少年プリズン352

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少年プリズン352

 紅蓮の地獄にて一対の修羅が対峙する。  鉄組みの足場を何層も隔てた下で炎が氾濫する。  地獄の釜の底を覗き込んだ錯覚を抱かせる光景に圧倒される。  僕はロープで手首を縛られ宙吊りにされたまま成す術なく地獄の釜の上で睨み合う二人を見守るしかない。  煌煌と燃える炉の上、鉄組みの足場に立ちはだかる二人の人間。  かたやたおやかな体躯の美少年、かたや憔悴した面差しの男。  紅い唇に艶めかしい笑みを刷いた少年は手中に預けた鉄パイプの切っ先をつと泳がせ、肩口から脇腹にかけて深手を負った男を妖しく誘う。 火影に染め抜かれた黒髪がさらりと流れる。  「全力できなよ。君の本気はこんなものじゃないはずさ。この期に及んで不出来な従弟に遠慮はいらないよ。殺し合いに慈悲は無用、憐憫は不要だ」  口端を皮肉に吊り上げて挑発する。  「肩の肉を少々抉られた位で息を荒げるなんて君らしくもない。姉さんが味わった痛みはもっと凄まじかった。姉さんは僕の手を掴んで生きながらに自分の心臓を抉りぬいたんだ」  サムライの顔が驚愕に強張る。  顔面蒼白、苦悶の形相で固まったサムライの視線を受けて甲高く哄笑する。  弓なりに体を仰け反らせ痛々しい程に白い喉をさらし、空虚な笑い声を響かせる。  「ああ、まだ言ってなかったっけ。そうだよ、僕が殺したんだ。僕がこの手で母さんと姉さんを殺したんだ、お望みどおりにね!」  絶望に顔を歪めて自暴自棄に捲くし立てる静流から禍々しい邪気が放散される。もはや完全に狂気に侵されている。  肩口の肉が削げた激痛に不規則に息を荒げ、鉄パイプに縋って立ち上がったサムライは、信じ難い面持ちで静流を凝視する。  身内殺しの告白がもたらす衝撃に打ちのめされながら、喘ぐように反駁する。  「……静流、お前は……自滅する気か?」  「馬鹿な。帯刀家を滅ぼした張本人は君だよ」  大袈裟な手振りでサムライの問いを撥ね付ける。   「君が実父含む道場の門下生十一人を殺したせいで、帯刀家は血に飢え狂う人斬りの家系と中傷された。余命少ない母さんは帯刀家の凋落を最期の最後まで気に病んで、僕に復讐を命じた。ああするより他なかったんだ。当主の命令は絶対だ。本家の取り決めに分家が逆らえないように女手一つで僕ら姉弟を育て上げた母さんの命令に逆らえない、否が応でも従わざるを得ない。母さんの望みは復讐だ。余命少ない病身の自分に代わり、本家当主の仇を討ちとって来いと命令されたんだ」  緩慢な動作で腕を振り上げ、鉄パイプを眉間に翳す。  どこから打ち込まれても柔軟に対応できる上段の構えをとり、語りを再開する。  「東京プリズンに来るにはどうすればいい?」  単純な質問だった。答えはわかりきっていた。  「……この国は日本人に甘い。今や人口の三割に満たなくなった純血の日本人にどうしようもなく甘い」  思わせぶりに間をとった静流の言葉を引き継ぎ、苦しい呼吸の狭間から説明する。   脇腹の痛みが激しくなる。  焼けた杭を打ち込まれたような激痛に瞼裏で光輪が回る。赤く紅く淦く……淡く滲む光の渦。強く瞼を押すと眼球が圧迫されて光輪が浮上する。その時と同じ幻覚を見る。  ロープに食い破られた手首にささくれだった痛みを感じる。  腕が痛い。肩が痛い。  いよいよ本当に脱臼しそうだ、関節が外れそうだ。  きつく目を閉じて呼吸を整え、話を続ける。  「東京プリズンに来たければできるだけ多くの人間をむごたらしく殺すことだ。情状酌量の余地なく、徹底的に。とくに親殺しは罪が重い。尊属殺人は極刑に相当する。静流、君は……」  眼下の静流は我が意を得たりと微笑んでいる。  良心の呵責などさっぱり見当たらない、己のやるべきことをやり遂げた満足感と達成感だけが窺える晴れやかな顔。  「東京プリズンに来る為に、『わざと』人を殺したんだな」   衝動ではない。冷徹な意志をもって、故意に行われた殺人行為。  「母と姉を犠牲にして自分の人生を代償にして、唯一つの目的を果たしにきたんだ」  「馬鹿な……」  サムライが愕然と呻く。  顔にかかる前髪の奥、切れ長の双眸に悲痛な光が揺らめく。  「本当に叔母上と薫流を殺したのか。何故そこまでする、静流?薫流を愛していたのなら何故……」  「二人で逃げなかったのかって?」  静流がはっきりと憫笑する。  サムライの物分りの悪さを嘆く微笑み。  「そうできたらどんなによかったか…帯刀家に未練はない、姉さんと手に手を取り合って逃げ切ることができればどれだけ救われたか」  一息つき、静流が疲れたふうにかぶりを振る。  「過ぎたことを悔やんでも仕方ない。結局僕は一族の呪縛から逃げ切れなかった。僕だけじゃない、姉さんだってそうだ。姉さんの中に流れる帯刀の血が武家の女として誇り高く死ぬことを選ばせた。世間に嘲笑されて惨めに生き永らえるのをよしとせず、姉弟で肉を貪って畜生道に堕ちるのをよしとせず、自らの胸に刀を突き刺したんだ」  空気が変容する。  鉄パイプを両手で握り締め、相手を威圧する上段の構えで宣言。  「母と姉を殺した僕が従弟を殺せぬ道理はない」  「サムライっ!」  静流が動く。  水面を滑るような円滑な足捌きでサムライに肉薄、上段から刀を一閃する。裂帛の気合を込めて拝み打ちに振り下ろされた鉄棒がサムライの額をかち割り鮮血が噴き出す。  否、それは幻覚だった。  恐怖のあまり目を閉じた僕は、サムライの悲鳴が聞こえない事に違和感を感じておそるおそる瞼を開く。  細めに開けた瞼の向こうでは凄まじい死闘が繰り広げられている。  技が技を相殺する。  闘気と闘気が衝突、空気圧が膨張してうなじの産毛が逆立つ。  静流が拝み打ちに振り下ろした刀は間一髪、サムライが水平に翳した鉄棒によって妨げられる。  「…………くっ、」  腕をもぎとられるような激痛に苛まれてるに違いないサムライがぎりりと歯を食い縛る。  膠着状態は長くは続かなかった。  静流があっけなく刃を引き、今度は脇腹に鉄棒を打ち込む。  まともに食らえば内臓破裂は避けられない渾身の打撃をサムライは反射的に鉄棒を立てて受け止める。  息をもつかせぬ猛攻が続く。  狂気に逸った静流が刀を振り上げ振り下ろし巧妙な剣技で死角を突く。肉眼で捉えきるのは到底不可能な速度、動体視力の限界に迫る速度でもって軌道が変化、肉を穿ち骨を断つ刺突を連続で繰り出す。  「分家の無念を思い知れ」  完成された舞踊の如く静と動を組み合わせた玄妙な動きに、束の間恐怖も忘れて魅了される。  