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鬼
撓む稲穂。風が渡ると実が騒ぐ。秋の実りは心が躍るものだった筈だ。黄金に輝くあの波が懐かしい。そう思う程に実りは遠くなっていた。
蓄えは疾うに尽きて久しい。
凶作で皆が飢えていた。
「かぁちゃん」
横になったままの我が子が呼ぶ。
見つめてくる目は力が無く虚ろだ。
節が目立つ細い手足。
だが、腹は何かを宿したように
張っていた。
飢渇負けだ。
こうなると長くは無い。
それを思うと
不憫で堪らなかった。
頭の中にある光景が浮かんだ。それは食べ物を探しに出掛けた時の記憶だった。
※ ※ ※
路傍に蹲った大人。それに縋りつく童。旅の親子だろうか。童が親を呼ぶ悲痛なまでの声が、風に乗って耳に届く。それに気付いて身が震えた。
この声はどこまで響いているのだろう。
周囲に目を向けると黒い影が過ぎった。
逃げなければ死ぬ。
だが、逃げ込める場所は
まだ遠かった。
駆け出したい衝動を抑え、その場で立ち止まる。まだだ、まだ動いてはいけない。これから起きる出来事を察して身の毛がよだつ。
声が止まった。
きつく目を閉じ、耳を塞いだ。
それでも微かに何かが伝わる。
生臭さと蠢く気配。
安堵して目と耳の戒めを解く。
そこには既に見慣れた
風景があった。
親子がいた場所には野犬が数頭群がっていた。童の声は絶え、獣の荒い息に代わっていた。犬達が頭を振り、肉を毟り取る度に、幼子であった腕が宙を掻くように揺れる。その陰に見える蹲っていた人物にも野犬が群れていたが、童のそれよりは小さい。
ああ、やはり死んでいたのか。
咽び泣く童の姿に気付いた時に感じてはいた。親に死なれた童は多くいたのだ。そして彼らの末路は同じだった。庇護を亡くした童は容易い獲物となり果てる。野曝しの骸だけでは喰い繋げない野犬が襲うのだ。いや、狙うのは野犬だけではない。犬以外の畜生や餓鬼、生きようと足掻く多くのものが狩り立てる。童が気付いた時に逃げる術は無い。
飢は蔓延っている。
弱った姿を曝せば襲われる。
自分もいつ獲物になるか知れない。
白茶けた土壌に根を伸ばす血を見ながら、せめて喰われるならば死んだ後が良いと思った。
刻が行く。それが長いのか短いのか見当もつかない。だが獲物を喰らっている今ならば犬どもに気付かれず戻る事が出来る。
掘り起こした木の根を落とさぬように抱え家路を駆けた。
子の腹が膨らみ始めたのは、それから間もなくしてからだ。
※ ※ ※
子が死ぬのは
あの童を見捨てた天罰なのか。
一時はそう思ったが、今では自分を逃がす為に天が示した慈悲だったと信じている。
子の頭に手を当て、静かに撫でてやる。安心した顔で目を閉じる姿は愛おしかった。
だが、黄泉が近しい。
身体や息の様子で判る。
いや、それ以上に腹が減ったと
言わなくなった事が
目前に迫った死を暗示している。
この子はまだ七つに満たない。
お還ししよう。
苦しそうな息使いを見て早く楽にしてやりたいと思ったのだ。子なら改めて造れる。一度還して再び迎えればよいのだ。
頬を指でなぞる。その指を首へと運ぶ。骨が浮いた喉は簡単に握り潰せてしまいそうだ。
指を絡ませる。
掌を当てる。
そこで動きが止まった。
また力強い脈動が手に伝わるのだ。身体が強張り震えた。
ゆっくりと喉から手を引き剥がし、暫し自分の手を見つめる。その手越しに我が子の寝顔が見える。
