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匂いには残滓がある
匂いには残滓がある。
面影には残像がある。
そして思い出には残響がある。
彼が出てった私の部屋。カーテンを閉め切って薄暗い。合わせ目の隙間の向こうには等間隔に常夜灯が連なる夜が広がっている。
暗い部屋にひとりぽっちで膝を抱え、プラスチックのテーブルに置かれた灰皿を見る。
これはもういらない。
彼が愛用していた灰皿はゴミに出す不要品だ。
彼にフラれた私は、勝手にキレて喚いて燃え尽きたゴミだ。
私の生活空間にはまだあちこちに彼の残骸が転がっていて、なかなか片付ける踏ん切りが付かない。
彼と出会うまでは煙草を嫌悪していた。歩き煙草なんて非常識だ、マナー違反だ、子どもの目線と同じだから危ないと憤慨する私に彼はまあまあ押さえてと苦笑いしてたっけ。子ども扱いされるのは癪だけど、そんな頼りなくて優しい彼が嫌いじゃなかった。
彼は私より二歳上で、今年大学を卒業して社会に出た。会社の付き合いや仕事を優先する彼とすれ違いが増えて、三日に一回のペースで大きな喧嘩をやらかすようになった。
ああ、本格的にやばいぞこれは。
薄氷を踏むような破局の予感が日常を脅かし、やがて漠然と恐れていたことが現実になった。
彼が出ていってはじめて、この部屋がこんなにからっぽだったことに気付いた。服や靴、本に漫画にCD……モノはたくさん散らかってるのに孤独だ。
失恋の経験は初めてじゃない。フッたこともあればフられたこともある。でも喪失の痛みには慣れそうにない。それとも煙草が喫えるくらい大人になれば、胸を疼かせる痛みすらよくあることだと流せてしまうのだろうか。
ああ、モルヒネが欲しい。ニコチンでもいい。
この胸の痛みと膿んだ孤独をほんのひととき癒して忘れさせてくれるならなんでもいい、ふやけた思考を気怠く麻痺させてほしい。
なんとなく煙草に火を点ける。
たむけの煙だ。
ゆっくりと目を閉じて、夜の底から深沈と跳ね返る思い出の残響に耳を澄ます。
初めて彼が来た日の他愛ない会話、日々くりかえされるただいまとおかえり、私と彼の二重奏の笑い声……
月並みな言いぐさだが、この部屋には思い出が多すぎる。しめっぽい感傷を持て余してしまうほどに。
もっとちゃんと私を見てよとねだったのが悪かったのか。
私は彼のことをちゃんと見ていたのか。
彼の好きな煙草の銘柄はわかるけど、煙草を喫いはじめた年やきっかけは聞けずじまいだった。
去り際に意地を張らず泣けたら、がむしゃらに引き止められる可愛い女になれたら、大好きなスイーツを我慢して痩せられていたら……
無限に増殖していくたら・れば・でも・もしも。
彼がおいていった煙草の箱が目障りで愛おしい、二律背反の矛盾した感情に引き裂かれる。
面影には残像がある。
瞼の裏に溶け残った横顔を洗い流そうにも涙が足りず、自虐的な気分になって膝を抱える。
思い出すのはべランダで煙草を喫う彼の背中。
部屋に匂いが付くのがいやだ、煙たいのは願い下げと愚痴ったから、彼は毎度ベランダにでて煙草を喫っていた。そんな時は煙草に彼をとられたみたいでいやだった。
煙草を挟んだ奇妙で滑稽な三角関係。
彼がキスするモノなら煙草にさえ節度なくやきもちを焼いていた、自分の空回りが少しみじめでおかしい。
短いキスが好きだった。寝起きに首を啄まれるとくすぐったくて笑いが漏れた。あんまり長いキスは煙草の味がして苦手だった。
カーテンの向こうで夜が更けていく。
戯れに彼の煙草を咥え、もういない彼をまねて不器用にふかしてみる。苦いだけでやっぱり全然おいしくない。
私達は所詮他人だ。
なんでもおそろいになんてなれないしなりたくもない。
「……間接キスにもならないね」
彼の面影を乞うてフィルターを噛んでも真新しい煙草の味がするだけで、かえって不在を強く意識する。
唾液に溶け残った苦みが喉を焼いて、暗がりに沈んだ天井へと虚ろな視線を放る。
もう少し彼が好きなモノを好きになる努力をしてもよかったんじゃないかと今さらながら悔やまれて、煙がしみて滲んだ目をしばたたく。
私と彼はもう恋人じゃない、赤の他人だ。これからは別々の道を歩いていく。この胸の痛みも過ぎてみれば一瞬のこと、私はすぐまた違う人を好きになる。
願わくばその人が喫煙者じゃありませんように。
ほんの少しでいいから、煙草より私を好きになってくれますように。
別れ際に器用に泣ける女の子になれない私は、彼がおいていった煙草を口惜しく噛んで、図太い涙腺を鍛え直すのだった。
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