緩急付けた足運びで間合いをはぐらかし、相手の表情や目線の変化で動きを先読みする微妙な駆け引きで己の縄張りに誘い込み、完全な死角めがけて鉄棒を振り下ろす。  股間を垂直に切り上げるように足元をすくうも、一呼吸だけサムライが後方に跳躍するのが早い。  サムライが反撃にでる。  鋭い呼気を吐き、掌と一体化した鉄棒を振り下ろす。  静流の肩口に触れた鉄棒の切っ先、鋭く尖った先端が服を引っ掛け、無残に破く。   布裂く音も高らかに肩口から脇腹にかけて素肌が露出、斜線を引かれた上着を一瞥だにせず静流が狂喜する。  「ははははっはっははははっ、そうこなくっちゃね!やっと調子が出てきたみたいじゃないか、反撃を覚えたみたいじゃないか。こないだ展望台でやった時はあっけなかったもの、君ときたらやられる一方で自分からは一切手出しせずとんだ期待外れだったもの。お優しい貢くんはいつもそうだ不出来な従弟を哀れんで手加減してくれる、完膚なく叩きのめずにささやかな掠り傷で見逃してくれるんだ!ねえ教えてよ貢くん、どうしてそう傲慢になれるんだい、卑屈なまでに他人に優しくなれるんだい?寛容なふりはよしなよ、反吐がでる。君だってただの人間だ、決してまわりの連中が言うような完璧な人格者なんかじゃない、当たり前に僕を憎んで蔑んで罵倒するそれこそ君の本当の姿だろ!?」  「お前を蔑んでなどない!!」   血を吐くようにサムライが叫び、静流もまた叫び返す。  「小さい頃から何度も手合わせした、だけど僕は一度も君に勝てなかった、何度も何度も中途半端に打ち負かされてきた!どうせやるなら完膚なきまでに痛め付けてほしかった、僕自身敗北に納得できるような苦痛を与えてほしかった、僕が君に劣る人間だと思い知らせてほしかった!」  鉄パイプと鉄パイプが激突、火花を散らす。  「違うんだ、静流」  サムライの顔が苦しげに歪む。  「そうではないのだ」  「母さんは言った、僕は出来損ないの恥さらしだと。莞爾さんは言った、僕には武士より女形が向いてると。僕を認めてくれたのは姉さんだけだ。稽古でできた掠り傷を舐めて癒してくれた、静流はやればできる子ねと優しく微笑んでくれた、覇気がないとけなされた太刀筋を流れる水のように美しいと褒めてくれた」  またあの目だ。  静流の目はここではないどこか遠くを見ている。  姉の亡霊を幻視する虚ろな目。  恍惚と濡れた目で正面を仰ぎ、姉の亡霊が憑依したかの如く唇を動かす。  「『愛してるわ、貢。私の伴侶』」    静流の口を借りて薫流が喋っているような錯覚を抱く。  静流がおもむろに手を差し伸べ、ひやりとサムライの頬を包む。  サムライの耳朶に唇を持っていき、吐息に紛れて誘惑する。  「『ともに地獄へ』」  眼下で微笑むのが静流なのか薫流なのか、僕にもわからない。  吐息に紛れて睦言を囁いた静流の体がくねり、また離れる。  名残惜しげに手が垂れ下がり、再び鉄パイプを掴む。  「違うんだ、静流。逆なんだ」  サムライの顔が苦渋に歪む。生きながら身を引き裂かれる葛藤の形相。瞬き一回、静流の目に怪訝な色が閃く。   「―逆?」  静流が口を開く。  いっそあどけないほどに無垢な顔で従兄を仰ぎ、返答を待つ。  轟々と炉が唸り、更に火勢が増す。  絢爛に火の粉がたなびく中、炉上にて対峙した従兄弟が見つめ合う。  両手に鉄パイプを握り締め、苦痛と疲労の濃い顔に脂汗を滴らせ、サムライが深沈と目を閉じる。  「真実劣っているのは、俺なのだ」  最高に面白い冗談を聞いたとでもいうふうに笑い飛ばそうとして表情が固まり、泣き笑いに似た卑屈な顔になる。  「………君が、劣っている?」    「静流、何故父上がああまで俺に厳しく接したと思う?」  いつだったか、サムライが語った父親の話を思い出す。  帯刀本家当主、帯刀莞爾。  厳格で傲慢な性格の男。息子が三歳の時から真剣を握らせて虐待に近い過酷な修行を強いた。敷地に迷い込んだ野良犬をサムライ自身の手で斬らせた。苗とサムライの交際を禁じた。  サムライの口から語られた父親像には、陰惨な印象が付いて回る。  帯刀莞爾の所業は常軌を逸している。  わずか三歳の息子に真剣を握らせて、幼い故の泣き言一つでも漏らせば頭から井戸水を浴びせて、可愛がってた犬を自身の手で斬り殺させる。  実の息子に対するとは思えない仕打ちの数々にいくつか疑問が湧き上がる。  帯刀莞爾は何故そうまで息子に厳しく接したのだ?  跡取りとしては何一つ不満も不足もない息子に対し、そこまで……  「まさか」  事実が逆だったら?  驚きに息を呑む僕の眼下、火の粉に巻かれたサムライが淡々と続ける。  「父上はお前に嫉妬していたのだ。……否、『お前』にというのは正しくない。父上は分家に嫉妬していた。本当はわかっていたのだ、俺が天才ではないと。本当の天才は分家に生まれたお前だと。お前は勘違いしていたのだ、静流。断じて俺は天才などではない。剣の腕が多少なりとも優れているのはひとえにたゆまぬ修行の成果、粉骨砕身の努力の結果だ。父上は常に俺とお前を比較した。分家の天才と本家の凡才を比べて俺を罵った。本家の跡取りともあろうものが情けない、お前の太刀筋は荒々しいばかりで品がない、分家の静流こそ天分の才に恵まれた祖父の再来だ、静流の太刀筋には品格があると…流れる水のようになにものにも縛られず形を変える、それこそが帯刀の剣だと」  「嘘だ。莞爾さんは僕に才能がないって……」  静流が呆然と呟く。  「父上は気位が高かった。本家の跡取りが分家の嫡男に劣ると認めるのが癪だったのだ」  「母さんはいつも僕と君を比べて、僕はみっともない出来損ないだって……」   「やはり兄妹だな」  錯覚かと疑う一刹那、サムライが寂しげに微笑む。  「叔母上も同じことを考えたのだ。お前の慢心を恐れて敢えて真実を伏せた。叔母上が厳しく接したのは才に甘んじて向上の努力をおこたる人間になってほしくなかったからだ。静流、お前が引け目を感じる必要などどこにもなかったのだ。お前こそ帯刀一族が作り上げた真の天才、真の………」  痛切な絶叫が響き渡る。  「信じるものかっ!!」  余裕の物腰から一転、精神的に追い詰められた静流が口角泡をとばして喚き散らす。   「馬鹿な……馬鹿な馬鹿な馬鹿な、あってたまるかそんなことが、それなら僕の人生はなんだったんだ、僕の十七年の人生はなんだったんだ一体!?生まれた時から君と比べられ貶められ続けた屈辱の十七年、帯刀貢の引き立て役としてのみ存在を許された十七年、母さんと姉さんをこの手で殺してここに来るまでの道のりは……」  爛々とぬめる目が眼窩から迫り出す。  