第1話「出会い」

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 無機質なビートを刻む地下鉄の車内。鼻孔を刺激する吐き気のする中年独特の湾曲する匂い、そして咽るほどの香水の匂い。  車内にはあらゆる異臭が立ち籠めている。車窓から外を覗いて見ても、高速で飛び去ってゆく闇の染みるコンクリートの壁だけだ。  視点を窓ガラスに合わせてみれば、未だに目の覚めない冴えない僕の顔が映っている。今日はいつにも増して情けない顔をしている。  スーパーの詰め放題にされたような車両の中は、何かに掴まらずとも倒れることはない。そんな体の方向を変える事すらできない状態を利用し、僕は毎朝四方八方に犇めく誰かに体を委ね、転寝しながら目的地までの時間を過ごす。  昨日も今日も明日も明後日も、こんな僕の一日、目覚めた時から既に始まっている何ら代わり映えのない一日。  毎日毎日同じ視点から狭い世界しか知り得る事の出来ない植物の様な、そんな日々と呼吸が始まるだけ。  与えられた水を飲み、与えられた陽を浴びる。風が吹けば共に靡くだけだ。でも不満などない、それが一番楽なんだ。  そして、それ以外の選択なんて何処にも見当たりやしないのだから。  いつもと変わらない学校最寄りの駅に着く。なんら変わり映えの無いいつもと同じ風景。まるで僕の人生のそのものといっていい。ホームの階段を駆け上がり改札口を出ると、暖かい陽と共に風が僕に吹きつけた。  もう既に桜は散ったが春の陽気だ。夏の次に僕は春が好きだ。この改札前は昼頃になると、とげぬき地蔵商店街へ向かおうとしている老人達で一杯になる。その反面学生も多いので、駅使用者の平均年齢は何処の駅とも変わらないのかもしれない。  僕の学校はその商店街の逆方向だった。立ち並ぶの風俗店を通り校門へ向かう。今日も朝から化粧の濃いおばさんが店の前で水を撒いている。  パチンコ屋を過ぎてから角を曲がったパン屋でコーヒー牛乳を購入し、校門を抜け教室に向かった。校庭ではどっかの部活が朝練の片づけをしている。これが本当の青春なんだろうなぁ。そんな汗臭そうな奴等を横目に校舎の階段を駆け上がり、いつもの教室の扉を開いた。  朝っぱらから相変わらず男子校の教室内は騒がしく異様な臭気、その上床の泥もすごい。そもそも教室が土足という時点でおかしい。しかし時間が経てば慣れてしまうものなのだろうか、それについては特に何も気にならなかった。慣れとは怖いものだ。 「おはよう」  いつもの数少ない友人の輪へ入る。話すことはいつもと似たり寄ったりな話題。毎々内容は同じであるはずなのにそれで抱腹絶倒なのが不思議だ。いや、深く考えてみれば然程面白くはない。どこかで協調性を養わなければ、こういう集団生活はやっていけないという想いがあるのからかもしれない。そうやって合わせなければ弾かれるだけなんだ。  僕はたった一つの取り得だった絵画の為に、このデザイン科という特殊な学級のある高校へ進学した。信じられないぐらい下手糞な絵しか描けない輩もこのクラスには混じってはいたけど、ここで学べば将来デザイン的なもので食べていけるのだろう。そんな、まるで空に浮かぶ雲の模様を自分なりに模るように、曖昧で漠然とした先見があった。勉強は好きじゃないし、特に運動が得意なわけでもなく、外見だって普通。他人には嫌悪感を与えない程度くらいで、モテたためしはない。性格は割かし社交的ではあるが、趣味で漫画や詩を描いたりするような根暗な性格だ。  自己分析は好きではないけど、強いて言うならそんな感じかもしれない。更に「これだ!」という夢も持ち合わせていない。そんな僕は今日も長い人生のうちの半日を無意味な色で塗りつぶし、いつものように帰路に着く。  帰ったら夕飯を食べて、風呂に入ってテレビ見たりゲームしたりしてから寝るだけだ。面白味の欠片もない… (はぁ~、つまらない日々だ…)  帰りの電車、友人のタキと一緒になった。タキは帰りの電車が同じ方向なので寄り道しなければ共に帰ることが多い友人だ。 「タキー、今日は帰ったら何するの?」  いつものように僕が尋ねると、彼はインテリジェンス且つ優等生的な風貌とは裏腹に僕の期待を裏切らず、毎回同じ答えを返してくれる。 「えぇっ? 帰ったら寝るに決ってんじゃん、寝なきゃやってられないよこんな世の中は!」  何がやってられないのかは敢えて訊くことはないが、僕もやはりそれに対して同調する。 「そうだよな、やっぱり寝るに決っているよな」  なぜなら実際に僕もタキと同じだからだ。そう、自分と似た考えを持つ相手に、自分と同じ答えを期待し、他人と同じ考えだということに安堵するようような、そんな日々を送っている。だけど、頭の微かな隙間ではそんな自分を打破しようとしているという意識を些か感じ取る事がある…。重い石の下に自分の求めているものが恐らくあるとする、しかしその重い石をどうやって持ち上げるのだろうか、なにか道具を用意しようか、死に物狂いで持ち上げようか、でも、持ち上げる方法を形にする知識も能力もなければ思案する気力さえ湧いてこない。そして気付いてみれば、今日もどこかで甘ったれた逃げ道を探す。