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少年プリズン4
鉄扉の横、正方形の液晶画面へと手を翳す。
蜂の羽音に似た低い振動が鼓膜を震わせた次の刹那、鉄扉の中心に切れ目が生じる。左右に分かたれた鉄扉から奥へと歩を進める安田。先を譲り合うようにあとじさったリュウホウとダイスケを無視し、僕は安田に続く。背後で鉄扉が閉まる。
鉄扉に隔てられた廊下は、鉄扉の向こう側とは比較にならないほど荒廃していた。汚れた天井に吊られた蛍光灯の大半は割られ、残りの蛍光灯も寿命の尽きかけた蛍のように危うげに瞬いている。左右の壁一面を埋めているのは、卑猥なスラングや稚拙な落書き。壁の上方に設置された通風口から吐き出された生暖かい風が、湿ったシーツのように頬をなでる。
もう一つ変化があった。
廊下の左右に並んでいるのは、無個性な鉄扉の群れ。鉄扉の上部には矩形の窓があり、等間隔に鉄格子が嵌められていた。鉄扉の中央に鋲で固定されたプレートには、無表情な英数字で号数が記されている。
だが、廊下の変化より何より僕らの目を引いたのは、鉄格子の中からこちらを窺う無数の影ー無数の視線だ。敵愾心と警戒心を同量に含んだ剣呑な視線が、鉄格子の隙間から全身に注がれているのがわかる。
鉄格子に殺到した囚人たちを意図的に無視し、安田は平板な口調で言った。
「着いた」
安田は必要最低限のことしか喋らない、効率重視の男だ。安田が立ち止まったのは、廊下の端に位置した鉄扉の前。右の拳を掲げ、安田が機械的に扉をノックする。
沈黙。
「……留守にしているようだな」
安田の呟き。拍子抜けした僕を肩越しに振り返り、安田が言う。
「鍵屋崎、君の房はここだ。同室者は今留守にしているようだが、先に入っていてかまわない」
「はい」
逆らうという発想ははなからなかった。安田は従順な囚人に満足したらしく、踵を返して立ち去ってゆく。リュウホウとダイスケは別の房に案内されるらしい。僕の鼻先を一列に過ぎり、遠ざかってゆくダイスケとリュウホウ。別れの挨拶は交わさなかった。ただ、肘と肘が触れ合う距離にまで接近したダイスケが、極力音量を絞ってこう囁いたのは聞こえた。
『あばよ、親殺しのクソ野郎が』
押し殺した声には抑圧しがたい嫌悪と嗜虐心に酔った優越感が滲んでいた。僕に背を向けたダイスケの後方、小走りに列に続いたリュウホウが心細げにこちらを振り返る。僕は何も答えず、リュウホウとダイスケが廊下の角を曲がり隣の棟へと導かれてゆくのを漫然と見送っていた。
二人の後頭部が完全に視界から消失するのを待ち、手垢に汚れたノブを握る。鉄扉が軋み、内へと開く。薄闇に沈んだ房を見回し、慎重に慎重を期して歩を進める。
殺風景な部屋だ。
部屋の両側にしつらえられたパイプベッドのほかに、めぼしい家具調度は見当たらない。奥の壁に固定されているのは洗面台と鏡、床から一段高くなった所に設置されているのは便器か。これから長くを過ごす房を見回してみたが、心浮き立つものはなにもない。
当たり前だ。ここは牢獄なのだ。
我知らずため息を漏らす。自分の境遇を哀れむ気は毛頭起こらなかった。これは僕が選択した運命なのだ。第三者に責任転嫁することはできない。だが、こんな陰気な房で早すぎる余生を過ごすことを思うとさすがに気が滅入る。呆けたように房の真ん中に突っ立っていた僕だが、ふと部屋の隅に気配を感じ、暗闇に目を凝らす。
