7人が本棚に入れています
本棚に追加
「南川……先生」
「俺は稲垣!? 俺は! 俺は! 俺は誰なんだよ!?」
それでも雄平の狂気の混乱は収まらなかった。
南川は混乱覚めやらぬ雄平を優しく抱きしめた。そして、小さな子をあやすように言った。
「よしよし。もう大丈夫よ。怖くない、不安もないの。だって、あなたは稲垣雄平くんだもの。ね?」
「う、ううう……ああああっ」
雄平は南川の胸に抱かれて泣きじゃくった。まるで赤ちゃんのように。
「これは一体どういうことなんですか? 南川先生? 今のこの状況、説明できますよね?」
玲奈が俺の代わりに言ってくれた。聞きたいこと、知りたいことは山ほどだ。雄平に殴られ蹴られた全身が傷だらけじゃなきゃ、俺と玲奈の二人がかりのステレオで南川に問い質してやったのに。ああ、痛え。
「見ての通り、今の稲垣くんは、赤ちゃんも同然なのよ。こんなに混乱してしまって。水田くん? だから言ったでしょう? 口は災いのもと。それはあなたにとってではなく、あなたの周りにいる誰かにとっての災いになるかもしれないって。あなたが余計なことを言うから、稲垣くんは危うく壊れてしまうところだったわ」
「はん。壊れると直せないんですか?」
「どうかしらね。私は試したことはないもの」
「ふたりとも? 一体何を言っているの?」
玲奈だけが現世界から別世界にいる俺たちを見ていた。
「水田くんは気づいてしまったようだけど、“あちら側の世界”で稲垣くんは別の人間に作り変えられたのよ。稲垣くんの作り変えられた心が、まだこっちの世界に馴染んでないのよ。心がまだ赤ちゃんみたいに敏感なの。すぐに泣いたり怒ったりしてしまう。体だけは大きい赤ちゃんみたいなものだから、嫌だなと思う相手には加減を知らずに暴力的行為に出てしまう。2年も経過すれば自覚できて大丈夫になるんだけどね。自分は“あちら側の世界”で生まれ変わった人間だと――ね」
「“あちら側の世界”? 作り生まれ変え? 本気で言っているんですか? 先生――?」
「信じるかどうかじゃないの。受け入れるだけなのよ」
「言いふらすぞ」
「笑われるだけ。“あちら側の世界”のことなんて、実際に“あちら側の世界”に行って戻ってきた私たちにだって説明や証明はできやしない。死後の世界と同じよ。死後の世界は存在はするだろうと誰もが言う。でも証明は誰にもできないでしょう?」
南川は雄平の腕を引っ張って、夕暮れの道を歩き出した。俺は二人の背中に究極の疑問を投げかけた。
「“あちら側の世界”は、“こちら側の世界”を侵略しようってたくらんでるとか?」
南川は振り返り、大いに笑った。
「あはは。水田くん。それは漫画の世界の中だけの出来事よ。私たちは“あちら側の世界”の誰からも何の指示も受けてはいない。ただ、同じ記憶を持った別人となって“こちら側の世界”に戻って来ただけ。それだけは言い切れる」
今日はなぜだか妙に夕陽が歪んで見えた。そんな夕陽の作り出す黄昏のなかに腕を組んで歩き去って行く二人の後ろ姿が溶け込んで、消えてしまった――ように見えた。
南川の淋しげな声だけが、俺と玲奈の耳に届いた。
最初のコメントを投稿しよう!