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「……ふぅ、ごちそうさまでした」
「やっと終わったか。さぁ、次はどこに行こうか?」
「ええ? お父さん、お仕事は?」
「何言ってるんだ。今日は仕事、休みだろ」
え、あ、そうだよね。一緒に海に来てるんだもん、仕事なわけないか。
ふっと思った途端、周囲が一気に暗くなって、わたしは祭りの屋台が並んでいる道を歩いていた。
それは本当に急な出来事だった。波が引くように、瞬く間に周りの景色が、空気が、全てが変わってしまった。日中の絡みつくような暑さも、磯の香りも、風さえ、全て。
そうして振り仰いだそこは、少しだけ、父との顔の距離が近づいたような気がする。わたしは何故か、白地に朝顔柄の浴衣を身につけていた。
これ、憶えてる。小学五年、女児用の兵児帯を使うのが凄く恥ずかしくて嫌で、お父さんに我儘を言って、近くに住んでる叔母さんに無理を言って着付けの仕方を教えてもらって、一人で初めて浴衣を着た時だ。初めての半幅帯にとても気持ちが浮ついて、お姉さんになったような気がしたんだっけ。
わたしがもっともっと小さな頃に母は外に出て行って戻ってこなかった。それ以降、わたしは父と二人暮らしだ。俗に言う父子家庭。それでも父の妹である叔母さんが何くれとなく面倒を見てくれて、料理の仕方とかたくさん習ったりしたので、特に寂しいとも思わなかった。今や母親がどこにいるのかも知らないし、探そうとも思わない。
薄情? まさか。
だってわたしにはお父さんがいる。それだけでいい。
「お、やお。スーパーボールすくいがあるぞ。するか?」
え、いや──
「うん、する!」
否定しようとしたのに、言葉はするりと口をついて出てきた。そのままわたしは父の手を振りほどき、スーパーボールすくいに夢中になる。思ったよりも取れて、袋にたくさん入れてもらって満足していた。
「ほら、やお」
すくって終わったわたしに、そっと手は差し伸べられる。大きくて、温かくて、誰より安心感のある、優しい手。
この手は、いつだって大きかった。いつだってわたしをしっかりと繋ぎ止めてくれていた。
「……ううん、いい。わたし、他にも見たいのあるし」
その手から視線をそらして言う。
手は、後ろに回して組んだ。
学校の友達は来ない祭りだった。だって住んでいるところとは少し離れている場所のお祭りだから。だからお父さんと一緒に歩いていても問題ないんだってわかっている。
……それでも、恥ずかしかったの。
こんな歳にもなって父親と手を繋いでるのかって、誰かに言われるのが。
だってわたし、もう、小学五年なのに。一人で浴衣も着られるようになったのに。ちょっと、お姉さんになったのに。
……それに、一度もお父さんに言ったことのない感情。『みんなはお母さんと手を繋いでいるのに』──言ってはいけないことだってわかってる。望む必要のないことだとも……。
別にお母さんが欲しいわけじゃない。ただ、他の子たちと比べてわかるその差異が、いつも気になっていた。それだけ。
そういえばもっと小さな頃に、友達が呼んでいるのを聞いて、一度だけそう、父を呼んだことがあった。『パパ』と。でもそれを、「子供っぽいからやめなさい」と言って即座に却下されたっけ。
ねぇお父さん。わたし、子供でいていいのか、大人にならなきゃいけないのか、時々わからなくなることがあるよ。
父は、そうか、と言って手を引っ込めて服の端で乱雑に拭った。その時の顔は、屋台の光によって作られる陰影で暗くなってしまっていて見えなかった──
「やお、進路はどうするんだ?」
……はっ、と息が肺に侵入してきた感覚に痛みを覚えた。咳き込みそうになるのを気合いで堪えて、周りを見回す。
もう、先程までの夜の祭りの雰囲気はどこにもない。屋台で何かが焼ける音も匂いも、祭囃子の音も、下駄で踏み締めていたはずの砂だらけの地面も、そこには存在していない。そもそも、立ってさえいなかった。
ここは、家の居間だ。わたしは中学の制服を着て食卓についている。
「別に。まだ決めてない」
「決めてないって……。お前、もう中三の一学期も終わるんだぞ? 大丈夫か?」