極限まで目を見開き、激しくかぶりを振る。  「僕が天才で君が努力の人?嘘だそんなの、そんなことがあってたまるか。僕はずっと君に憧れていた妬んでいた、才能と人格に恵まれた本家の跡取りを殺したいほど憎んできた。姉さんも君が好きだと思ってたんだ、誰も僕なんか好きになってくれないと思っていた。だって僕は才能がないから、君に格段に劣るから、こんな僕を姉さんが好きでいてくれるはずないって諦めてたんだ。だから僕は姉さんの役に立とうと、せめて姉さんにだけは幸せになってもらおうと苗さんを陥れた。けれども姉さんは喜ばなかった、ちっとも喜んでくれなかった!僕が苗さんを陥れたと知った時の姉さんの顔…哀しい顔」  こめかみを押さえてよろめき、手摺に凭れる。  不規則に息を荒げ、ちぎれんばかりに首を振る。   「帯刀家なんて本当はどうでもよかった。刀なんて握りたくもなかった。僕が抱きたかったのは……」  ゆっくりと手を垂れ下げ、体ごとサムライに向き直る。  艶やかに濡れた睫毛の下、一抹の悲哀を宿した双眸がサムライを見る。  「…………『三千世界の鴉を殺し ぬしと朝寝がしてみたい』」  物憂い美少年のまわりを火の粉が取り囲む。  「帯刀貢は幸せ者だ。愛する女を抱けたんだから」   澄み切った微笑みを浮かべ、ゆっくりと腕を旋回させ、鉄パイプの切っ先を正面に固定する。  静流が声なき叫びをあげて疾駆、流れる水のように緩急付けて鉄パイプを振るう。   鋭く尖った切っ先がサムライの心臓を狙うー……  「サムライ!!」  直線の軌道上からサムライが消失する。  鉄パイプと水平になるように体を捌いて手摺に背中を預けた刹那、炉から大量の火の粉が噴き上がる。  サムライを仕留め損ねて前傾した静流が満面に勝利の喜悦を湛えるー……  「地獄に堕ちろ」  サムライが凭れた手摺のネジが外れ、後方に倒れる。  手摺の一箇所が崩壊、金網が炉に落下。  支えを失ったサムライが背中から転落するー……  「ああああああああああああッあああああああっああああああああああああああっ!!!!」  宙吊りにされた僕が成す術なく見守る前で。  サムライは、炉の泡沫となった。 [newpage]  ヨンイルが暴走した。  虚実入り混じった情報が錯綜して東棟は天地ひっくり返ったような大騒ぎだ。独房脱走犯にして看守殺害犯の静流に鍵屋崎が拉致られて行方不明になってからはや半日、そろそろ人質の体調が心配な頃だ。  早く鍵屋崎を見つけなけりゃさすがにやばい事になると誰もが最悪の可能性を考慮に入れてあせりにあせっている、その筆頭が西の道化・ヨンイルだ。  通称手塚トモダチ、鍵屋崎と親しい仲にある西の道化は子分どもを率いて駆けずり回っていたがさっぱり成果が上がらずブチギレたらしい。  現場は騒然としていた。  野次馬と看守とが忙しく出入りして殺気立った雰囲気に包まれた地下停留場を見回すもヨンイルの姿はない、ヨンイルが乗っ取ったバスも見当たらない。  「どこ消えたんだよ、ヨンイルは!?」  「あ、ヨンイル一の子分発見」  レイジの声と視線につられてそっちを見れば、顔に傷のあるガキが人ごみの中をあっちへこっちへうろついていた。  心細げな様子でよちよち歩きしてるガキを叱咤する。  「ワンフー!」  ワンフーがびくりとする。  地獄に仏、地下停留場に元同僚。  ワンフーが大手を広げて俺たちを歓迎する。  「ああ、半々!良かった会えて……聞いてくれよ、ヨンイルさんがとんでもねえことしでかしたんだ、よりにもよってバスジャックなんて……上にバレたら独居房送りどころじゃすまねえってのに」  「イチから説明しろ」  ざわつく停留場のど真ん中、人ごみの濁流を塞き止めてワンフーと対峙する。  深呼吸を二度繰り返し、ワンフーが語りだす。   「俺たちヨンイルさんの命令で朝からずっと鍵屋崎捜してたんだけど全然見つかんなくて、隅から隅までさがしても出てくるのは塵やゴミや使用済みコンドームも抜け殻ばっかで、いい加減へとへとになってたんだ。ヨンイルさんも相当参ってた。ヨンイルさん鍵屋崎のことすごく心配してて、直ちゃんの身に万一のことがあったら手塚神になんて謝ったらええかわからんて責任感じて、ろくすっぽ休みもせず捜し続けてたんだけど……急に叫んだんだ」  「なんて?」  「『わかった、あそこや!』」  「エウレカ」   「えうれか?」  いつのまにか隣に来ていたレイジが首肯する。  「気にすんな、続けろ」   レイジが顎をしゃくり、ワンフーが再び語りだす。  「ヨンイルさんは鍵屋崎の居所わかったんだ。だからあんなに慌てて……俺たちが止める間もなく地下停留場に下りて、ちょうど帰ってきたバスのまん前に飛び出して急ブレーキかけさせて、無理矢理バスん中に突っ込んでったんだ。そんでそのまま恐ろしい形相でハンドル回して……砂漠に出ちまって……」  「やることなすこと極端すぎんだよ、あいつ」  鍵屋崎心配な気持ちもわかるけど子分の気持ちも考えやがれってんだ。  俺はワンフーに同情した。  ワンフーだけじゃない、地下停留場に取り残された西棟の連中はヨンイルの行方に気を揉んであっちへこっちへうろついたり所在なく突っ立ったりおのおの不安を丸出しにしてる。中には相棒の胸を借りて泣き崩れる奴や放心の体で虚空を見詰める奴、「あんた何ぼっと突っ立ってるんだ、西のトップが消えたんだ、バスが転覆して砂に埋もれてたらどうするんだよ、今すぐ捜しにいけよ!」と怖いもの知らずにも看守に食い下がる奴がいる。  「どうするレイジ?」  向こう見ずな勢いで地下停留場に来ちまったもののヨンイルを追うには車を出さなきゃいけない。徒歩で砂漠に出るのは自殺行為だ。  ヨンイルに追いつくには俺たちもバスを乗っ取るかジープを乗っ取るかしないと不可能だ。焦燥に駆られてレイジを仰げば、王様は人の気も知らずに虚空を見詰めている。  「レイジっ!」  苛立ちに声を荒げる俺をよそに、レイジが人さし指を立てる。  「しっ。聞こえねーか?」  え?  レイジに促されてあたりを見回す。  地下停留場の喧騒に耳を澄ます。  目を閉じて意識を集中、聴覚を研ぎ澄ます。  興奮のさざめきと野太い怒声がごたまぜになった雑音の坩堝、地下停留場の喧騒に混じる重低音……  コンクリ床を伝ってくるかすかな振動、蜂の大群の羽音に似た不吉な唸り、可聴域ぎりぎりを這うエンジンの音……  空気がうねる。  ざっと鳥肌が立つ。  嫌な予感。  「まさか」  「伏せろ!!」  レイジが一喝した途端、エンジンの轟音と凄まじい風が殺到する。  顔面をぶった塵が目を潰す。  風圧に逆らって瞼をこじ開ける。  驚愕。  