよ。なんだって俺が房を出ちゃいけないんだ、鍵屋崎をさがしにいっちゃいけないんだよ」
「迷子になるからさ」
「殺すぞ」
「おー怖」とレイジが首を竦めるも冗談に乗ってやる気分じゃない。 心配事が多すぎて軽口を叩く余裕がないのだ。
不機嫌な俺の視線の先、しれっと取り澄ましたレイジに沸々と怒りが込み上げる。体の脇で拳を握り込み思い切りぶん殴ってやりたい衝動を自制する。レイジもサムライもあんまり薄情だ。鍵屋崎がシズルに拉致られたってのに頼りの王様は再三急かしても腰を上げねーし、サムライに至っちゃレッドワークの鉄火場から帰ってきやがらねえ。
レイジは勿論腹が立つが、許せねえのはサムライだ。
サムライの行動は理解不能だ。
鍵屋崎が拉致られて酷くショック受けたのはわかるし同情もする、だからっていつも通りに強制労働に出るこたないだろうが。一日くらい強制労働をすっぽかして鍵屋崎の捜索に当てりゃあいいのに……
「わけわかんねーよ、畜生。お前もサムライも最低だ」
口元をひん曲げて吐き捨てる。
「鍵屋崎は、仲間じゃねーのかよ」
クサイこと言ってる台詞はある。
だからってやめたりしない、糾弾の舌鋒を引っ込めたりはしない。
少なくとも俺は鍵屋崎のダチのつもり、仲間のつもりだ。鍵屋崎本人がどう思ってるかは知らないけど……多分「迷惑だ」と露骨に顔を顰めて一蹴するだろうが、それでも俺は鍵屋崎をダチとして信頼して心配してる。レイジとの仲を取り持ってくれた事に感謝している。
瞼を閉じて回想する。
売春班廃止をかけて臨んだペア戦にて鍵屋崎はピンチヒッターとして名乗りを上げた。肋骨へし折られた俺の代わりに体を張ってレイジの暴走を止めてくれた。
挑むようにレイジを見据え、焦燥に駆り立てられ激情をぶちまける。
「お前鍵屋崎のこと何とも思ってねーのかよ、骨へし折られて顔潰されて歯を引っこ抜かれても構やしねえって思ってんのかよ?なあそうなのかレイジ、お前が大事なのは世界に俺一人で他はどうでもよくて、東京プリズンで出会った他の連中もお前にとっちゃどうでもよくて、一緒に戦ったサムライや鍵屋崎が死にかけようがどうしようが俺さえ無事ならそれでいいって涼しいツラしてんのかよ!?」
なんだよそれ。
そんな愛されかた、ぜんぜん嬉しかねーよ。
無意識に手が伸びて上着の胸ぐらを掴む。
レイジはされるがまま無抵抗に俺を見上げている。
酷く醒めた目だ。
どんなに誠意を尽くして説得しようとも熱烈に翻意を求めようとも、興味がないことには指一本動かさないといったあっぱれな開き直りっぷりだ。
涼しげなツラが癪に障り、乱暴に胸ぐら掴み上げる。
「見損なったぜ、レイジ。お前だけじゃねえ、サムライもだ」
レイジの胸ぐらを両手で握り締め、俯く。
怒りに紅潮した顔と興奮に潤んだ目を見せたくなかったのだ。
何故だかひどく哀しかった。
娑婆に友達がいなかった俺は、東京プリズンにレイジに出会ってダチができた。鍵屋崎とサムライに出会って初めて仲間ができた。食堂でレイジとじゃれあって鍵屋崎に行儀が悪いと注意されてサムライに一瞥されて、そんな当たり前のくだらない日常が、平和に馬鹿騒ぎできる日常が俺には最高の喜びだったのだ。
泥沼で憎しみ合う台湾人と中国人の混血、男癖の悪い娼婦をお袋にもつ半々と物心ついた頃からずっと世間に後ろ指さされてきて、東京プリズンでレイジと鍵屋崎とサムライに出会って生まれて初めて居場所ができた。
ダチができたんだ。
大事なダチが。
レイジはそうじゃないのか、俺と同じ気持ちじゃないのか?
俺以外は本当にどうでもいいのか、鍵屋崎がどうなろうが知ったこっちゃないと高をくくって「ふーん」で済ましちまうのか、一貫して無関心な態度であしらうつもりなのか。
鍵屋崎はレイジにとってもダチじゃないのか、体を張って自暴自棄を諌めてくれた恩人じゃないのかよ?
