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座れ、という母の指示に、音壊涙は素直に従った。
「さて、貴女はこの状況に至った理由を理解しているのかな?」
「……………………」
応えないが、しかしその視線は確実に喜漸の方に向いていた。
解っているならよし、と母は頷いて。
「ならば何故、彼女たちに対する適切な措置を行わないのだろうな。貴女、行政の保護を断ったらしいじゃないか」
「…………必要ないから。あの人が、戻ってくるからと言ったから」
「あの人、ねえ。しかし五年も戻ってこない人間に期待するなど、随分と悠長では? 人はその間にも変わっていくというのに」
おや、交渉というか説教モードだな。しかも大分手を抜いている。
母の説教は本気でやるとマインドブレイカーになるから、あまりやらないのは知っている。本人もそこを理解しているから、不用意に感情をぶつけることはしないのだ。
(仁くん)
(どうした?)
壁に凭れて座っている僕達は、親同士の話し合いを聴きながらも別の話を同時に交わしている。喜漸の足元には憐と呼ばれていた弟が座り込んで、半分眠った眼でそれを見ているのだが、あまり気にはしていなかった。
「海奈さんは、私を……どうする気なの、かな」
「とりあえず、ここから脱出させることが目的だと言っていたよ。僕もそれには賛成だし、そうでなきゃここに来た意味が無いからね」
「……………………」
「そういえば、喜漸って既にバスケの強豪校から勧誘来てたよな」
「うん……いくつか来てる。……ここからは、遠いけど」
「そういうの、どうしてる?」
「迷ってる。…………どこも学費を免除してくれる、らしいけど」
町を出ると、萌崎家の援助は受けられないことが問題だと言うけれど、実際は学生寮なんて普通に用意されているだろう。そこまで問題視することでもなかった。
それ以上の問題点は、喜漸が出て行ったとして、この二人がどうやって生活していくかの方だろう。現時点で喜漸の収入に頼っている状態、つまり音壊涙の収入が無いままで置いていくのは、僕から見れば危険極まりない行動にしかならないし、彼女もそれを理解しているからこそ。
「ここで、……生きていくしかないのか、って」
「困るよな。そんなんじゃ」
あれだけの才能があって、それを活かせないのは勿体ないじゃ済まされない。
「…………我慢するのは、にがて」
「結構、色々話してくれるな。前はもっと動じない奴かと思ってたけど、そういうことじゃないんだな」
単に感情を表現しないだけで、それを落ち着いていると評するのは確実に間違っている。
僕の周りには感情の死んだ人間も居るくらいだし、あいつに較べれば大分マシな精神だろうとは思っていた。
「……昔、この見た目を馬鹿にされたことが、あるんだ」
「うん?」
「小学生の、軽い言葉だけど……それでも。傷はつく」
その頃から、言葉をうまく発せなくなっていた、という。コミュニケーション能力が正しく育たなかったその原因は、全てが環境によるものだとは言えないけれど、多大な影響を与えていることは確かだった。
「見た目ねえ。僕はそんなに変には見えないけど」
「外れていることは、……充分、攻撃の対象に、なるよ。生まれつきの……形質は、尚更」
その辺りがごく普通の日本人である僕には理解しえなかったが、言っていることは判っていた。自分たちから離れている特徴を持つ人間に対して差別するのは、人間の変わらない性質だ。
それは、ずっと昔から変えられない。
「喜漸は、可愛いよ。確実に言える」
「…………………………。ありがと」
それを、ちゃんと叶多に言ってあげなよ、とも釘を刺された。
「解ってるさ」
「なら、いいんだけど」
「逸喜が戻ってくる。それを待ち続けるの。ここに来るって言っていたから」
「だから、既に行方不明の人間に執着するなと言ってるんだよ。五年も待っていて、そんなことにも気付かないほど幼稚なのか、おまえ」
…………相手の言い分が子供じみているのにいい加減頭にきているような母だ。確かにそんなことを延々繰り返していれば、僕でさえも苛立ってくる。というか下手をすると殴ってしまっているかも知れない。
そんな僕の心情を、喜漸も理解してるようだった。
「抑えて」
「ああ。だけど、キツいな」
幼い子供みたいにだってだってを繰り返す大人なんてものを初めて見たものだから、あれほど見苦しいものだとは思わなかった。見苦しいというか、病んでいるというか。
