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あなたと白い花束を
店番の最後の三日目、雨の日曜日。
最後の仕事が先生への配達だった。
「どうしてこれを」
「とてもいいお花が入って――。先生、どうされたんですか?」
両手いっぱいのカサブランカの花束を見た先生の顔色は、見る間に一変した。
差し出した花束に、先生は手を差し出してはくれなかった。
一度伏せて、私に戻された先生の目の色に私はすくみあがった。
拒絶。
「悪いが持って帰ってくれ」
「え、どうして――」
「理由などない。いや、鐘ヶ江にお前のしたことは悪趣味だと伝えろ」
理由がないはずがなかった。
先生は強い口調で、敵のように私を見た。心の壁が出来る瞬間をまざまざと見たのは初めてだ。今までの温かい時間さえ、ガラガラと音をたてて崩れていく。開け放たれていたやさしい場所が遠ざかってしまうような、ゾッとするような寒気が背を駆け抜ける。
先生が玄関を降り、立ち尽くした私の肩を押しやった。
一刻も早く視界から私を排除したい。ただそれだけを、先生はこの瞬間願っていた。
「すまない、急用だ。悪いが、帰ってくれ」
謝罪する隙もない。抗えぬまま、無情に閉じたドアを私は反射的に叩いていた。声をかけた。けれど、返事はない。
「先生……、すみません、先生」
つぶやきをかき消すように雨脚が強くなった。軒先からポタポタと雨粒がしたたる。
大きな花束を包むフィルムに水滴がつく。受け取ってもらえなかった花束。誇らしげに上を向いていた羽も湿気でうなだれていた。
届かないだろう言い訳が、ポツポツとみじめにこぼれるだけだった。
「先生。これは私が作りました。店長はいま、いらっしゃらないんです。ご親戚の不幸で……。だから私が勝手に。お気持ちを損ねてしまって申し訳、ありません」
カサブランカと書かれていたメモ。先生からの念押しだという注意。
きっと『使うな』という言葉を聞き落としてしまったのだ。
ひとりで舞い上がって、依頼主に寄り添わずに作ってしまった花束。フローリスト、失格だ。
花咲いた気持ちが雨に濡れてしおれていく。枯れてしまうのだろう。少しずつ近づいていたような距離も。もう。このまま――。
目まぐるしい後悔にうつむくしかない私の視界に、ドアの角が動くのが見えた。扉が開く。顔を上げる。濡れた顔に気づかれただろう。
先生は息苦しさを解くように深い息をついた。
「すまない。そんな顔をさせるつもりはなかった。時間があるなら、コーヒーを。先ほどは申し訳なかった」
重たい足を引きずるようにして玄関を踏むと、壁一面のコレクションは今日も鮮やかだった。値踏みされているような気がした。お前は誰だと問いかけられているような気さえした。
気後れする私の背に先生の手が添えられた。弾かれたように身を引きかけた私を、先生は許さなかった。私が左手にぶら下げていた花束を少しかがんで手に取り、物思うような顔でどこか懐かしげに花束に形のいい鼻先を寄せた。
凍てついたように見えた瞳は、見慣れた色にゆるんでいた。
「弁解させてくれるのなら、上がって」
ガタガタになった心のまま、私はきっと帰るべきだったのに。
YESと言うまで許すつもりのない瞳を、拒めないほどには私は恋をしていた。
「鐘ヶ江の差し金だと思いひどい応対をした。アイツは、カサブランカの花束を知っているから」
先生宅のリビングに入るのは初めてだった。荒れていない部屋は住人と同じで几帳面な雰囲気だ。
腰掛けたやわらかいソファ。ガラスのローテーブルの上に羽と白百合の花束、熱いコーヒーの入ったマグカップ。
先生は差し向かいに座ると、ぽつりぽつりと話してくれた。
『ねえ、タカハシ。素敵でしょう? このブーケ。これもって。さあ、私にプロポーズして』