朝食のトーストを齧りながら、目の前で無駄に焦った様子で話しかけてくる父に嫌悪感さえ抱いていた。だってこれ、ここ数日、ずっと同じことの繰り返しなんだもん。
夏真っ盛りの居間は、朝だというのに既に暑くて不快感しかない。そこに加えて父からの尋問のような言葉だ、まともに話を聞いているだけでも素晴らしいと思うんだけど。でも、聞くことさえも嫌になってきた。
聞かないフリでテレビの方に視線を向けると、さすがにイラッとしたのかテレビを消されちゃった。あーあ、今日の占い見れなかったな。
「何か悩んでいるのか? 学校の先生は、やおの成績ならどこでも行けるって言ってただろ?」
「言ってたけど、どこ行きたいかわかんないんだもん。仕方ないじゃん」
「何が仕方ないんだ、もう他の子たちは進路希望出してるって言ってただろう!」
朝からの怒声は耳だけじゃなくて、覚醒しきっていない身体にも悪い。肩を竦めて耳を塞いだ。
六月の中頃、夏休み前だからって進路希望調査票が配られたんだけど、クラスでわたしだけがそれをまだ出していない。この間行われた三者面談でそれがバラされて、それからずっとこれ。あー、もう、めんどい。
「お父さんに心配されなくったってどうにかなるの! 最悪、近場のバカ高にしたらいいでしょ!? あそこだったら別に受験勉強しなくても入れるし!」
「そういうふうにおざなりに決めるなって言ってるんだ! こら、やお!」
「もうご飯食べたし学校行く!」
「ちゃんと話を聞きなさい!」
バタバタバタ、急いで立って鞄を引っ掴んで出て行こうとしたら、腕を掴んで引き止められた。──もう!
「痛いんだけど!?」
不快感が最高潮で、必死で振り解こうとするんだけど、そう簡単には離してくれないらしい。ああ、もう! 朝からこういうの、本当に嫌なんだけど!
「とりあえず落ち着きなさい! 何でそんなに進路を決めたがらないんだ!? 何が不満なんだ!」
「不満ならたくさんある! うち、お父さんしかいないから、家のこと全部わたしがしてるんだよ!? わたしだって普通の女の子みたいに夜遅くまで遊んだりしたいけどできないじゃん! お父さんが離婚したからだよ! お父さんのせいなんだから! ──わたしこんな家になんか生まれたくなかった!」
あ、ダメだ。
言ってから、最低最悪なことを言ったって気がついた。これだけは絶対に言っちゃいけないってわかってたのに!
お父さんは酷く愕然とした表情になった後に「……そうか。でもな、やお。これはお前のためでもあるんだから、ちゃんと考えなさい」とだけ言って、居間の方に戻って行った。
手を伸ばそうと思ったのに、身体がギシギシと軋んで動こうとしない。
足だって、その場に縫いつけられたまま、わたしはただ、お父さんの背中が居間のドアに消えてしまうのを見ているしかなかった。
違う。違う。違うの、お父さん。
待って。違うの、本当に。言うつもりなんてなかったの。だってどっちも傷つくってわかってたもん。それくらいは、ちゃんとわかってた。
でも、だって。わたしだってどうしたらいいかわかんないんだって。
将来のこと考えなきゃいけないってわかってるけど、でも、考えたくないんだもん。ずっとこのまま、この家にいたいんだよ。高校まではここにいられるけど、大学は家から出ないと通えないじゃん。ここ、すごい田舎なんだからさ……。
わたし、ずっと、お父さんと一緒にいたいんだもん。
少しでも先送りすることで、それを見ないで済むのならって、思ってたの。
ごめんなさい。ごめんなさい……。
心の中ではざわざわざわざわずっとしてて、後悔の念と謝罪の言葉と自分本位な言い訳がぐるぐる回っているのに、それが口から出てくることはなかった。
人を傷つける言葉は直ぐに、自制も利かずに出ていくくせに、こういう言葉は喉でつっかえてなかなか出てこない。父が遠ざかっていく感覚が苦しくて辛くて、それが自分のせいだということをわかっているくせに納得したくなくて、家を飛び出した。
最低で最悪なのはわたしだ──!
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