「俺は、鍵屋崎が好きだ」
口から零れたのは素直な言葉、鍵屋崎に対する正直な気持ち。
変な意味じゃない。俺は鍵屋崎が好きだ、鍵屋崎のそばで安らぎを感じる。鍵屋崎は口は悪いし愛想はないけど実は仲間思いのイイヤツで、俺はそんな鍵屋崎が好きで、ある意味レイジよかよっぽど頼りになるヤツだと思っているのだ。
「お前はどうなんだよレイジ、鍵屋崎が好きじゃないのかよ。俺と同じ好きじゃなくてもちょっとは好きだろ、仲間思いのイイヤツだなって思ってるだろ」
「からかい甲斐のあるヤツだとは思うよ」
レイジがそっけなく頷き、宥めるように俺の手をさする。
「落ち着けよ、ロン。ヨンイルが西の連中かりだしてキーストアさがしまわってる。遅くとも今日中には見つかるだろうさ。西の道化はアレで頼りになるヤツだ、俺なんかよりよっぽど人望あってダチ想いで……」
瞼の裏で閃光が爆ぜる。
「ヨンイルなんかどうでもいいよ、俺が聞いてんのはお前の気持ちだよ、お前鍵屋崎が好きじゃねーのかよ!?」
「好きだよ!!」
レイジを殴り飛ばそうと振りかぶったこぶしが空を切り、前のめりに体勢を崩す。突如レイジが立ち上がり逆に胸ぐらを掴み返す、上背のあるレイジに胸ぐら掴まれて宙吊りにされ、首が絞まる息苦しさに喘ぐ。勢い余って俺を宙吊りにしたレイジの目をまともに覗き込み、言葉を失う。
「俺だってキーストアが心配だよ。アイツにはさんざんケツ拭いしてもらったんだ、死ぬほど感謝してるよ!アイツがいなきゃロン、お前とだって喧嘩別れしたままだった。鍵屋崎がガツンと喝入れてくれなきゃ俺はずっと腹ん中吐き出せずに笑顔で自分偽り続けて、これから先もずっとお前を騙してくしかなかった。そうだよ、俺の世界はとことんお前中心に回ってるよ、ロン!」
一息に宣言したレイジが、静かに俺を下におろす。
「……けどな、その中心に近いところに鍵屋崎とサムライがいるんだよ。王様の愉快な下僕たち、もとい……愉快なダチがな」
「ダチ」を少し照れくさく言い、決まり悪げに黙り込む。
やっと、やっと気付いた。
レイジの手元に注目して、ふてぶてしく余裕を演出する王様の本心を悟った。
レイジは鍵屋崎がいなくなった時からずっと、鍵屋崎の身に異常が起きたと聞いて医務室に直行した時からずっと胸元の十字架をまさぐり続けていた。華奢な金鎖を二重三重に指に絡めて手に巻き付けて、ともすると逆の手順でまたほどいて、内心の苛立ちと不安をごまかそうと傷だらけの十字架を弄り続けていたのだ。
「……食堂のテーブルに肘付いて、鍵屋崎に叱られたことあったっけ」
レイジが懐かしそうに目を細める。
伏し目がちに微笑むレイジにつられて苦笑、十字架に手を重ねる。 「口うるさいよな、アイツ。小姑みてえ」
十字架ごとレイジの手を包む。
指に絡んだ鎖が澄んだ旋律を奏でる。
十字架はしっとり汗ばんでぬくもっていた。レイジの体温が移ったのだ。
うっすら汗をかいた十字架をなで、目を閉じる。
「……でも、いないと寂しいな」
レイジと手を合わせているだけでささくれだった心が癒されていく。
夕闇の迫る房にふたりきり、言葉もなく立ち竦む。
奇妙な静けさがあたりを包む。
東棟の囚人はシズルさがしに出払っていて近隣の房はからっぽ、格子窓の向こうもひっそり静まり返っている。
「……鍵屋崎、どこにいんだろ」
「教えてやろうか?」
「え?」
思いも寄らぬ言葉に鞭打たれて顔を上げる。
驚いた俺の眼前、レイジがおもわせぶりな微笑を浮かべる。
世界の終末を予言するような、背筋が寒くなる笑顔。
「レッドワークの巨大溶鉱炉。鍵屋崎はそこにいる」
世界を掌握する全能感を宿した声が、思いがけない真実を告げる。 口を半開きにしたまま、腑抜けた顔で立ち尽くす俺を面白そうに眺め、レイジが笑みを深める。
「なん、で、わかるんだよ?」
「置手紙に書いてあったろ、『炉にて待つ』って。東京プリズンで炉といったら真っ先にどこを思いつく?レッドワークの溶鉱炉だろ」
危うく叫びそうになった。
俺は馬鹿だ。漸くわかった、「炉」の意味が。あの時のサムライの表情の変化、憤怒の形相のわけも。
「サムライも一発でわかったんだろうな、真相が」
「待てよ、じゃあなんで俺たちに言わないんだよ?まさかアイツひとりで助けに行くつもりかよ、無茶だよ、何考えてんだよサムライ!?ちょっと待て、じゃあ今の時間になってもサムライが帰ってこないのはレッドワークの溶鉱炉でシズルと対決するつもりで……こうしちゃいられねえ、ヨンイルに知らせにいかなきゃ!」
鍵屋崎の居場所がわかったんなら助けにいかなきゃ……
泡を食って駆け出した俺の肘をレイジが掴んで引き戻す。
「止めんなよレイジ、はなせ、はなせよ!はやくしねーと手遅れになっちまう、鍵屋崎が溶鉱炉におとされてどろどろに溶かされちまうよ!くそっ、サムライの奴こんな大事な時にまだ従弟との果し合いだの武士の意地だのつまんねーことにこだわってんのかよ、シズルとの対決邪魔されんのがイヤで手紙破いて証拠隠滅したんだろ、ふざけんなよアイツ、鍵屋崎の身をいちばんに考えるんならつまんねえ意地張らずにまわりの連中頼るべきだろ、ヨンイルに応援頼んで子分総出で溶鉱炉に向かえば……」
「ジ・エンド」
はっと振り返る。
背後から俺を押さえ込み行かせないようにしたレイジが、耳元で囁く。
「サムライの判断は正しかった。サムライは鍵屋崎の安全をいちばんに考えて行動したんだ。だからこそ真っ先に手紙を破った、自分以外の人間にシズルの居所がバレないよう証拠を消したんだ。冷静になれよ、ロン。シズルは完璧にイカれてる。ためらいなく、むしろ嬉々として人を殺す。鍵屋崎の命なんざサムライをおびきだす美味しい餌か便利な道具くらいにしか思ってないあいつが唯一こだわってんのがサムライへの復讐だ。俺だって詳しい事情は知んねーけど、シズルが心の底からサムライを憎んで憎んで憎み抜いてんのは最初に会った時からわかってたよ」
心臓が凍る。
レイジは初対面の時からシズルの本性を見抜いてたのか?