プロポーズに渡されたカサブランカは先生の特別な花。思い出して辛く思う時期が長かったのだという。言葉の端々から亡くなった奥様を今も大切に思っていることが受け取れた。痛いほどに。
「かすみさん」は白い花が好きで、生前は庭がいつも花でいっぱいだったこと。庭の手入れにまでは手の回らない先生が、申し訳ない思いも込めて今も月命日に白い花を手向け続けていること。
少しずつとどめを刺されていく恋心にフタをしながら、ちゃんと笑えた私はこの二年で立派な社会人になったものだ。
「素敵な方だったんですね」
「雰囲気の似た君が訪ねてくることが、うれしいようでどこか複雑な気持ちがあった。あの男もそう感じていると話していたから……、鐘ヶ江の仕業と思いこみ強く反応しすぎた。本当にすまなかった」
今も亡き妻を想う、正直な言葉が痛かった。
口をつけたコーヒーがやけに渋く感じた。苦手なブラックでなんか飲むからだ。先生は何も言わない私に困っているようだった。
ひとときの沈黙が重苦しい。
先生、例えば今あなたに恋を伝えたら、もう二度と会えなくなるでしょうか。
「すまない、あまりうまく伝えられなかったのかもしれない。今だから言うが、君が屈託なく私を訪ね、言葉を交わしてくれる時間が私にはあたたかかった。楽しく思った。だから、あの花束を余計につらく感じた」
「そう思って下さっただけで、私。でも、本当にお花の件は申し訳――」
「いや、いいんだ」
思わず顔を上げると先生は言葉をつまらせ、少し悩んでから続きを話した。
「私の身勝手な感情を語るのは恥ずかしいが、妻を失ってから世の中をつまらなく感じていた。キミと出会って。少し色づいた。ときには、白でない花束を見たいと思うほどに」
すぐには何を言われているか分からなかった。
けれど、あまり感情的でない先生の直截の心情が、時を置いてするりと私の内側にすべりこむ。
目が合う。その意味をどう読んだらいいのだろう。
妙な期待が胸を打ち始める。
私、こんなやつですよ。未熟で、早とちりで――。
「私は、キミよりずいぶん年上で、つまらない男だが」
実直な言葉と、真摯な眼。言葉を選びながら眼を閉じた先生がわずかにうつむくと、私の好きな先生の銀髪がかすかに光った。
「友人としてで構わない、時にここを訪ねてくれればうれしく思う」
先生が少しさみしげに見えるのはどうしてでしょうか。
そんな顔を、ここから帰るときの私が、いつもしていたかもしれません。
届かないと、この想いは届かないと。自分に繰り返し言い聞かせていた私も。
先生は、言葉を失ったままの私を見て眉間にシワを寄せた。
「四十路の男の面倒な依頼だ。君は、あまり断り上手ではない性格のようだから。よく考えて返事をするように」
また先生然とした仮面が張り付いた。
私は大きく、息を吸った。
「友人として、ですか。絶対に、それは、変わりませんか。鷹嘴、さん」
もう少し、近づいても、いいですか?
こんな私だけど――、それでも、先生が好きです。
できるだけまっすぐに、鷹觜先生を見た。
息が止まってしまいそうだった。ヒザの上に置いた手が鳥肌を立てて震えていた。
先生が立ち上がる。私の横にヒザをつく。節のある大きな手が私の右手に重なった。動けない。掌から温度が伝わる。
「私、ずっと、好きでした」
ふわと香る。先生の、匂い。
抱き寄せられた瞬間、息苦しいほどの花の香が私を包むような錯覚に囚われた。世の中が全部がめまいの中にあって、体の全部がしびれてしまうような。ああ、初めて先生と会った時も確かこんな風だった。
抱き続けるだろう悩みや嫉妬も総て抱きしめ。
私は、初めてのキスをした。
おわり
一年後のこぼれ話をスター特典にてご用意しております。
よかったらご覧になってくださいませ。
ありがとうございました。
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