「ひっ!」  「地獄の暴走バスだ、逃げろ、轢き殺されるぞ!」  ひきつけ起こしたように硬直する囚人、まわりの連中を突き飛ばし我先に逃げ出す囚人……阿鼻叫喚の地獄絵図。  一陣の突風とともに地下停留場に殴り込んだバスはでかい胴体を右へ左へ不安定に揺さぶり、横腹を標識に掠らせてぎゃりぎゃり耳障りな軋り音と金属質の火花を生じさせ、囚人を幾人か薙ぎ倒し跳ね飛ばし、阿鼻叫喚の地獄絵図の中を無軌道に盲進する。  蜘蛛の子を散らすように逃げまくる囚人どもに殺人バスが襲いかかる。  タイヤがコンクリを擦る音も耳障りにタイヤのゴムが摩擦熱で焼ける異臭が鼻腔を突き逃げ遅れた俺の方へ真っ直ぐー……  「ロン!」  視界が反転、体が跳ね飛ぶ。  バスに轢かれたわけじゃない、レイジに横ざまに抱きかかえられ二人折り重なってコンクリ床に転がったのだ。コンクリ床に衝突した衝撃で視界がブレて脳震盪を起こすも一瞬のこと、レイジが俺の下になって庇ってくれたおかげでかすり傷だけですんだ。   「ヨンイル運転できねーじゃんかよ。死人がでるぞ」   このままじゃ味方も敵も手当たり構わず轢き殺しちまいかねない。  コンクリ床をぎゃりぎゃり削り俺めがけて突っ込んできたバスにぞっとする。バスの巨体に突撃食らったら良くて瀕死、悪くて即死だ。恐慌を来たした野次馬が大挙して出口に殺到する。西棟の連中は無謀にも体当たりでバスを止めようと走り出すも、いざバスと正面衝突となればケツまくってトンズラこく始末だ。  「ヨンイルさん、おれおれ、俺っスよ!西棟のスリ師でヨンイルさんの腹心のワンフーっス、わかんないんですか!?」  ワンフーが哀れっぽく名乗りを上げるもバスの速度は落ちず暴走は止まらない。当たり前だ、エンジン全開で暴走するバスの運転手に外から何を叫んだところで聞こえるはずない。  こめかみを冷や汗が伝う。  「ヨンイル、何の漫画参考にしたんだよ……」    ヨンイルを止めるには直接バスん中に乗り込むしかない。  素人運転は事故のもとだ。今すぐヨンイルをハンドルからひっぺがさないと大惨事を引き起こしかねない。鍵屋崎を助けるどころじゃない、ヨンイルごとバスが大破炎上したら洒落にならねえ。地下停留場が火の海だ。  「レイジ、お前運動神経イイだろ。ちょっくらバスの窓蹴破ってヨンイル正気に戻してこいよ」  「簡単に言うなっつの。俺でもできることとできないことが……」  レイジが不意に言葉を切る。レイジの視線を追う。エゴ剥き出しに地下停留場を逃げ惑う囚人と看守、その人ごみを巧みに縫って颯爽と一台のジープが現れる。凸凹の激しい悪路も砂漠の道なき道をも走破できる頑丈なジープが、ゴムタイヤの灼ける匂いも香ばしく猛然と地下を突っ切ってくる。  「HEY、タクシー!」  「ヒッチハイクかよ!?」  レイジが親指を突き出す。  そんなんで都合よく止まるかよと突っ込んだ眼前にジープが急停止。  「安田!?」  ジープを運転してたのは副所長の安田だった。  いつもきっちり纏めてるオールバックが乱れ、一房二房としどけなく額に落ちかかっている。銀縁メガネの奥の双眸は怜悧な鋭さを増し、切迫した面差しには憔悴の色が濃い。着崩れたシャツに無造作にネクタイを締めた安田がレイジと俺を交互に一瞥、事務的に指示する。  「轢かれたくないなら逃げたほうが無難だ。私はヨンイルを追う」  凄味を感じさせる表情に眼鏡の輝きが底知れぬ迫力を与える。  威圧的な言動に気圧される俺をよそにレイジは飄々と笑ってる。  飄々と笑いながらジープの後部ドアに手をつき、コンクリ床を蹴り、身軽に宙に舞う。  一呼吸後には後部座席に収まったレイジが、ぼけっと突っ立ってる俺にむかって片目を瞑ってみせる。  「ヨンイル追うんだろ?だったらちょうどいいや、目的はおんなじだ。俺たちも乗せてくれよ」  「許可も得ず勝手な真似をするな。副所長の車に囚人が乗り込むなど本来は規則違反、厳罰に処されても仕方ないぞ」  「かてーこと言うなって。あんた鍵屋崎の居場所も知らねーだろ」  「……君は知ってるというのか」  含みをもたせた台詞に安田が眉をひそめ、ハンドルを握ったまま振り向く。頭の後ろで手を組んだレイジがほくそ笑む。  「ヨンイル追うなんざただの口実だ。あんた本当は鍵屋崎をさがしにいくんだろ?だったら俺を連れてって損はない、俺なら鍵屋崎の居場所がばっちりわかる。あんたにヒントをくれてやれる」  安田の目に一瞬不審の色が浮かぶも、すぐに消える。  鍵屋崎の身が危険に晒された状況下で迷ってるヒマはないと判断したらしい。細かいことはぬきに王様の言い分をひとまず信用した副所長がハンドルを握りなおす。  「君はどうする?」  安田が俺を仰ぐ。  答えは決まってる。  後部ドアに手をつき、勢い良く床を蹴り、宙空にて猫のように身を捻る。  「半々……じゃないロン、俺もつれてってくれ!ヨンイルさんが心配なんだ」  言い間違えを訂正、人ごみに揉みくちゃにされたワンフーが這う這うのていでやってくる。ドアをこじ開けて乗せろとせがむワンフーにためらうも、心を鬼にして迷いを振り切る。  「悪い、定員オーバーだ!」  安田がアクセルを踏み込む。  ジープが急発進、ワンフーがもんどりうって吹っ飛ぶ。  慣性の法則で体に負荷がかかり鋭利な風が頬を掠める。  副所長の運転する車で砂漠に出たとバレたら独居房送りを覚悟しなきゃならないが、鍵屋崎とヨンイルが死ぬかもしれない一大事にいちいちそんな事構ってられっか。  風圧で舞い上がる前髪を押さえ、運転席の安田に呼びかける。  「あんたはいいのかよ副所長、勝手にジープ出したことがバレれば変態所長に怒られねーか?!」    風に吹き散らされないように自然と声がでかくなる。  「鍵屋崎の命が危険に晒されてる時にそんな瑣末なことに拘っていられない。囚人の安全を守るのが副所長の使命だ。所長には後で報告する……しかるべき処罰は受ける」  安田の横顔に決意の一念が過ぎる。  手際よくハンドルを操りジープを駆りながら、バックミラー越しにレイジの表情を窺う。  「……憂慮すべきはむしろ私ではなく君だ。私のジープに同乗して強制労働時間外に砂漠に出たことが発覚すれば君とてただではすまない。君は所長に目をつけられている。規則を破ったことがバレればどんな過酷な罰を受けるかもわからない」  脅迫、というにはあまりに抑制の利いた口ぶりで安田が指摘する。  間抜けなことに安田の指摘で初めてその可能性に思い至り、全身の血が逆流する。  俺の隣でレイジは飄々と口笛を吹く。  相変わらず音痴な口笛が風にちぎれる。  頭の後ろで手を組み、ご機嫌な様子で前を向いたレイジに食ってかかる。  