第一節「流れることなく在るだけ」

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「ぐへえ」  二時間後。藍樹は床に大の字で寝転がっていた。結局、喜漸から一本も取れずにぶっ倒れてしまっているのだけれど。 「…………」  喜漸が彼をつついてから、動けないことを確かめ。そのまま左腕を引いて、床に引き摺って僕の方に近づいてきた。  僕の前に立って、しばらく無言で見下ろしてくる。無表情なので何を考えているかが読みにくく、少しだけ恐いが。それでも悪意を持っていないのは伝ってくる。  少なくとも砌のような、軽蔑したような視線を送ってくることはないのだから。 「…………帰るの、代わるの」  うーん。アクセントがなくて平坦に喋るから、感情すらよく判らない。 「…………仁、やってみろ」  死にかけの藍樹が息を切らしながらそう言うけれど。  一年間見てきてはいても、実際に向き合うのは初めてなのでどういう感覚なのかがまだ掴めない。というか、あれだけ動いていて疲れを見せない喜漸の体力がどうなっているのか。 「…………」  たん、たん。と緩くドリブルしながら、喜漸は無感情な眼で見ているのだが。  同じ条件で対戦というか立ち合うのは、緊張する。 「…………ふ、…………すっ」  息を吸った瞬間、同時に動き出した。喜漸は僕から見て右側に進んでくるけれど、その目は反対側に向いているのを捉えていた。それを認識した瞬間に右に移動しかけた重心を中央に留まらせる。  それを見切っているのか、喜漸は方向転換しそうになった体躯を無理矢理に真っ直ぐ進ませようとする。見切ったというより、僕の反応に僅かに逡巡したという方が正しいか。しかし決断の早さも一流といった感じだ。  ドリブルしているボールをとることは難しいか。  けど、と右腕を伸ばし。ボールを弾こうとして、喜漸が自分の股を抜いて後ろ側に持っていくのを見る。技術では勝てる要素は何一つないとは分かっている。 「ここに、」  そのまま抜き去りかけた喜漸とは反対側に回転してさらに腕を伸ばし、再び前方に戻ってきたボールを弾こうとするが、それも躱される。  そのままダッシュされては追いつけないだろうと分かっていたので、その前に息を詰めてもう一度相手の前へ出るが、しかし。  そこは既に喜漸の領域内だ。  3Pラインの一歩外側。そこで彼女は足を強く踏み込む。次の瞬間には僕の後方に高く跳び上がり、さらに一秒後にはそのまま両手でリングにぶら下がっていた。 「とっ、」  バランスを崩して膝をついたが、さっきの藍樹のように転びはしなかった。  あれが、「隕月(フォールムーン)」。  長距離ダンクなんてものは、おそらく喜漸しか使えない必殺技めいたものだった。 「……………………ん」  床に降りた喜漸は無表情なまま、しかしどこかで不機嫌そうに手をぐーぱーしている。  暫くそうしているのをなんとなく眺めていると、ゆっくりとこっちを見据えているのに気付いた。  バスケットプレイヤーには見ない、金色のツインテールがゆらりと揺れた。
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