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…………ぉ……。
……お、ゃ…………。
「────沙穂!!!」
心臓が跳ねた。
「……え、あ、ぁ、れ……?」
「ああ、沙穂、よかった。大丈夫? あんた、魘されてたんだよ」
目の前には近所に住む叔母さんの顔がある。心配そうに声をかけてくれるけれど、ここがどこで、今がいつで、自分がどうなってるのか、全然わからない……。
あ、寝てたのか、わたし。
身体を起こすと、六畳くらいの和室で、白いカバーをかけられた大きな座布団を枕に寝ていたことがわかった。え、でも、本当にここどこ? こんな部屋もこんな座布団も、家にはないよ?
「ああ、よかった。兄さんの初盆のお経の最中で倒れたから、本当に心配だったのよ。ずっと、兄さんに連れていかないでって頼んでたんだから」
待って。
「はつ、ぼん……?」
いや、意味はわかるよ。死んだ人の、初めてのお盆って……。
わかって、るんだけど……。
待って、『誰の』って?
わたしの混乱に気づいていないのか、それとも起きたばかりだからだと思われているのか、叔母さんは目元に光るものをたたえながら、言葉を続けた。
多分、聞きたくはなかった。
「そうよ、兄さんの初盆。兄さんが亡くなってから、あんたどうしてもって言ってあの家で暮らしてたでしょ。やっぱり無理だったんだよ、高校生が一人で暮らすなんて。うちにおいで」
『兄さんの初盆』……ああ、そうだ。
父は、死んだ。今年の六月。父の日を待たずに。
自殺だった。
あの日、離した手は繋ぎ直されはせず、わたしは近場で行ける中でもそれなりの進学校に進路を定めて受験は合格した。
父は喜んでくれた。わたしは失言を謝ることすらせず、その横でのうのうと生きてきた。
あの失言を、いつか謝ろう。そんな甘えはズタズタに引き裂かれた。
何が引き金になったのか。それとも何もなく、ただ絶望させてしまったのか。
ただ、わたしが父を独りにしたことだけは明確な事実だった。
わたしが学校から帰ってきた時には、既に冷たく横たわる父がいたのは現実だった。
それから救急車を呼び、警察を呼び、叔母夫婦を呼び、親戚の手を借りて通夜と葬儀を済ませたのだ。
遺されたものは小さなメモ紙一枚きり。叔母への、娘を頼むという、それだけだった。
そうだ、ちゃんと、憶えている。
「……ああ、沙穂。あんた、泣けたの」
「え……」
叔母さんの声は今までをなぞっていたわたしを少しだけ引き上げて、そして落とした。
「あんた、兄さんの葬式でも泣かなかったでしょ。ずっと後悔してたんだよ。あんたが一人娘だからって葬式にも喪主として立たせて。逆に、あんたが泣ける余裕がなくなっちゃったんじゃないかって、ずっと心配してたんだよ」
泣きながら叔母はわたしの頬を、手に持っていたハンカチで拭う。
泣いて……ああ、泣いていたの。
泣いて、いたの、わたし。
自覚した途端、溢れたものをさらに自覚した。そんなわたしを見て、少し焦った後にちょっとだけ「しょうのない子ね」っていうふうな顔をして、叔母さんはわたしの頭や背中を撫でさすってくれた。
ごめんなさい。ありがとう。
でも、望んでいるのはその手じゃないの。
泣かなかったんじゃないよ、泣けなかったの。だってあの時のわたしの中には、お父さんへの申し訳なさとか、罪悪感とか、……もっと言うとわたしが殺したんだっていう意識があって、どうしても涙なんか流せなかった。
頑是ない子供じゃないだけ。
それでもずっと、あの手が必要だって、泣き喚いていたのに。
いつからか、隠れて泣く子供だった。だって父の前で泣くととっても悲しむから。父にとっての後悔に繋がるものだと、幼心にもわかったから。
だから通夜でも葬式でも、一粒も零さなかった。大人のような顔をして、人が来るたびに礼をして、急なことなのに来てくださってありがとうございますと、ロボットみたいに繰り返す。そんなわたしを周りの人たちは心配そうに見ながら「落ち着いてるのね」と、どんな含みがあるのかもわからない言葉を落としていった。
違うなんて言えない。だって望んでそう振る舞っているのは自分だから。
あの優しい手に戻ってきてほしいとも言えない。だって振り払ったのは自分だから。
子供の頃は、大きく温かな力が大好きで、よく自分からせがんでは手を繋いでいたことを思い出す。ソフトクリームを食べる時だって離しはしなかった。
それなのに、いつの間にか恥ずかしくなって手を離した。隣を歩くことさえ恥ずかしくなって、歩くペースをずらした。……最終的に、共に出かけることも少なくなっていた。
やがて、長じては学校のイベントや部活や友人との予定で、様々なものが離れてしまったことにも気がつかぬまま。
多分、おそらく、何度もわたしの手を離せるタイミングは父にはあった。その方が負担は少なかっただろうし、そういう人は何人もいると、ニュースを見ていたら感じることもできた。
あの時まで手を離さないでいてくれたその精神が、わたしへの愛だったのか意地だったのかはわからないけれど、一つだけわかっていることがあるとするのならば。
──父は、きっと何一つとして捨てたくはなかったのだろう。
わたしとの時間も、わたしの成長を見る機会も。子供ながらに愛されていたことは重いくらいにわかっていたし、子供時代のどんな記憶にも父がいるのはそういうことだと理解できる。
弱い人だったのに優しくて背負いすぎ、強そうに見えていたのに実は子供っぽい一面も持っていた。広い背中を追っては歩き、多くの経験を共にさせてくれた。いくつか喧嘩もしたし、意地の張り合いだってした。わたしのこの頑固さや恥ずかしがり屋で自分を隠しがちなところは父似なのだろう。
だからこそ、泣いてなんになるの。
もう、謝罪したい人も、大切にしたい人も、ここにはいないのに。
わたしは叔母にもう大丈夫だからと言って、寝かせてくれていた寺のご住職に深く感謝をしてから墓へと参った。
振り仰ぐ空はカラカラに乾いていて、入道雲が、あの駅の情景のままに立ち上がっていた。
昔から何故か好きな香りの白い煙が棚引いて、ああ、終わっていたんだと、独り呟いた。
ねぇ、お父さん。
あなたはわたしの手を一度として離しはしなかったのに、わたしから無理に離しました。それはこれからずっと背負い続ける罪です。
それでもずっと、手を離さずにいてくれたことに、心を離さずにいてくれたことに、深い感謝を。
優しいあなたは少し寂しそうにしながら、それでも笑ってくれるのだと知っています。
だけれどどうか、この罪だけは赦さないで。
この罪を背負うことで、わたしはこれからの自分を創っていくから。
この罪と向き合い続けることで、わたしはそれを糧に傍にいる人を大切にしようと考えられるから。
それが、愚かで残酷な子供のわたしが背負える、あなたへの愛の証です。
──大好きです、お父さん。
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