シズルの本性を見抜いてちょっかいかけたってのか。
信じ難い心地でレイジを振り仰ぎ、固唾を呑んで次の言葉を待つ。
「なんでわかるかって?俺が『憎しみ』だからさ」
俺の体に腕を回し、緩やかに手を組み合わせ抱擁する。
女を腰砕けにする甘い美声がスローテンポで流れる。
「シズルはサムライをおびきだすためにキーストアを拉致った。シズルの目的はサムライを呼び出して決着をつけること、邪魔者はおよびじゃない。サムライがぞろぞろ仲間を引き連れて溶鉱炉に乗り込んだらシズルは笑顔のままキーストアを炎ん中にぶちこむだろうさ、約束を破っただの真剣勝負をおとしめただの僕を馬鹿にしてるだの勝手な理屈を捏ねてな。サムライはそれを恐れた。シズルはサムライの昔なじみだ、シズルの性格は誰より身近なサムライがいちばん知り抜いてる。大体ヨンイルが頭数揃えて救出に向かったところで、シズルんとこに行くまでにキーストアを炉に叩き込まれちゃ話になんねーだろ」
生殺与奪の権はあくまでシズルが握っている。
今現在、いちばん鍵屋崎の近くにいるのはシズルだ。
シズルの思惑に反して大人数で救出にいくのは人質を殺してくれと言っているようなものだ。シズルは一対一の対決を熱望している。
サムライとの勝負を中断する目障りな他人がぞろぞろ現れたら……
鍵屋崎の命運は尽きる。
「…………!っ」
固く閉じた瞼の裏側に浮上する光景……轟々と燃え滾る溶鉱炉へ真っ逆さまに落ちていく鍵屋崎。
激しくかぶりを振って最悪の想像を追い払おうとするも後から後から不吉な連想が過ぎり知らずレイジに縋り付く。
俺の腹にしっかり腕を回して抱擁するレイジ。
俺がついているから大丈夫だと言い聞かせるように密着、子守唄のリズムで体を揺らす。
「サムライを信じろ。鍵屋崎は帰ってくる」
逞しい腕に身を委ねる。首の後ろに吐息を感じる。
腕の中で俺を守り、首の後ろに顔を埋め、汗の匂いを嗅ぐように鼻の頭を擦りつける。
「お前と俺のダチがそう簡単に死ぬわきゃねーだろ、ロン」
「……あったりまえだ。野良猫並にしぶてえ俺のダチが炉で炙られた位でおっ死ぬもんかよ。サムライも鍵屋崎もけろりとして帰ってくるに決まってる」
レイジの腕を掴んで虚勢を張る。背中に心地よい体温を感じる。
二つの鼓動が一つに重なり溶け合っていくー……
慌しい靴音が廊下を駆けてくる。
「バスジャックだ、西の道化がバスジャックを起こしたぞ!」
「!?なっ、」
驚きの余り肘が跳ね上がり、レイジの顎を強打する。
顎を押さえて悶絶する王様をよそに鉄扉を開け放てば、今しも息を荒げて廊下を走ってきた囚人が大袈裟に騒ぎ立てる。
「西の道化がご乱心だ、『金田一ばりの名推理で直ちゃんの居所解き明かしたで、ほなら殴りこみや!』と息巻いてバスジャック、ハンドル回して砂漠に出ちまった!」
「マジかよそれ」
「バスジャックたあ派手だな」
「てか運転できたのかよ、アイツ」
「免許もってんのか」
「どうせ漫画のうけうりだろ、カペタとかレツゴーとかさあ……」
全身の毛穴が開いて大量の汗が噴き出す。
廊下のど真ん中で口角泡飛ばして捲くし立てる囚人のまわりに、シズル捜索を打ち切って房に引き上げた野次馬が群がり始める。
えらいことになった。
「今の聞いたかレイジ、ヨンイルがバスのっとって砂漠に出ちまったって……畜生、どうしてこう次から次へと問題起こるんだよ!?ヨンイルの奴じっとしとけよ、鍵屋崎が心配なのはわかるけどバスジャックなんざやりすぎだ、バス一台ぶんどって勝手に砂漠に出たことがばれたら懲罰房送り……いや、その前に運転できんのかよ!?事故ったらシャレになんねーぞ!!」
恨みがましい涙目でこっちを睨むレイジの腕を引っ張り、無理矢理廊下に連れだす。
「俺たちも地下停留場に行くぞ!ヨンイルが行動起こしたってのにじっとしてられっかよ、俺だってホントは鍵屋崎助けたいんだよ、アイツらの力になりてーんだよ!!」
俺にもできることがあると証明する。
鍵屋崎のダチとしてサムライのダチとして、レイジの相棒として恥ずかしくない働きをするんだ。
俺とレイジが揉み合ってる今この瞬間も鍵屋崎は炉の上に吊るされてサムライはシズルとの対決でぼろぼろになってヨンイルがぶんどったバスは砂漠で転覆してるかもしれない、イヤだ、俺はイヤだ、大事な仲間が危険な目にあってるってのに無力にあぐらをかいてあがきもせずにいるのはごめんだ、ダチの為に何もできなくても何もしようとしない最低の人間になるのだけはごめんだ!!