浅い息を繰り返す姿に還すことに戸惑いを覚える。浮かんた想いを振り払う為に、頭を強く振った。
自分の腰紐に手を掛け一息に解く。
一方を足に絡げ膝で押さえてから、子の頭を静かに持ち上げ首に紐を巻く。巻き終えてから頭を戻すと、子の上を跨ぎ越し、腰紐のもう一方を手に巻くと、思い切り横に引いた。
顎が上がり、ぐうとくぐもった音がした。抵抗の為の動きは無い。いや、そんな余力が無いのかもしれない。
どのくらい紐を引いていただろう。
長かったのか短かったのか。
感覚がはっきりしない。
あっけなかった。
只そう思った。
腰紐を解いた。
自分の手。
子の首。
己の膝周り。
それらにある滲んだ赤錆色は窪んで不自然だった。
子を抱き上げると首がぐてんと落ちる。首が据わらぬ時のようだった。指で探ると折れているのがわかった。
苦しまずに還れただろうか。
その事が気がかりだった。
この子をどうしよう。
あの時の童のように、野犬に食い散らかされるのは忍びない。ならば、自分の身の内へ納めよう。
子を一旦横たえてから土間へ降り蓙を広げる。穢れる身を清めるために禊ぎの水を用意する。
腹の蟲が啼く。
飢えた身体が目の前の肉を欲している。そこにあるのは既に肉だ。
抱えて土間に敷いた蓙へ運び着物を剥ぎ、その着物を頭へ被せる。曝された腹に包丁の切っ先当てる。少し抵抗を感じた後、刃先は沈んだ。
切り裂かれた所からは水が漏れた。刃を抜くとその勢いが増す。膨れていた腹は嵩を減らし、水が止まる頃には皺の寄った皮膚が腹の窪みに寄るように溜まっていた。
肉付きが悪い。殆ど骨と皮の状態だった。それでも貴重なものに変わりはない。
竃に薪をくべる。鍋に水を入れ竃へかけた。薪が火を得て爆ぜる音を聞きながら鉈を振るった。落とした頭は着物に包んだまま桶に入れる。手足は鉈でぶつ切りにし鍋へと入れ塩を注す。臓腑は頭の入った桶へ。大きな肝だけは別だ。
まだ温かい肝を見ると蟲が急いた。艶やかで赤黒い。魅せられる。口を寄せ歯を当てると弾力があり微かな塩味が舌に来る。思いきって噛み締めるとぷつりと薄皮が裂けた。
口の中に広がった甘さで渇望に拍車がかかる。二口、三口と忙しなく頬張り咀嚼する。そこで禊ぎに用意してあった水盥に気がついた。
揺らめく水面に映ったのは
血を浴びた鬼だった。
振り乱した髪。
落ち窪んだ目元や頬。
口元の血はぬらぬらとし、
血色が悪い顔の
そこだけが生々しい。
肝を掴んだ両手が力なく落ちる。何故か笑いが漏れた。滑稽で止まらない。ひぃひぃと喘鳴に似た音が出る。
知らずに抱き締めていた肝で、肌蹴た胸元と着物は鮮やかな緋色に染まっていた。
笑いの発作が治まった頃には日が完全に沈み闇の冷気が迫っていた。寒さに身が震える。そこにくつくつと煮立つ音が聞こえてきた。
温もりを求めるように立ち上がると、ぼたりと重たい音がしたが、構わず竃へと進んだ。
鍋を覗くと小さな爪を持つ指先が見えた。椀を取り、杓子でそれを掬う。箸を取って椀から摘まみ上げると口に含んだ。肉は簡単にほぐれたが、骨と爪は口に違和感を残す。それを汁で身の内へ流し込んだ。
塩味と肉の味。それから温かさが身体を包んだ。子から得る温もりだ。これで暫くは存えられる。
このような鬼が
居なくなればよい。
そう思いながら温い汁を啜った。
湯気で目頭が滲んで仕方がなかった。
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