部屋の隅で蠢く人影。闇に溶けるように蹲ったその人物は、巌のような沈黙を守っている。安田が無人だと勘違いしたのも無理はない。僕も入室してからはじめて、先人の存在に気付いたのだ。目が暗闇に慣れるにつれ、闇に沈んだ先人の姿がおぼろげに浮かび上がる。床にじかに正座したその人物は、長親痩躯の若い男のようだ。恐ろしく姿勢がいい。定規で支えられたようにぴんと背筋が伸びている。こちらに背を向けているため容貌までは視認できないが、張りつめた背からはなみなみならぬ気迫が伝わってきた。
なんなんだ一体。
僕が入ってきたことには当然気付いているだろう。廊下でのやりとりも当然聞こえていたはずだ。それなのに反応ひとつ示さないとは……。困惑した僕は、電源を探して視線をさまよわせる。とりあえず視界を明瞭にしなければ。あった。直上に吊られた豆電球を発見する。ずいぶん旧式の照明設備だ。半ば感心しつつ、頭上に手を伸ばし傘を捻った時だ。
「!」
風切り音が耳朶を叩く。
頬を掠めたのは、氷針めいた冷気と風圧。何が起こったのか瞬時に理解できず、バランスを崩して後方に尻餅をつく。床に尻餅をついた無様な体勢のまま、視線を上昇させる。目の前に立ち塞がっているのは、長身の影。不吉な陰影に隈取られた顔の輪郭の中、陰火めいた眼光が晧晧と輝いている。
なんて目だ。
口の中が渇く。喉が渇く。唾液すら沸いてこない。暗く剣呑な双眸ー抑えた殺気。僕の目の前に立ち塞がった人物の表情は、薄闇に沈んでいるため判別しがたい。だが、その人物が右手に携えているのは……一振りの木刀だ。その時になり、漸く僕は理解した。
僕の頬を掠めた凶器の正体は、これだ。この木刀だ。
木刀の切っ先が弧を描き、僕の鼻先へと突きつけられる。流れる水のようにゆったりとした、緩慢にもおもえるその動作には、しかし一分の隙もない。暗闇で相対した男は、木刀の切っ先を僕の顔の中心に据えたまま、微動だにしない。
「……何奴」
低くかすれた声がした。目の前の男の声だ。早まる動悸を抑え、答える。
「貴様の耳は節穴か」
内心の動揺を繕うように挑発的に吐き捨てた僕に、うろんげな気配が伝わってくる。相手が当惑しているのが手にとるようにわかる。尻を払い、起き上がる。暗闇で対峙した男に向け、続けざまに言い放つ。
「廊下であれだけ大きな声で話していたのに聞こえなかったというのか。もしそうなら今度聴力検査を受けることを勧める。僕は今度この房に収容されることになった者だ。端的に言えば、そうー……君の同室者ということになる」
「同室者だと?」
相手が不審感も露わに反駁する。僕は頷く。沈黙。やがて、木刀の切っ先が下ろされる。
パチン。
軽い音がした。狭い室内に明りが満ちる。眩く発光する豆電球の下に立っていたのは、長身痩躯の若い男だ。意志的な眉の下、一重瞼の双眸が瞬きもせず僕を凝視している。肉の薄い鼻梁と口角の下がった唇、尖った顎。髪の色は今の日本では珍しいことに、ぬばたまの黒。烏の濡れ羽色という形容が相応しい光沢のある黒髪を無造作に一つに結い、禁欲的な修行僧のように引き締まった顔に無精髭を散らしている。
男は感情の読めない目でじっと僕を見た。そして。
「……名を名乗れ」
なんだと?