奥歯で嗚咽を噛み殺し、真っ赤に腫れた目でレイジを睨み据える。
レイジは顎をさすりながら黙っていたが、ふいに表情が和む。
降参のほほえみ。
レイジが無造作に片手を掲げる。
「シェ―ラザードを助けにいくぜ」
漸く意図が飲み込めた。安堵とこっぱずかしさと喜びとが一緒に湧き上がり、温かい感情が胸を満たす。
どうする、今ならまだ引き返せるぞと言いたげに唇ひん曲げた嘲弄の表情で俺を見下し、レイジが覚悟を試す。
『Do we go to hell?』
地獄に行くか?
答えは決まってる。
返事の代わりに音高く手のひらを打ち合わせる。
コンクリ剥き出しの通路に痛快な音が響く。
『我想去地獄!!』
地獄に行くぞ。
最高のダチと相棒をもって、俺は幸せ者だ。
[newpage]
「う………」
炉に熱された大気に歪みが生じる。
軸の歪んだ視界に火の粉が爆ぜる。
大量の脂汗が額に滲む。
手首の皮が攀じれて血が滲む。
いつだったか、悪趣味な看守の手でシャワーのフックに吊られたことを思い出す。あの時味わった苦痛と屈辱が現実に被せて生々しくよみがえり、奥歯を噛む力が増す。
「痛っあ……」
口から苦鳴が迸る。
縄が手首に擦れる痛みにも増して耐えがたい脇腹の痛みが再発する。
臓物に重力の負荷がかかり自然と体が仰け反る。
声をおさようとしても無理だ。
理性が痛みに打ち克てない自制が利かない理性が瞬時に蒸発思考が霧散、脇腹が脇腹が脇腹が痛い痛痛痛痛……脇腹に苦痛が凝縮される。
生きながら内臓を掻き出され傷口を炙られる痛みは地獄の責め苦に等しくもはや理性を保っているのも困難だ。
この場における唯一の苦痛からの逃避手段は気絶だ。
精神が崩壊する前に痛覚を遮断して眠りにおちる。
意識が溶暗する。
だがしかしすぐに目覚める、目覚めてしまう。
脇腹が酷く疼くせいだ。
激痛のあまり失神して激痛のあまり起こされて、際限なく気絶と覚醒を繰り返す間に今いる場所がどこか何故ここにいるのか頭がぼやけてわからなくなる。
僕は誰かを待っている。
誰だ?誰を?わからない。
大切な人のような気がする。
とても大切な、僕にとってかけがえのない人間……だったような気がする。
僕はずっと彼を待っている。
縄が手首に食い込む痛みと脇腹の激痛に耐えて、宙吊りの拷問で何度となく失神しては火炙りの熱で目覚めさせられ、そうまでして誰を待っているんだ?
