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景色は燃えても、胸の奥にずっと残るこの記憶が、私を縛って離さない。
後悔しなかった日はなかった。
好きだと言ってくれた白音の本当の気持ちを蔑ろにしてしまった事で、白音は……。
私の唯一の親友の、妻毬白音は。
最後にちゃんと、謝りたかったな。
脳裏に過る、白音の柔らかな笑顔と弾む声、兎のように跳んだ肩までのボブカット。
学校の先生は言う。失敗は大切な事だ。そこから学んで次に活かしなさい。
母や祖母は言う。間違えていけないという事はない。それを恐れる事が一番の間違いだ。
心の中で、私が言う。失敗も間違いも出来ない事なんて、この世界は余すほど用意してるじゃないか。
後悔しない日はなくても、私の犯した事を悔いた所で白音の傷は癒えやしないから、きっとそこに意味なんてなかった。
綺麗ごとで繕ったって、多くの場面で失敗は許されない。次なんてものはない。
それこそ、可能性が横たわっているだけだ。
なら悔いるべきは、過去に囚われ続けたこの日々なのだろうか。
それすらも、黄昏の茜に焼かれて定かではなかった。
「――そろそろ、行こうかな」
別れを告げて、汗ばむお尻を持ち上げて洗濯板みたいな目の前に広がる下りの階段を行こうとしたときだった。
私の「もう一つの可能性の糸」が解れたのは。
――ガサ。
いつもの席の右手側、整った雑木林の木陰から何かが通る音が聞こえた。それくらいなら普段も聞くが、それが私の方に近づいてきているようなのだ。
突然の事に固まってしまった私は、「それ」が低木の間から顔を覗かせるまで動けなかった。ともすれば、何かが私を引き留めているかのような……。
「……ふぅ」
一仕事終えたみたいな息をついた「それ」は、唖然とする私を見ているのかいないのか、気だるげな調子で続けた。
「久々だなぁ、ほんと。で?あー、お前が蛍風姫瑠か?」
「えっ、あ、いや、そう、だけど……なんで、私の名前を、というか、ええっ!?」
物陰から現れたのは、一見するとこれといった特徴のないどこでも見かけそうな三毛猫だった。
――仰向けの状態のまま宙を漂っていて、それなのに頭だけ正面を向き、人間の言葉を話しているという点を除けば。
「さて、俺が見えるという事は、お前は資格があるって事だ」
「しかく?」
何の事か分からず、両手の親指と人差し指で長方形を象る。
しかく、そんな間の抜けた声は普段は出さないのに。
この珍妙な猫は夢か現実か、現実だったらとうとう私はおかしくなったのか、ともあれ話を続けた。
「違う。資格だ、可能性を手繰る条件がお前に揃ったって事だ」
「………その前に、あの、あなた、は」
頭の向きと体の向きがちぐはぐで見ていると酔いそうになる。猫は何事もないかのように私のすぐ近くまで漂ってきて、口元を曲げた。
「俺は猫だ。裏返しの猫とでも呼ぶがいい。俺には理の隙間を縫って不可逆を捻じ曲げる力がある」
前足と言うべき部位で耳をくしくしと掻く、「裏返しの猫」とやらは、そんな事を宣った。
「……何それ?」
「おいおい、分かってくれなきゃ困るぜ。俺もお前もな。いいか、要するに、俺はお前に起こる出来事の別の可能性を探り当てて、その可能性がある場所にお前を送る事ができる。ま、舵取りすんのはあくまでお前自身だがな」
そう言うと、裏返しの猫は喉を転がすような唸り声をあげて身体を捻り、回転しながら地面に着地した。足が地面に触れると、顎先が天を向く。反発し合う磁石みたいだ。
裏返しの猫はとことこと、驚きで腰を微妙な位置で浮かす私の方へ歩いてくる。猫らしくごろごろと喉を鳴らし、猫らしからぬ言葉で、まあ座れと促した。
「さて、さっきも言ったがお前には資格がある。俺を使って出来事を捻じ曲げる資格だ」
「……」
「なんだ、まだ俺の事疑ってんのか?」
「だ、だって、そんな、頭が」
口元を手で覆い、裏返しの猫を指さして声を震わす私を見て、猫はんなぁ、と鳴いた。
不気味さを感じる間もなく、突然の事に驚く余韻も与えずひたすら話を続ける猫を、どうしてか私は受け入れていた。
なぜだろう、と考える前に、猫は口を開く。
「……よし、いいだろう。特別だ。お前に俺の記憶を見せてやる。だからそれで信じろ。その上で聞く――」
ずっと後になってからもっとこうすれば良かったと思う事があれば、それが後悔というのだろう。
この猫の、歪んだ口元が夕闇にぼやけて見えなくなっていて、私は気づけなかった。
これは、都合のいいやり直しなんかじゃない。
だって、この世界には――。
「やり直したいと思っている事をやり直せるとしたら、お前はどうする?」
決してやり直せない事が溢れているのだから。
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