耳を疑った。要領を得ない反応を返した僕に、男は辛抱強く繰り返す。
「名を名乗れ、少年」
下唇を舐め、時間を稼ぐ。逡巡は三秒に満たなかった。次に顔をあげた時、僕の舌は主の意思に関係なく動いていた。
「鍵屋崎……ナオだ」
「鍵屋崎ナオか。……変わった名前だな」
言葉とは裏腹に、男は殆ど感情を覗かせることがなかった。興味が失せたように僕から視線を逸らすと、その場に胡坐をかく。組んだ膝の上に木刀を置き、片手を鍔に、片手を刃の背においてためつすがめつする。
自分から聞いておいて癇に障る男だ。これだから馬鹿は手におえない。
「貴様の名前はなんだ」
「貴様」という二人称を恣意的に選択したのは僕なりの不快感の表明だが、鈍感な男には伝わらなかったらしい。懐からとりだした手ぬぐいで丹念に木刀を磨きつつ、興味なさそうに男が答える。
「名など忘れた。……他の者からはサムライと呼ばれている」
サムライ。
「……そのままだな」
「ああ。芸のない二つ名だが、存外気に入っている」
あきれ返った僕の皮肉にも、サムライは律儀に答える。膝に乗せた木刀を満足げに見下ろすサムライ。先ほどまで四肢に漲らせていた殺気は霧散し、切れ長の目は柔和な光を湛えている。再び木刀を向けられることはないだろうと安堵した僕の耳朶を、サムライのうろんげな声が叩く。
「どうした?」
「なに?」
サムライが僕の横顔を怪訝そうに凝視している。
「何を突っ立っている。適当に座ることを勧める」
妙に堅苦しい物言いで指図され、僕は憮然として室内に視線を走らせる。サムライのように直に床に座るのは抵抗があった。一見したところ、この房はお世辞にも衛生的とは言いがたい。少なからず潔癖症の傾向がある僕は、少しでも清潔な場所を探して首を巡らす。結果、パイプベッドのマットレスは床より幾分マシであると判断した。室内を横切り、無人のマットレスに尻を乗せる。固いマットレスが尻の下で弾む。
再びの沈黙。
膝の上で手を組んだ僕は、壁に沿って視線を一巡させる。明りの下で改めて見てみると、殺風景な内装が際立つ。錆びたパイプベッドは廃品寸前の代物、よく見ればマットレスも染みだらけで、破れた部位から無残にも綿がはみだしている。ベッドの上に掛けられた毛布はひどく毛羽立っており、寝心地は悪そうだ。壁にも天井にも、至る所に不気味な染みが浮き出している。
「……居心地のよさそうな部屋じゃないか」
口の端に自嘲の笑みを浮かべた僕を、目の端でちらりと一瞥するサムライ。木刀を拭う手はそのままに、平板な声で問いを投げる。
「皮肉か?」
「本気で言ってるわけがないだろう」
喉の奥で卑屈な笑い声を泡立て、吐き捨てる。なんたるザマだ、なんてブザマなんだ鍵屋崎直。かつては輝かしい未来を約束された身が、今や悪名高い刑務所の薄暗い房で長い長い余生を過ごすことになろうとは。
なんという運命の皮肉。
今の僕に示された選択肢はただひとつ。気が遠くなるほど長い刑期を、刑務所の暗闇で終えるだけ。
僕の行く手に待ち受けているのは、一筋の光もさしこまない暗澹たる未来。
東京プリズンに収容されたら最後、生きて釈放される可能性は限りなく無に近い。僕はこんな汚い房で一生を終えるのか。一生をこんな……
「じきに慣れる」
堂堂巡りする思考を遮ったのは、鼓膜に響いた低い声。虚ろな目を下方に向ける。床に胡坐をかいたサムライが、目だけ動かしてこちらを見上げる。底光りする猛禽の目だ。
「……初日は辛いだろうが、一週間もすればここでの生活に慣れる。慣れざるをえない。それまでの辛抱だ」
「……哀れんでくれるのか。見かけによらず優しいな」
冷笑的な態度でサムライを揶揄する。サムライを名乗る男は床に正座したまま、スッと一重の双眸を細めた。彫刻刀で彫ったような切れ長の造作の眦が、峻厳な光を忍ばせてこちらを一瞥する。
「……哀れんでいるわけではない。これは忠告だ。従うかどうかはそちらの勝手だ」
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