しぶとく、往生際悪く。
「まだ死なないの?しぶといね」
細切れの意識の中で嘲笑を聞く。
せせら笑う声に目を向ける。
眼下の通路で少年が微笑んでいる。
「いつまでもつかな」
虚空に吊られた僕を仰ぎ見て、嗜虐の愉悦に目を細めるのは……
静流。
思考野を覆っていた靄が晴れて意識が覚醒する。
思い出した。僕は鍵屋崎直、IQ180の天才だ。眼下の少年は帯刀静流、重態の僕を医務室から拉致してサムライをおびきだす人質に利用した。僕が待ち続けている男はサムライ……
帯刀貢。
生まれて初めてできた友人、かけがえのない存在。
「サムライはこないぞ」
きっかり静流を見据えて断言する。
静流の笑みが薄まり、疑問の色が目に浮かぶ。
怪訝な表情の静流を見据えたまま、一語一句明瞭に言葉を紡ぐ。
「IQ180の頭脳の持ち主たる僕が選んだ友人がそんな無謀を犯すものか、自己犠牲の自己欺瞞で彼に生きてて欲しいと願う僕を裏切ったりするものか。いいか、よく聞け静流。サムライは絶対来ない。理解力の欠如した低脳の為に何度でも自信をもって断言してやる。サムライはここには来ない。助けになど来るものか」
「どうして言い切れるの?」
深呼吸で脇腹の痛みを紛らわし、口が利けるまで回復するのを辛抱強く待ち、しっかりと言葉を返す。
「ここに来たら、今度こそ絶交されるからだ」
嘲笑が弾ける。眼下で静流が笑っている。
さもおかしい冗談を聞いたとばかり喉を弓なりに仰け反らせて芝居がかった笑い声をたてる。
炎の唸りが轟く溶鉱炉に振幅の激しい笑い声が反響する。
来るなサムライ。
固く目を閉じて一心に念じる。
どうか来ないでくれ。静流の目的は復讐だ。サムライを殺して目的を達するまで静流は決して止まらない。裏を返せば静流の目的はサムライただ一人、他はどうでもいいのだ。
僕の生死などさしたる問題ではない、死のうが生きようがどうでもいい関心の埒外だ。静流がこだわるのはあくまでサムライの生き死にのみ、憎い仇さえ葬ることができればそれでいいのだ。
来るなサムライ。
来ないでくれ。
「こないね、貢くん。逃げたのかな」
僕の心を読んだかのようにさも残念そうな口ぶりで言い、意味ありげに一瞥くれる。
「武士の風上にもおけない卑怯者だ。そう思わないかい君も?苗さんの時に引き続きまた今度も逃げるなんて帯刀家の恥さらしだ」
霞む意識の彼方で静流の語りを聞く。
ロープで吊るされた僕が一呼吸ごとに衰弱していく過程を眺め、美しい少年が小首を傾げる。
「辛いかい?」
「あたり、まえだ……」
声を搾り出すのに多大な苦痛が伴う。
肺が先細り、声帯がからからに干からびる。
喉仏を汗が伝う。
汗に濡れたそぼった前髪が額に貼り付き、ただでさえ眼鏡を取られて見えにくい視界を遮る。
ロープで宙吊りにされてるせいで両手首に全体重がかかり、脱臼の激痛に腕が軋む。
重力に逆らって頭上高く手首を纏められているせいで腕の血が滞り感覚が麻痺する。
ボロ屑同然の苦痛の塊と化した僕を見上げ、静流がしどけなく手摺に凭れる。
「縄で縛られてひとりで悶え苦しむなんていやらしいね」
今の僕には静流に歯向かう気力すらない。腸が一ミリほど露出した……気がする。何とか縄をほどこうと必死に身を捩り続けたせいで残り少ない体力をさらに消耗した。
ぐったり弛緩した僕を眺め、静流が満足げに微笑む。
「自分で見えないのが惜しいね。今の君すごく色っぽいよ。手首に食い込む縄が残虐美を引き立てる。苦痛に歪む顔は被虐の官能に火を付ける。しっとり額を濡らした脂汗が大粒の玉となってこめかみを滑り落ちる。ぐっしょり湿った上着が素肌を透かす。絶頂に達したように体が仰け反り、そして……」
ふいに言葉が途切れる。
鞭打たれたように顔を上げた静流の視線を追う。
顔に貼り付いた笑みがかき消え、虚ろな双眸が曝け出される。
無表情に激情を封じた静流の視線の先、溶鉱炉に接続した通路の出入り口に現れたのは長身痩躯の男。
垢染みた囚人服に痩身を包み、脂光りする髪を無造作に結い、激しく燃える炎をも圧する爛々たる眼光で宿敵を睨みつけるのは…
「サムライ……」
かすかに唇を震わせ、かぼそく名を呼ぶ。
諦めにも似た感情が込み上げる。本当はわかっていたのだ、こうなることは。諦念の溜め息を吐いて目を瞑る。
自責に胸が疼く。
静流にさらわれた時点でこうなることは予期できていた、サムライが僕を見殺しにするはずないと心の底ではわかっていたのだ。信頼していたのだ。僕は口先では彼に来るな来たら絶交だと言っておきながら心の底では彼の救出を待ち望んでいたのだ、サムライが必ず迎えに来ると信じて執拗な責めに耐え抜いたのだ。
僕は卑怯者だ。
とんでもない卑怯者だ、偽善者だ。彼に死んで欲しくないのに戦ってなど欲しくないのにこうしてここに来てくれた事に安堵している、それだけならまだしも喜んでいる。
呼べば必ず来てくれる。
必ず助けに来てくれる。