「レイジ、お前いいのかよ」  「いいんだよ」  風に流れる茶髪を片手で押さえ、あくびを噛み殺すように付け足す。  乾いた風に髪を嬲らせ、王様は不敵な笑みを刻む。   「なまぬるい責めに飽き飽きしてた頃だ。たまには刺激が欲しくなる」  「強がり言ってんじゃねーよ。またケツにローター突っ込まれて腰砕けで帰ってきたら俺……」  「襲う?」  「『笑蚤』」  台湾語で悪態を吐き、そっぽを向く。  地下停留場をさんざんひっかきまわした末に外へ逃亡したバスを追跡、夕映えの砂漠へとジープが飛び出す。  西空が紅蓮に燃える。  跳ねっ返りで癖が強い髪を前方から吹いた風がかきまぜる。  不規則に揺れるジープの中。  固い背凭れに体を預け、エンジンの嘶きと車体の振動を感じ、呟く。  「お前に手を出したら、今度こそ所長を殺す」  安田がこっちのやりとりを聞いてるのはわかったが、いったん堰を切った言葉は止まらない。自分を抱きしめるように体に腕を回し、シートに足をあげる。体に膝を引き付け、こじんまりと折り畳む。  噴き上げる激情を抑えようとぎゅっと自分を抱きしめ、目を瞑る。  「……鍵屋崎は俺の仲間だ。不幸せになんかなってほしくない。サムライだってそうだ。東京プリズンでやっと出来た大事なダチ、大切な仲間だ。鍵屋崎にもサムライにも幸せになってほしい。だけどお前は」  最初から幸せになるのを諦めてるような。  不幸せでもいいやって笑ってるから。  だから不安なんだ。  不安でどうしようもないんだ。  「お前は俺が幸せにしなきゃいけないんだ。俺が幸せにしてやんなきゃ、幸せになれないんだ」  鍵屋崎にもサムライにも幸せになってほしい。  だけどレイジは、俺がいなきゃ幸せになれない。  俺はレイジを幸せにしてやりたい。おもいっきり幸せにしてやりたい。二度と所長の餌食にさせたくない、レイジの体と心を所長に弄ばせたくない。レイジは俺の物だ。レイジをどうにかしていいのは俺だけだ。他の誰にもレイジをさわらせたくない、抱かせたくない、渡したくねえ。所長の下で淫らに喘ぐレイジを思うと嫉妬で胸が煮えくりかえる、性的いじめだか性的な拷問だかでさんざん嬲られて快感に狂わされるレイジを思うと所長に対する殺意を抑えきれない。  レイジが好きだ。  どうしようもなく。  所長が憎い。  殺したいほどに。   重苦しい沈黙にエンジンの唸りが被さる。  安田は無言でハンドルを握ってる。  俺は不規則な振動に身を委ね、レイジを好きに弄ぶ所長への嫉妬と殺意に苛まれた醜い顔を見られたくなくて、膝に顔を埋める。唇をきつく噛み締める。肩に手がかかる。レイジが俺の肩に手をかけ身を乗り出す気配を察する。  「ロン……」  「俺、最低だ」  心配げな声。  俺は顔を上げられない。  レイジが所長にどんな目に遭わされるか想像するだけで胸がむかつくのに口ばっか達者で実際は何もできない自分が悔しくて情けなくて顔が引き歪む。膝に顔を伏せたまま身動ぎしない俺の頬に、そっと褐色の指先が触れるー……  指が肉を挟み、引っ張る。思い切り。  「ひでででででっでででで!!?」   涙目で呻いた俺からパッと手を放し、底が抜けたように笑い転げるレイジ。後部座席にそっくり返り手足をばたつかせ、まんまイタズラに成功した悪ガキのはしゃぎっぷりにあっけにとられる。  「ざまーみろ、俺の顎に肘鉄食らわせたお返しだ。あ、これキスもイケるかなって期待してたのに雰囲気ぶち壊しで腹立ててたんだよ。これでおあいこだな」  「てめ、ひとが真面目な話してるときに……!」  「シケたツラすんなよ。笑っとけ。お前が落ち込むと調子が狂うんだよ。王様の命令」  赤く腫れた頬をさすり、恨みがましくレイジを睨む。安田がわざとらしく咳払いをする。そこで初めて第三者の存在を思い出し、ひどく気まずい思いを味わう。  熱っぽい頬に手をあて、俯く。  レイジに一本とられた腹立たしさと安田に痴話喧嘩を聞かれた恥ずかしさも相俟って不機嫌になった俺は、頬から手をはずし、ぶっきらぼうに呟く。  「……約束しろよ、レイジ。ちゃんと俺のところに帰ってくるって」  「ああ」  「いなくなるなよ」  「わかってるよ」  「所長にナニされても感じるなよ」  「わあ、ロン過激ィ」  「茶化すな。本気で言ってるんだ。ちゃんと俺の目を見て約束しろ」  レイジのニヤけ面をしっかり手挟んで強引にこっちを向かせる。  レイジと真っ直ぐ目を合わせる。  草一本もない不毛の砂漠が背景に飛び去る。  濛々と砂埃を蹴立てて疾駆するジープの中、舌を噛みそうな振動に難渋しつつ口を開く。  「俺以外の男を抱いて感じるな。俺以外の男に抱かれて感じるな。いいな」  向かい風が髪を蹂躙する。  西空に夕日が沈み、砂漠が朱に染まる。  網膜に射しこむ残照に目を細める。  砂漠の砂を照り返し、大気を染色する太陽の乱反射にレイジもまた片目を細める。  「……約束するよ。ロン以外の男に抱いても抱かれても感じない。俺のいちばんはロンだ」  優しく俺の手をとり、恭しく頭を垂れて手の甲に口づける。  レイジの唇が触れた場所がじんわり熱をおびる。唇から伝わる火照りが心地よい。  レイジに取られた手はそのままに、残照を映して色合いを深めた瞳を覗き込む……  「漸く追いついたぞ!」  安田が歓声をあげる。  安田の声にハッとして前方を見る。  扉から身を乗り出した俺の後ろ襟掴んで引っ込めたレイジが、俺の背中に乗っかり前傾姿勢をとる。  ジープは僅か五メートルを隔ててバスと併走していた。  安田が額に汗してアクセルを踏み込み、エンジンを噴かす。  濛々と砂埃を蹴立ててジープが加速、バスの前部へと追いすがる。  運転席の窓辺にジープが寄り添い、髪を振り乱して安田が叫ぶ。  「ヨンイル、聞こえるかヨンイル!即刻ブレーキを踏んでバスを止めろ!このまま走行すればいずれ砂にタイヤを取られて転覆する、横転事故は避けられないぞ!」  血相替えて投降を勧告するも速度の衰えは微塵もなくバスは走り続ける。四輪のタイヤが膨大な量の砂を蹴散らして深々と溝を作る。滝のように飛沫を撒き散らす砂の瀑布が視界を覆う。  口にも目にも服の中にも砂が入り込んでじゃりじゃりする。  さかんに唾を吐いて目をしばたたいて上着をはたいて砂利を追い出し、紗がかった瀑布の向こうに叫ぶ。  「ヨンイル、聞こえてるかヨンイル!お前いい加減正気に戻れよ、鍵屋崎の居場所ほんとにわかってんのかよ、滅茶苦茶に走り回ってるだけじゃんかよ!?鍵屋崎は溶鉱炉だ、溶鉱炉にいるんだ、レッドワークの溶鉱炉につかまってるんだ!