「ふざけるな。おまえの言っていることは全部自分本位じゃねえか。自分の家族を放っておいて何もかも人任せにして喚いてんじゃねえよ、ガキが」
……………………。
叫び出しそうなのを無理矢理に抑えているのが解ってしまう、低い声だった。
流石に苛立っている。説教どころか殺しかねない勢いだと感じてしまうのだが、こうなると交渉とかそういう域にはない気がする。
なんせ、話の通じない相手に、譲歩を引き出そうなんて考えがズレているのだから。
「喜漸、父親ってどういう人だった?」
なんとなく訊いてみたら、応えなかった。いや、表情を見るに、話そうかどうか迷っている様子だ。
「あんまり、いい人じゃなかった。…………その、昔に。私に……」
続きはなかった。代わりにぐっと僕を引き寄せて、手の動きでそれを示す。
なるほど、虐待か。無茶苦茶だな、この家庭。
完全にぶっ壊れている。
と、その時に端末がメールを着信したことを報せた。メールを送ってくる相手は舎人しかいないので、面倒だなと思いながらもアプリを開く。
『面倒事に首を突っ込むのは疲れるでしょう? まさか音壊家に乗り込むなんて思いませんでしたよ。僕でさえそこは諦めてしまっていたのに、莫迦なことをしますねえ。
まあ、先輩の決定であれば無闇に否定はしませんが。すぐに返してください。先輩は、白羽家は喜漸さんをどう扱うつもりですか? 海奈さんが思いつく方法は既に萌崎家で試してしまっていますから、無意味に終わりますよ』
「どうしたの、仁くん」
「解ってる。無駄だってことくらい」
画面を睨みながら、僕は呟いていた。
「それでも、どうにかしたくてここに来ているんだよ」
『だったら、僕の家で保護する。喜漸が中学を出るまで置いておく』
勢い任せに、そう返信していた。
「…………全く、」
端末をポケットに戻して、ゆらりと立ち上がる。それに母が反応して、どうかしたかと問うてきた。
「もういいよ、帰ろうぜ。これ以上ここにいる意味が無い」
「……そうか、そうだな。私もそろそろこの女を殺しそうだ」
わー、ここまで母さんを怒らせる人も珍しいな。そう思ってその相手を見ると、本当に子供のように泣きそうな顔をしていた。
「なあ、病院に連れて行った方が良いんじゃないのかな?」
「ああ、そう思うよ。以前に会ったことのある統合失調症の患者に似たものを感じるな」
それが正しいかどうかは解らんが、という。
しかし、とも言ってきた。
「おまえはとことん世話焼きだよな。こんな奴に対してまで情を向けるか、普通?」
「別に。問題があるなら処理しておきたいだろ、普通」
てーか、そいつが単に目障りなだけだよ、と自分でも判るくらいにうんざりした声が漏れていた。
「舎人からメール来てた。最初に考えていた案は無意味だとさ」
「ふうん? まあ、彼の思考も大概だとは思うけれど」
「喜漸に関しては、中学出るまでうちで預かればいいだろって思うんだけど、どうよ」
現実的かどうかは判んねえけどさ。
「いや、その方が確実だろう。そこの子も一緒に連れ出した方が良いだろう。しかし、父親はどこにいるんだろうな」
「気にしないでいいだろ。あまり積極的には連れ戻す必要は無いよ」
その台詞に、母は何かを察したようだった。しかし詳しく問うてくることもなく、その場から立ち上がる。頭を掻きながら「さて」と自分の端末を取り出した。
「精神科でいいんだろうが、陽山にそんな病院がどれほどあるだろうな」
「個人経営ならあるだろ、わざわざ大きいところにぶち込む必要は無い」
中央病院には精神科はあったはずだが、流石にそこに入れるには……と思っていると。
再び携帯端末が震える。
「またかよ、なんだってんだ? 舎人の奴」
『とっくに病院の手配はしてますよ。そろそろ迎えが行くはずですから、離れておいた方がいい気がしますが』
「……………………」
「そうか、流石に管理者は仕事が早いな。ならばもう行こうか。ここにこれ以上居る必要は無いからな」
言うが早いか、母はさっさと部屋を出て行ってしまう。
喜漸の方に向き直ると、不思議そうにしているようだが表情が読めないので実際には判らない。とりあえず、荷物全部纏めてうちに行こうと声を掛けてから、眠ってしまった憐を抱き上げる。
彼の身体は、ひどく軽く。栄養失調気味の体躯だった。
「…………仁くんの、家に?」
「それ以外無いだろ。嫌ならばここに居るだけだろうけど」
喜漸はゆっくりと首を振って、口に小さく笑みを浮かべる。その不器用な表情が何故か痛々しい。
「じゃあ、外で待ってるから」
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