サムライは決して、僕の信頼と期待を裏切らないのだ。
「………何故来るんだ、低脳め。君の助けなど要らない。天才の頭脳をもってすればひとりで溶鉱炉を脱出するのも不可能ではないと証明する良い機会だったのに、もったいぶって登場した君のせいで計画が台無しだ」
虚勢を張って叫ぶ、僕はまだ平気だと言葉に代えて。
ロープで宙吊りにされた僕を見てサムライの顔が驚愕に強張り、完全に目が据わり、眼光ぎらつく憤怒の形相に変わる。
抑制の利いた挙措でサムライが歩を運ぶ。
「置手紙の意味がちゃんと伝わったようで何よりだ。迷子になってるかと思ったよ」
「御託はぬきだ。即刻直をおろせ」
「嫌だ」
有無を言わせぬ命令をあっけなく拒絶、静流が高飛車に腕を組む。
腕組みで優位を誇示する静流のもとへサムライが大股に歩みだす。
一歩、また一歩。
徐々に距離が縮まり緊張感が高まる。
溶鉱炉の直上に渡された高架にて、同じ姓をもつ二人が対峙する。
「直は無関係だ。お前の目的は俺だ。俺さえ殺せば満足なのだろう、静流」
「心外だね。見損なってもらっちゃ困るよ」
静流がおどけて肩を竦める。
彼岸と此岸の差が縮まるにつれ、膨れ上がる闘気に呼応して火の粉が乱舞する。
「君一人あの世に送り込んだところで姉さんは満足しない。いいかい貢くん、君と姉さんはあの世で祝言をあげるんだ。帯刀本家の跡取りと分家の長女が祝言を挙げるのにお付きの小姓がいなけりゃさまにならないでしょ」
「なんだと?」
サムライが訝しげに眉根を寄せる。
サムライに魅惑の微笑みで応じ、つ、と腕を差し伸べる。
日本舞踊を嗜む者特有の洗練された立ち居振る舞いで前に出る。
「知らぬは本人ばかりなり。貢くん、君は何も知らないんだね。莞爾さんが下した苦渋の決断も、本家と分家の間でひそやかに取り交わされた婚礼の約束も、薫流姉さんが君の許婚だったことも……」
サムライが気色ばむ。
「どういうことだ、静流。薫流が俺の許婚とは……」
「莞爾さんは君と苗さんの仲を引き裂くのに必死だった。君たちふたりは腹違いとはいえ血の繋がった兄弟、ましてや苗さんには忌むべき異人の血が混じっている。そんな出自卑しい娘を家に入れるくらいならばいっそのこと犬猿の仲の分家から嫁を貰ったほうがマシだと決断したのさ。君が知れば勿論反対するからお膳立てが完璧に整うまで黙っているつもりだったんだろうけど、僕も姉さんも母さんも分家の人間はちゃんと聞かされて知っていたよ」
暴露された真実にサムライは戸惑いを隠せない。
サムライの反応から察するに静流の姉との間にはなんら恋愛感情が存在しなかったのだろう。いとこであるというだけで生涯の伴侶となる取り決めをされた薫流も今は故人、僕は薫流の人となりを静流の思い出語りでしか知らない。本人が知らない間に家同士が勝手に決めた許婚の存在が発覚、愕然とするサムライに静流が呟く。
「僕は君が憎い。才能も人望も全てを持ち合わせていながら、僕が唯一心の拠り所としていた姉さんまで奪おうとした君が殺したいほど憎かった」
静流の目はここではないどこかを見ていた。
「けれども僕は姉さんが幸せならと自分を納得させた。苗さんは昔から君が好きだった、二人が結ばれるなら僕の気持ちなどどうもでいいと切り捨てた。僕は莞爾さんの言うなりに苗さんと君を引き裂こうとした。愛する姉さんの幸福のためなら汚れ役に徹するのも厭わなかった、たとえ苗さんを汚して傷付けても姉さんが幸せならばそれで……」
あてどもなく彷徨する姉の亡霊を幻視、優しく手を差し伸べる。
泡沫の幻影が折から吹いた火の粉に散らされる。
最愛の人を抱こうとして、己自身の孤独を抱擁する。
面影の残滓を掴み損ねた五指を開き、放心したように手を見下ろす。
「苗さんを犯すよう指示したのは僕だ。僕が道場の門下生をそそのかして苗さんを輪姦させたんだ」
サムライが衝撃に凍り付く。
「莞爾さんは知らなかった。君は莞爾さんが全てを指示したと誤解したようだけど実際は何も知らなかった。いくら血も涙もない鬼当主の帯刀莞爾といえど自分の娘を輪姦させたりはしない」
「手ぬるいんだよ、莞爾さんは」と口角を歪めて吐き捨てる。
体の脇に手を垂れ下げてサムライに向き直る。
「僕から姉さんを奪うんなら他の女に心を移してほしくない、姉さんだけを見ていてほしい。僕は一計を案じた。君と苗を完全に引き裂く為に道場の門下生を唆してよってたかって彼女を慰み者にした。犯された直後、放心状態の苗さんの背後に忍び寄って耳元で囁いた。君たちは腹違いの姉弟だ、決して結ばれちゃいけない宿命なんだと……苗さんを自殺に追い込むのはあっけないくらい簡単だったよ」
「……やめろ、静流」
喉の奥で唸り声を発して威圧するも、静流は動じない。
サムライの制止を振り切り、甲高い声で続ける。