鍵屋崎を拉致った犯人もそこにいる、サムライもそこにいる!静流は鍵屋崎を人質にしてサムライと対決する気なんだ、今度こそサムライと決着つけるつもりなんだよ!」  「それは本当か!?」  「よそ見すんなばかっ、前見ろ!」  鍵屋崎の名前を出した途端顔色を変えて振り向いた安田をどやしつけ、首を捻って前に向き直らせる。ああくそ、つい口が滑って副所長に馬鹿って言っちまった俺の馬鹿!  再三の呼びかけも虚しくバスは一向に速度を落とさず停止の気配を見せない。ヨンイルは何してんだよと苛立ちが募り怒りが爆発、運転席の窓を殴り付けようと拳を振り上げる……   「どわあっ!?」  運転席の窓を殴打する前に激しい横揺れが襲い、あっけなくひっくり返る。後部座席に倒れて目を回した俺は、夢うつつに激しく言い争う声を聞く。  乗り物酔いの吐き気を堪えて体を起こし、衝撃的な光景を目撃する。  運転席に身を乗り出したレイジが安田とハンドルを奪い合ってる。   「なにをするレイジ、危険だ、やめろ!」  「ちんたらやってんなよ副所長。貧弱な坊やに運転任せといたらいつまでたっても追いつけねーよ、いい子でハンドル渡せって!」  安全運転を心がける安田の非難を鼻先で笑い飛ばし、王様が不敵な笑みで断言。  いっそ気を失っちまいたかった。  天下の副所長を貧弱な坊や呼ばわりし肘で押しのけ、華麗な身ごなしで運転席に飛び移るや否や景気よくハンドルを半転させる。ハンドルがきっかり180度回転、それにつれてジープが半立ちになり遠心力でシートの端へと転がる。  反対側の扉に背中が衝突、肺が圧縮される。  視界が激震、脳味噌が攪拌される。  「レイジお前運転できんのかよっ!?」  語尾が悲鳴に近くなる。ハンドル争奪戦兼ジープの所有権争いに勝利したレイジが叫び返す。  「運と勘任せ!」  「お前に任せるんじゃなかったよ!!」  ジープが転覆、上を向いたタイヤが空転する光景が脳裏を過ぎる。  安田はどうにかハンドルを奪還しようと悪戦苦闘するも、伸ばした手を邪険に振り払われ、努力が報われずに眼鏡が鼻先にずり落ちる。  「ハンドルを返したまえレイジ、君の運転は目に余る無謀だ、交通法を無視した暴挙だ!遅かれ早かれジープが転覆して無理心中は免れないぞ!」  安田の声が風に吹き散らされて切れ切れになる。  「口閉じとけ、舌噛むぞっ」  レイジの叱責にぎゅっと歯を噛み合わせ、予期した衝撃に備える。  ジープが跳躍、凄まじい衝撃が来る。  宙に踊りあがったジープから振り落とされないよう必死にシートにしがみつく。起伏にさしかかったジープが宙に踊りあがった刹那、俺の視線の高さにバスの運転席の窓が映り、真剣な面持ちでハンドルを握るヨンイルが目にとびこんでくる。  「ヨンイルっ!!」  ヨンイルがこっちを向く。その目が驚愕に見開かれる。  たった今俺たちに気付いたといわんばかりに仰天した表情。  「―っ、」  大量の砂を巻き上げてジープが着地、反動で尻が浮上する。  空を噛んだタイヤが地面で跳ね、ジープが平行に戻る。  「何が運と勘任せだ、安田道連れに無理心中する気かよ!?」  「女乗りこなすのが得意でもジープ乗りこなすのが得意たあ限らねーだろ!?」  「俺一人満足に乗りこなせねーくせにでけー口叩くんじゃねえよ!」  「乗りこなしてるっつの、アクセルブレーキ自由自在でご覧あれだ!俺の腹の下でさんざ腰のドリフト利かせてる癖に嘘つくなよっ」  阿呆だ。阿呆すぎる。  乱暴な運転に命の危険を感じる。  レイジもこれ以上自分がハンドルを握ってるのはまずいと思ったらしく、乗り物酔いでへたばった安田にハンドルを譲り渡す。安田のネクタイをひっ掴み、扉に片足かけた自分と入れ替わりに運転席に座らせる。  「後は頼んだぜ安田さん。ちょっくらヨンイルに説教してくるから」  まさか。  レイジが安田の懐をまさぐり、背広の内側から銃をとりだす。  安田が抗議するより早く扉に利き足かけて銃を構える。  左手で銃底を支え、右手で銃を握って弾道を固定する。  不安定な足場を絶妙なバランス感覚で維持、風に前髪を遊ばせて呼吸を整える。  風を孕んだ前髪の奥、物騒な光をためた隻眼を細める。  危うい均衡の上に重心を保ち、狙い定めて引き金を引く。  乾いた銃声が連続で轟く。  躊躇なく六発、窓ガラスに弾丸をぶちこむ。  射撃の反動に腕をまっすぐ束ねて耐え、仄白く硝煙たなびく銃口をおろす。  「猛スピードで走ってる車から弾丸撃ちこむなんざ無茶だ……」  呆れた俺をよそに、レイジが満足げな表情を浮かべる。  「無茶を可能にするのが王様だ」  窓ガラスが真っ白に爆ぜ、弾痕を中心に放射線状の亀裂が生じる。  運転席の窓ガラスに六つ弾痕が穿たれる。  ひびが入った窓ガラスに決意の表情を映し、深呼吸する。  いつものおちゃらけた笑みから一転真剣な眼光で窓ガラスを射抜き、走行中のジープから宙に身を躍らす。。  眼前で腕を交差させ頭を守り、猫科の跳躍を思わせる身を丸めた姿勢で窓ガラスに飛び込む。  レイジが激突した窓ガラスが砕け散り、宙に破片が舞う。  「レイジ――――――!?」  王様、無茶しすぎだ。 [newpage]  「……………馬鹿な」  呆然と呟く。衝撃で頭が真っ白になる。  自分の意志では指一本動かせない全身硬直の状態でひたすら炉を覗き込む。  たった今サムライを呑み込んで巨大な泡を生み出した炉は、今再び何事もなかったように泥流の表面を保ち間欠的な噴火をくりかえす。  高温で煮立つ炉から大小の泡が噴出、膨大な量の火の粉が濛々と舞い上がる。  サムライが死んだ。  死亡した。  僕の眼前で真っ逆さまに炉に落ちた、肉と骨を溶かして跡形もなくすマグマの吹き溜まりへと真っ逆さまに落ちて瞬時に蒸発してしまった。  細胞の一片たりとも残さず、完全に消滅してしまった。  大気中に散じたサムライの残滓をかき集めようと手を伸ばしかけ、漸く手を吊られてるのを思い出す。  遥か足元で泡が破裂、炉が沸騰する。  サムライの姿はない。  どこにもない。  完全に僕の視界から消えてしまった。  「…………あ、」  「死んだね」  手摺に手をかけて炉を見下ろし、あっけなく静流が嘯く。  どこか拍子抜けしたような静流に目を向ける。  壊れた手摺の向こうには虚空が広がっている。  サムライが背中を凭せた瞬間、謀ったように体重を預けた手摺が傾ぎ、無防備な向きに倒れたのだ。  偶然ではない。偶然の筈はない。  故意だ。作為だ。  人為的な罠だ、姑息な工作だ、卑劣な小細工だ。  静流の態度がすべてを物語っている。  紅を塗らずとも赤い唇を綻ばせ、妖艶に微笑む。  背徳の色香匂い立つ魔性の微笑み。  