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私は、心を突き動かされるままに、転校生の事を担任の下へ聞きに来ていたのだ。
「普通」を気取る私にしては珍しく、そんな行動をしてしまったのは、あの子と目があったからだろうか。
「ああ、その事か。なんか噂になってるみたいだな。あー、まあいいだろう。どうせすぐ分かる事だしなぁ」
「というと」
襟足をがしがしやる三十を回ったくらいの若手の男教師は、隣に座る別のクラスの担任の、先生と同期の女教師に目配せした。同期よりも、先生の前の席で腕を組むベテランのおっさん教師の方が知ってそうだけど。
「ウチもその話題で持ちきりですよ。まあ隠す事もないので来るって事だけは話しちゃいましたけど」
そこまで言うと、女教師は私と先生を交互に見てから、先生に何事か耳打ちする。
それを聞いた先生は、楽しそうに肩を揺らし、先生の前で棒立ちする私に手招きした。
耳を近づけろ、って事か。
「ここだけの話だけどな、妻毬。その噂は本当で、明日、ウチのクラスに来るんだ」
「へぇ」
「この事は明日までは秘密よ、ええと……」
妻毬です、と先生がひそひそ。
ああ、妻毬さんね、と女教師もひそひそ。
妻毬さん、よろしくねと言われた私もひそひそと、
「はぁ」
と返しておいた。
息を吐くくらいなら声を小さくする事もなかったけれど、他になんて返せばいいか分からない。
私の質問に答えて満足したのか、先生は「他に何か用事はあるか?」と半ば仕事に戻りながら聞いてくる。普段、周りに合わせて主体性のない私の事だから、きっとそれだけだろうと考えているようだった。
先生が考えているだろう通り、私はもうここに用はない。
「ないです。ありがとうございました。失礼しました」
そう答えると、職員室に出入りする生徒たちに紛れて、私も職員室を離れた。
しばらく歩いてから、私のどこに自分から先生に聞きに行く力があったんだろう、と驚く。
それも、あの子と目があったからだろうか。
あの子の事が、頭から離れないからだろうか。
あの子にずっと、見惚れていたからだろうか。
「……」
図書室でぱっと目についた本を手に取って、委員と私だけの空間で、端っこの席に腰かける。
見惚れたって事は、あの子をどう思ったって事なんだろう。
パラ、と捲った、ろくにタイトルを確認しなかった本のはじめのページには、こうあった。
――この本は、親愛なる我が生涯の伴侶に捧げる。
舌を噛みそうな横文字の名前が二つ並んでいて、そのページの下の方に漢字の名前が見える。そのどれよりもでかでかと書かれたその言葉が、私の中でぐるぐると回った。
――ねぇヒメ、あのね!ヒメが好きなの。
――私も大好き、白音!
――ううん、違うの。きっと。あのね、私はね……。
どうしてか、いつかの記憶が蘇る。
私を「普通」の呪いに縛った、その始まりの会話だ。
「……………………………………………………………綺麗だって、思ったの?」
それは、告白であり、問いかけであり、回想だった。
今一番大きな意味を持った問いかけに、私は自分の頬をぺたぺたと触る。
「私、あの子を綺麗だって思ったから、見惚れてたの?」
なんだろう、この感じ。
少し、息が苦しい。
不安も、疲労も、諦めも、この身を守る本能だって胸を締め付けるし、その感覚はいやでも熟知していたけど。
この、ききゅっ、て感じは、初めてだ。
「……いや」
初めてじゃ、ないかもしれない。
それを確かめる事が出来るのは、何にせよ転校生が来るという明日だ。
あの子が本当に転校生かどうか分からないけれど、それでも今は、時間をすり潰すだけの毎日にある明日が、なんだか少しだけ楽しみだった。
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