「苗さんさえいなくなれば君は姉さんを選ぶと思った、薫流姉さんを好きにならざるえないと思った。だってそうでしょ?莞爾さんは帯刀の血を絶やすのを許さない。分家の娘を娶って子を生して帯刀家を末代まで栄えさせるのが君に課せられた使命、武家の末裔の宿命だった。僕は莞爾さんがくだらない親心に血迷ってるあいだに邪魔者を排除したのさ、全部姉さんの幸せのため、姉さんに幸せになってほしかったからさ!!」
鬱積した感情が爆発する。
どこまでも一途に純粋に姉を慕い続けた静流、だがその想いは報われなかった。静流が愛した女性はもうこの世にいない、サムライが愛した女性はもうこの世にいない。両方とも死んでしまった。
奇縁に導かれて再会を果たした帯刀家の末裔は、互いによく似た境遇に身を置いていた。
「…………お前が苗を殺したのか」
ざんばらに乱れた前髪の奥から修羅の眼光が覗く。
「そして今また直を殺そうというのか。俺の眼前で」
「そうさ」
「させるものか」
静流と10メートルの距離を空けてサムライが停止、肌に痛い程に空気が張り詰める。
僕は虚空に吊られたまま、無防備な肢体を晒して二人のやりとりを見守るより他ない。
手首に縄が食い込む物理的な痛みにも増して胸を締め付ける無力感、サムライがこんなに近くにいるというのに手も足も出せず二者の衝突を見守るしかない歯がゆさ。
「くそっ、ちぎれろ、ほどけろ!」
必死に身をよじり足を振り縄を切ろうとあがく。
だがますます深くきつく食い込むばかりで縄は一向にほどけず焦りが募る。このままではサムライが死んでしまう、怪我を負ってしまう。手首の皮膚が縄に食い破られて燃えるような痛みを感じる。
宙吊りにされたまま暴れる僕をひややかに一瞥、静流が余計な忠告をする。
「暴れるのはよくない。縄がちぎれてしまうよ」
「直を下ろせ」
思い詰めた眼差しで交渉に臨むサムライに向き直り、あっさりとかぶりを振る。
「直くんを救いたければ力づくで僕を倒すしかない」
物分りの悪い子供に言い聞かせるように辛抱強く諭し、足元の鉄パイプを拾い上げ、無造作に投げる。
サムライが手を前に出して鉄パイプを受け取る。
掌中にしっくりおさまった鉄棒は片刃を模して斜に削られている。
「刀の代わりさ。真剣なら尚よかったんだけど、さすがにこれで我慢するしかない」
静流が流麗な所作で鉄パイプを拾い上げ、目を閉じて精神を統一する。
サムライが足幅を開き、腰に重心を落として踏み構える。
鉄パイプを握り締め、煩悶の形相でこちらを仰ぐ。
もはや逃れる道はない、静流と戦って倒すしか僕を救う道はない。
そう己に言い聞かせて迷いを振り切り、肉の薄い瞼を閉ざす。
ゆっくりと瞼が持ち上がり、凄烈な眼光を宿した双眸が外気に晒される。
「直」
サムライが僕の名を呼ぶ。
視線が絡み合う。
小揺るぎもせず鉄パイプを構え、断言。
「必ず助ける。必ずこの手にお前を抱く」
「サムライ……」
「愛しているんだ、お前を。狂おしいほどに」
顔に苦渋が滲む。双眸に苦悩が浮かぶ。
口先だけじゃない。サムライは全身で「愛している」と言っている、静流に立ち向かう全身で「愛している」と言っている。心の底から僕を欲し、気も狂わんばかりに僕を渇望している。
「僕もだ、僕も愛している」
手が届かないならせめて声だけでも届けたい、想いを届けたい。
脇腹の激痛に抗い声を限りに叫ぶ、眼下の通路で静流と対峙するサムライめがけ身を乗り出して叫ぶ。
「早く君に抱かれたい、君の手に抱かれたい。君の腕の中がいちばん安らげる場所だ、君の腕の中にいる時がいちばん幸福を感じるんだ、確かに守られていると実感できるんだ」
「お前を抱きたい。この腕が軋むほど力を込めてお前を貪り食いたい」
サムライと触れ合いたい。
サムライと抱き合いたい。
念力で縄がちぎれるならと眉間の一点に集中力を注いでみるが縄は手首に巻き付いたまま、高度が下がることもない。
眼下では炎が燃えている。
溶鉱炉の上に架けられた橋にて、サムライが厳かに誓いを立てる。
「俺はお前の物だ」
誠実な面持ちで緩やかに腕を振り上げる。
「剣を振るう腕も」
筋張った喉が震え、朗々と声が響く。
「お前を呼ぶ喉も」
溶鉱炉から噴き上がる火の粉が視界を遮り、サムライのまわりで轟々と渦巻く。
紅蓮に染まる世界の中心、溶鉱炉から立ち上る火の粉が大気中を席巻する。
「すべてをお前に捧げる」
全身全霊を尽くし、愛する。
身も心も砕いて僕に捧げる。
サムライが大きく息を吸い、腹腔に溜める。
止水の心で呼吸を均す。
腹腔に息を溜める。
丹田で練り上げた闘気を掌に集中する。
無機物の鉄棒に神経の芯が通い、サムライと一体となる。
地獄の業火で鍛えた一振りの刃を斜に翳す。
「逝くぞ」
サムライが鋭く呼気を吐き、疾風の速度で地を蹴る。
猛然と疾駆するサムライに合わせて静流も走り出す。
通路の中央にて二人が激突、苛烈に火花が散る。
鉄パイプの刃が噛み合い軋り合い耳障りな擦過音を生み出す。
「そうまで俺が憎いか、静流っ!!」
サムライが奥歯を食い縛る。喝と見開かれた双眸に激情が迸る。