サムライが没した炉で勢い良く火が爆ぜる。  更に火勢を増して激しく燃え盛る炉を眺め、細めた双眸に踊り狂う火影を映し、感慨深げに独りごちる。  「漸く終わった。復讐が」  片手を手摺に添えたまま、空いた手を見下ろす。  己の手を見下ろし微動だにせぬ静流のまわりを火の粉が取り囲む。  紅襦袢の裾がたなびくように華美に火の粉が舞う中、先刻まで鉄パイプを握っていた手のひらを見詰め、軽く指を握りこむ。  「僕のこの手で帯刀の因縁を断ち切ったんだ。長年僕たちを苦しめ続けた帯刀の呪縛を断ち切ったんだ、すべてを終わりにしたんだ。これでもう僕らを苦しめるものはなくなった、諸悪の根源たる帯刀貢は炎に消えた、僕らを帯刀家に縛り付けていたものはなくなったんだよ……姉さん」  決して掴めぬ物を掴もうとするように指を折り曲げる。  形なきものを掴もうと五指を握りこむ静流、深々と頭を垂れたその姿は姉と従兄の死を悼んでいるかに見える。  手摺に縋って面を伏せた静流の頭上にて、宙吊りにされた僕は放心状態から脱することが出来ず、虚ろな目で炉を見詰め続ける。  「サムライが死ぬわけがない」  僕を残して死ぬはずがない。  ずっと僕を守ると約束したんだ。  今度こそ僕を抱くと約束したんだ。  武士が約束を破る筈がない。  誰より高潔で誇り高い侍が、信念を捨てる筈がない。  『しばし、抱かせてくれ』  僕はまだ侍のぬくもりを覚えている、侍の心臓の鼓動を覚えている。  「必ず生き残って、僕を抱くんじゃなかったのか」  侍。  『必ず助ける。必ずこの手にお前を抱く』  サムライ。  『愛しているんだ、お前を。狂おしいほどに』  僕のサムライ。  「君が死んだら、僕は狂うしかない。君がいない世界で狂わずにはいられない。君のいない孤独に耐えられず狂わずにはいられない」  狂気に似た衝動が噴き上がる。  胸が痛い。  痛くて痛くて張り裂けそうだ。  サムライどうした何故戻ってこない炉から這い上がってこない、この程度で終わりか、終わりなのか?  君はその程度の男だったのか、口ほどにもない。  僕を抱いて必ず守ると誓ったあれは嘘か、必ずまた僕のもとに戻ってくるという約束は嘘か、貴様の存在すべてが嘘で塗り固めた虚構だったとでも?  ……信じない。認めない。  そんなことは絶対に認めない、こんな現実は絶対に許容しない、鍵屋崎直の全てを賭けてこんな現実否定してやる、サムライが存在しない世界を否定してやる。  サムライ。  生まれて初めてできた僕の友達、かけがえのない存在、僕を救い上げてくれた男。君がいればこそどんな過酷な障害も乗り越えられた、来る日も来る日も性欲を剥き出した男に犯される売春班の生き地獄もレイジとロンの関係に亀裂が入った時も、みっともなく見苦しく最後まで足掻いて足掻いて足掻ききることができた。  プライドをかなぐり捨てて大切なものを守り抜くことで、僕が僕たる最後の一線を死守することができたのだ。    それを教えてくれたのはサムライだ。  みっともなく見苦しく格好悪く、足掻いて足掻いて足掻ききって希望を掴むことを教えてくれたのはサムライだ。  最後まで諦めるなと背中を押してくれたのはサムライだ。  辛くて苦しくて挫けそうな僕を叱咤してくれたのはサムライだ。  僕が東京プリズンで生き抜けたのは彼が、サムライがいたからだ。  隣に常にサムライがいたからだ。   「………はっ!」  ………そうだ。  僕ともあろう者が忘れるところだった。  希望を。  「勘違いもはなはだしいぞ、静流。これしきのことであの往生際の悪い男が死ぬものか。サムライが男が炉に落ちたくらいで蒸発するような根性なしであるものか、僕が友人と認めた男が簡単に死ぬものか、たとえ炉で煮られ炎で焼かれても彼は不滅だ、僕が愛するかぎり帯刀貢は不滅だ!!」  僕は全身全霊をかけてサムライを愛する。  サムライは全身全霊をかけて僕に尽くす。  僕らが全身全霊で互いを思い合うかぎり僕たちは死なない、僕らは互いを生かし合う。  「サムライっ!!」  脂汗が目に流れ込み視界がぼやける。  鉛の如く重たい瞼を意志の力でこじ開け、重圧に抗う。  僕は声振り絞り叫ぶ、必死に叫ぶ。  もはやなりふり構ってなどいられない、恥も外聞もかなぐり捨て全身全霊でサムライに想いをぶつけずにはいられない。  たとえ傷口が開いて腸が零れようとも激しい痛みと熱で意識が爆ぜ飛ぼうとも泡沫と化したサムライを声の続く限り呼ばずにいられない。  「貴様この程度で終わるのか、この程度の男なのか、事もあろうに僕を抱くと宣言しておいて戦闘開始から十分ももたず死亡するような 口先だけの男なのか!?もしそうなら貴様には幻滅だ。貴様はこの僕が認めた男IQ180の天才鍵屋崎直が認めた誇り高き侍だ、貴様になら抱かれてもいいと僕に思わせた唯一の男だ、僕の唯一の男だ!!忘れたのかサムライ僕を抱いた時の感触を、僕の息遣いと鼓動を、僕が君に託した熱を!!」  サムライ。  サムライ。  生きててくれ、サムライ。  僕を残して逝かないでくれ、僕をひとりにしないでくれ、約束を守ってくれ。  また「直」と呼んでくれ。笑ってくれ。  そして今度こそ僕を抱いてくれ、僕と繋がってくれ。  「泣いても喚いても無駄だよ。帯刀貢は哀れ炉の泡と化したんだから」  手摺に背中を凭せた静流が卑屈に笑うも無視、手首が捻れる激痛に脂汗をかき顔を顰め、叫ぶ。  「抱いてくれ!!」  もう一度顔が見たい、手に触れたい、声が聞きたい。  「頼むサムライ、抱いてくれ。僕を思い切り強く抱きしめてくれ。君に抱かれずに終わるのはいやだ、抱かれずに死ぬのはいやだ、僕は君と………!」  一緒に生きたいんだ。  生きていきたいんだ。  「………一緒に逝きたいなら、お望みどおり後を追わせてあげる」  手摺から背中を起こした静流が緩やかな動作で鉄パイプを拾い上げ、僕の足元に寄ってくる。  凶悪に尖った鉄パイプの切っ先が体に近付き、恐怖で喉が鳴る。  鉄パイプの先がつと滑り、傷が開いた脇腹を掠める。   静流の目が嗜虐の光を孕む。  「業火心中だ。さようなら、直君。短い間だけどそれなりに楽しかったよ」  「………っ!」  鉄パイプの切っ先が脇腹を貫く光景を幻視、目を見開く。  必死に身をよじり静流から逃れようともロープで宙吊りにされていたのではどうしようもない、どうすることもできない。  中空で暴れる僕に歩み寄り、いっそ無造作に鉄パイプを振り上げる。  「あの紅襦袢、よく似合ってたよ。あれは姉さんの形見なんだ。あの紅襦袢を羽織れば僕も姉さんになれる気がした、僕の中に姉さんを感じることができた。姉さんの残り香に包まれて幸福な思い出に浸ることができた……」  「ただ、の服装倒錯では、なかったんだな。つまらない感傷だ」  さかんに宙を蹴り浮上を試みつつ、口角を吊り上げて不敵な笑みを作る。ただの虚勢だ。  「あの世で貢くんによろしく」  清澄に微笑んだまま静流が動く。  風切る唸りを上げて襲来した鉄パイプが僕の脇腹を抉りー……  突如として火の粉が舞い上がる。  視界を覆った火の粉に軌道を狂わされた鉄パイプが手摺に激突、火花を散らす。  「!?な、」  静流が驚愕の相で叫び、手摺の外に向き直る。    「まだ死なん」  声が、した。  彼の声。  一段下の足場から届いた声に血相替えて手摺から身を乗り出す静流、僕は宙吊りにされたまま火の粉ふぶく眼下を見る。  サムライが、いた。  燃えていた。  炎上していた。  後光を背負ったように背中一面が炎上、背中に吹き流れた総髪にも火が燃え移っていた。  「直を抱くまでは、死なん」  「サムライ、背中が……」  思わず息を呑んだ僕を見上げ、サムライが首肯する。  背中が焼ける激痛に苛まれて意識を保つのも難しいはずなのに、玉の脂汗が噴き出た苦悶の形相で、強靭な意志と堅固な信念を支えに両足で立ち続ける。  「しぶといね、まだ生きていたのか。てっきり炉に落ちたと思っていたのに」  静流が舌を打ち、壊れた手摺を一瞥する。  「……ああ、そうか。さっきはパッと火の粉が舞い上がってわからなかったんだ。あれは手摺が炉に没した泡と音で、火の粉をめくらましにした君は落下の直前に一段下の通路に逃げ込んだわけだ。ははっ、すっかり騙されちゃった!僕もまだまだ未熟者だ、姉さんに怒られちゃうよ。油断は禁物だね」  火が燃える。  サムライの背中で火が燃える。  肉の焦げる匂いが鼻腔を突き、吐き気を催す。  「今すぐ火を消し止めろ背中が焼けてしまう火傷してしまう、何をぼうっとしてるんだ、頭皮に火が燃え移ったらどうしようもないぞ!他の部位ならまだ皮膚移植でどうにかなるが頭皮の火傷は治りにくく細胞が死んだら髪も生えない、早く火を消すんだ消せ消すんだ、灰になる前に!!」  次の瞬間、静流が跳ぶ。  囚人服の上着が風を孕んで膨らみ、裸の背中が垣間見える。  衣擦れの音も高らかに袖がはためく。  勢い良く手摺を蹴って宙に身を躍らせるや、鉄パイプを片手に一段下の通路に転がり込む。   「今度こそ殺してやる。業火で灼いてやる。帯刀家に終焉をもたらすのは、この僕だ」  「……俺が今味わってるのは、直の痛みだ」  サムライが瞼を閉じる。  苦痛の色濃い面持ちに夥しい脂汗が浮かび、火炙りの激痛に奥歯を食い縛り、肉の焦げる臭気があたりに立ち込める。  僕にはわかった。  サムライは自らすすんで炎の責め苦に耐えているのだ。  僕が味わった痛みを共有しようと、僕が味わった痛みに報いろうと。  「お前の甘言に騙されて直を手酷く傷つけた。直を裏切ってしまった」  「いいんだサムライ、僕はいいんだ、こうして生きてるだけで十分だ!これからも君と生きていけるだけで十分なんだ!」  「直が味わった痛みの何分の一、直が味わった絶望の何分の一でも俺は報いねばならん」  サムライが深く呼吸し、切腹の構えで体前に鉄パイプを突き出す。  サムライのまわりに火の粉が吹き荒ぶ。    サムライが鋭く呼気を吐き、鋭利な切れ味を誇る鉄棒を一閃する。    僕が成す術なく見守る前で。  火の粉混じりの風になびく総髪が根元からざくり断ち切られ、宙に舞う。  鉄パイプの切っ先で断ち落とされた総髪が風に吹きさらわれ、何百本何千本もの毛髪の嵐となり、火の粉に炙られて消滅する。    火の粉の爆ぜる音だけが聞こえる静寂の中。  炉上にて対峙した修羅の片割れ、今しも自身の髪を切り落とした短髪の剣士が、ひどくゆっくりと目を開ける。  「いざ参ろうぞ」  サムライが上着を脱ぐ。      殆ど消し炭と化した上着が、炎の坩堝に落下する。   「俺は直と生きる。己と直の為に、直と共に地獄を生きる」  ひどくゆっくりと瞼が開き、清冽な眼光を宿した双眸が現れる。    一人の侍がいる。  過去と決別し、自ら呪縛を解き放ち。   炎の中で生まれ変わった侍がいる。  「俺が振るう刀は己と直の為、直と共にある。帯刀の家名にもはや未練はない。俺は……」  「僕は」  背中に酷い火傷を負った侍を見下ろし、口を開く。  呼吸を合わせ、心を一つにする。  手が届かなくても指さえ触れ合えずとも、心を寄り添わせることが可能なら。    伝えたい想いがある。  伝えたい言葉がある。  ただ一言、  「俺は、直の侍だ」  「僕は、侍の直だ」    呼吸が合わさり、声が重なる。  火の粉がちりちりと燻る中、数奇な因縁に導かれた帯刀の末裔が再び対峙する。  決着の刻。  死闘のはじまり。    「………僕は?」  どこか気抜けした様子で鉄パイプを手に預け、静流が哀しげに微笑む。  先ほどまでの妖艶な毒気を含んだ笑顔とは一変、透き通る微笑。    「僕は誰のもの?帯刀家のもの?違う。僕もだれかのものになりたかった。いや違う、僕はだれかのものになんてなりたくなかった。僕は姉さんのものになりたかったんだ、姉さんに独占されたかったんだ」  舞をおもわせる静けさで足を運び、静流が続ける。  「なのに結局は、僕も姉さんも帯刀家の物にすぎなかった。帯刀家の者じゃない……ただの『物』だ。帯刀家の血を絶やさぬためだけに生かされた道具だ。僕は薫流姉さんを独占したかった。永遠に僕だけの物にしたかった」  「薫流を殺して願いは叶ったか」  静流が疲れたふうに首を振る。  「………僕の手には何も残らない。血の汚れしか残らない。姉さんは最期の最後まで帯刀家の物だった、帯刀家の物として生を終えた。なればこそ僕も帯刀家の物として生を捨てよう、帯刀家を滅ぼした男への復讐にすべてを捧げようと思ったのに……」  静流がゆるやかに顔を上げ、真っ直ぐに侍を見る。  火の粉を映して薄紅に染まる水鏡の目。  「帯刀家の者になれぬなら、せめて帯刀家の物として死ぬ。姉さんがそうしたように」   静流が正眼に鉄パイプを構える。  これまでとは比べ物にならない殺気を感じる。水の流れに似てあたりにたゆたう殺気……  あまりに静か故に不吉なそれ。    小揺るぎもせず鉄パイプを構え、伏せた双眸に光を深沈させ、美しき修羅が名乗りを上げる。  「帯刀分家が嫡男、静流が参ります」  今ここに帯刀の血脈が生み出した一人の天才が降臨する。
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