「憎いさ、憎いとも!才能と人格に恵まれた本家の跡取りに分家のおちこぼれの気持ちがわかるものか、物心ついた頃から血も滲むような修行に耐えて剣の腕を磨いても決して君には追いつけなかった、君の何倍も何十倍も努力したところで与えられるのは同情のみ、君が当たり前に貰っている賞賛も激励も無縁の代物でしかない!!」
静流が嬉々と哄笑する。
「君は天才で僕は努力の人、祖父譲りの天分の才に恵まれた君とは格が違う。誰もが君を褒める君に夢中になる、帯刀貢は高潔な人格者にして剣の天才だと君を褒めたたえる!僕は生まれた時から君の引き立て役でしかなかった、君と比較され貶められるためだけの存在だったんだ。そんな僕に姉さんだけが優しくしてくれた、姉さんだけが構ってくれた。僕は姉さんが好きだった。姉さんを独占したかった、どこにも行かせたくなかった、ずっとずっと僕の僕だけの姉さんでいてほしかった!!」
語気激しく姉への想いを吐露する静流、感情の昂ぶりに比例して膂力が増して鉄パイプが軋る。
サムライは正眼に構えた鉄パイプで静流の攻撃を受け止めたまま、刃を引こうにもその隙すら与えられず劣勢に追い込まれる。
「僕は姉さんを愛していた」
静流の顔が歪み、絶望とも渇望とも付かぬ悲嘆の表情が掠める。
突然の告白に驚き、サムライが一瞬動きを止める。
静流はその隙に付け入り懐に潜り込み、巣を張る蜘蛛の如く吐息を絡める。
「君と苗さんは姉弟と知らず愛し合っていたけど、僕は血の繋がりを自覚した上で姉さんを愛していた」
「サムライ!」
呪縛が解ける。
僕の声で我に返ったサムライが咄嗟に半歩後退する。
衣擦れの音もなく肉薄した静流は間合いを脱するのを許さず、肩から脇腹へと斜めに斬り付ける。
「!くあっ、」
肩から脇腹へと抜けた鉄パイプが容赦なく肉を抉る。
サムライの上着が裂けて繊維の破れ目から素肌が覗く。
袈裟懸けに斬られたサムライが本能で追撃を回避、己の鉄パイプで打ち込みを弾いて後方に跳躍、呼吸を荒げて体勢を立て直す。
「腹違いの姉弟であるとも知らずぬくぬく愛し合ってた君たちがどんなに妬ましかったか、鈍感な君は気付きもしなかったね」
「……俺が憎いなら俺を殺せばいい。なぜ苗まで……」
「繰言は聞き飽きた」
慙愧の呪詛をにべもなく切り捨て、再び鉄パイプを構える。
肩の肉を深々抉られたサムライは、朦朧と霞む目を凝らして静流を睨み付ける。
鉄パイプの一振りで血糊を払い、幽鬼じみた足取りで接近する静流の全身から混沌と瘴気が漂い出す。鉄パイプに縋って上体を起こそうとするも、肩口の激痛に片膝が砕けてずり落ちる。
どうにか鉄パイプに凭れて上体を起こすのに成功したサムライのもとへ、美しき修羅が歩み寄る。
「非業の死を遂げた母と姉の遺志を継ぎ、今こそ帯刀貢への復讐を果たす」
「サムライしっかりしろ、立ち上がるんだ、もう一度僕を抱くんじゃなかったのか!?」
脇腹の激痛を耐えて声を振り絞り呼びかける。激しく暴れる度にロープが食い込んで手首が内出血する。宙に垂れた縄に負荷がかかるのはわかっていても体を動かすのをやめられない、必死に身をよじり首を振りサムライに呼びかけるのをやめられない。
一度は鉄パイプに縋った立ち上がるのに成功したサムライだが、鉄パイプを掴む手が血脂でぬめり、またしても膝を屈してしまう。
額におびただしい脂汗を浮かべて抗い続けるサムライの眼前に不吉な影がさす。
静流。
「サムライ、ここで死んだら二度と僕が抱けないぞ!また約束を破る気か、僕を失望させる気か!生きて必ず僕を抱くという約束を忘れたのか、僕をその手に取り戻すという約束を放棄するのか?僕はまだこうして生きているちゃんと呼吸している君の戦いを見届ける、僕の前で無様な姿をさらすなサムライっ………」
サムライ。
サムライ。
死なないでくれ。
―「僕を抱くまで死ぬな!!」―
溶鉱炉に絶叫が響き渡る。
僕の喉を焼いて迸った絶叫に静流が鼻白む。
「無論、だ」
永遠にも思える一瞬の空白のあと、間断ない激痛に苛まれて息を荒げながらサムライが立ち上がる。
静流が目を見張る。
肩から脇腹へと開いた切り傷が肉に達し、鮮血が滴る。
血脂にぬめる手を服に擦り付け、鉄パイプを掴む。
地獄の情景が出現する溶鉱炉。
中空に架かる橋にて復活したサムライが、どこからでもかかってこいと暗示するかの如く刀を上段に構える。
腕を上げ下げするだけで肩に響くだろうに、毅然と前を向いた顔には不思議と苦痛の色がなく、潔い決意が浮かんでいる。
無防備に隙を晒しているかに見えて、その実玄人ならばどこから打ち込まれても万能に対応できる上段の構えをとり、力を取り戻した双眸に意志の光を閃かせる。
「お前を抱かずに死んだら、心残りで成仏できん」
サムライが、侍になった。
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