僕の魅力は一体何なのだろう? どう考えても僕はその他大勢の中のほんの小さな一粒だ。個性も何にもない、大量生産型なのだ。MS‐06《ザク》なんだ。いや、ザクじゃない。まったく目立つことなく撃墜されるだけの、連邦軍のボールといったところか。 “例え自分が何をしてようが、それをしている自分を愛せ” そんなようなことが書いてあった本を読んだ事があったけれど、まったくもって理解不能な話だ。 僕はこんな僕を愛せない。 自分を愛せない僕に嫌気がさすこともない。それが当たり前であることしか考えることしかできない。 誰だってそうなんだ。  都内から隣県へと長い帰路を辿り家に着く。食事を取り、部屋に戻りテレビをつけると、巨人対中日戦のナイター中継がやっている。丁度2アウト二塁三塁の絶好のチャンスで糞な四番・原の打席だ。期待せずに見ていると、案の定あっさりファールフライでチェンジ。そして原は悪びれもせず、ヘラヘラしている。 (やれやれ、今年の巨人は不甲斐ない…。これも僕が苛立つ要因だ)  ふと窓の外に目をやると、外は既に闇に包まれていた。白いブラインドを開き、窓の外から空を見上げると、無数の星が目に飛び込んできた。雲ひとつなく月の明かりも優しくて美しい夜空が目に映った。 「…夜空を眺めていると、自分の小ささが浮き彫りにされていくよ。人間たちが住んでいるこの星、巨大な文明を築き上げたこの星も、あの幾千の星の一つに過ぎない…」  僕にはちょっとした趣味というか、気がつくと不意に思いついた詞を即興で作ったメロディーに合わせて口ずさむ癖があった。密かにゲーテやルソーなどの詩や格言が好きだったこともあったからだろうか。ほらな、やっぱり僕は根暗だ。今夜も口ずさみながらベッドから見える夜空を眺めていた。 (将来、必ず美大に進学しよう。きっとそこで生甲斐が見つかるはずさ…、多分)  そんなことばかり考えながら、学校と家との往復を繰り返していたある朝、いつものように登校すると 「タケル、今日も例のかわいい子はいたのかよ」  仲間の八田(はった)が、僕が座っている机に身を乗り出して語りかけてきた。八田は高校一年からの一年間だけラグビー部に所属していたようだったが、そのときに頑張って付けたであろう筋肉がすべて脂肪へと変わってしまった様な体つきをした友人だ。 「いたよ。…でも今朝、駅のホームで彼氏っぽいのと一緒にいたんだよね…、何れにしても俺じゃどーにかする勇気もない。ウォッチングオンリーで終わりさ」  毎朝、山手線で乗り合わせる僕のお気に入りの娘で、どうにかしようとも考えたこともない様な話だったけど、唯一、異性の話題といえば通学列車しかなかった。 「そっか~、俺たち男子校は辛いよな。女っ気まったくないし。俺も前に話した、毎朝乗り合わせるかわいい韓国人の子もウォッチングオンリーだけだよ」 「ふーん。そうそう、そういえば最近その子とは違うお気に入りの娘を見つけたんだぜ。見つけたっていうか、たまに俺がいつも乗ってる車輌に既に乗っている娘なんだけどさ、三茶から一人、その娘の友達が加わる二人組で二人してチラチラ俺の方見てるんだよね。それが聞いてくれよ、二人どっちもカワイイんだよ」  そう、ここ最近の通学電車は俺にとっては楽しい通学電車に変わっていた。いつの間にか八田と僕の会話の輪には他の仲間も加わった。 「うわー、出た。また妄想が始まったよ! ガハハ」  真っ先に岩田(いわた)が僕の話を聞いて、それを妄想癖と言い出した。若干、平均より横に若干大きい岩田は常に妄想しがちな自分を棚に上げて人の事を批判する。結局、一緒に聞いていた他の奴らも、僕の話を信用なんてするはずもなかった。  友情は不変といってよいが、色と恋が絡めば話は別になるってシェイクスピアは言っているが…、納得だ。仲は良くとも、嫉みはあるもの。それは仕方のない事だろう。僕はもっと、もっと人の幸福を喜べるように努めようと思った。  授業が始まると僕は直ぐに眠くなった。寝る体制を整えているときに、メロディーと詞が閃いた。僕は即座にノートを開き、書き綴る。これは家に居るときも外に居るときも閃いたときに反射的に起こすいつもの行動だ。 「あっ! また詞書いてる。バカじゃねえの」  僕の席の前を陣取る八田のいつものセリフだ。僕はそれを無視し、書き綴りながらふと思う。もしかしたら、本当に僕は馬鹿なのかもしれない。詞と言うより単なる文章が多いけど、書き綴り積もった文字の列を眺めると不思議と笑みが零れる。バカというより、少し変態、いや変わっているのかもしれない。そして考えるんだ、こんなことばかりしている僕は、果たして[絵]が本当に好きなのだろうか、という疑問。学校の課題はソツなくこなしているけれど、他のクラスメイト達の作品に水準の高さを感じ、自信を失ってしまったのか、それとも絵画やデザイン中心の授業の多さでウンザリしてしまったのか、どれが影響しているかは解らないけれど、絵に対しての気持ちが薄れてしまっていたのは確かだった。口で表現するよりも絵で表現していたことが今は文章になったということなのだろうか。わからない。  考えても何もわからず、のらりくらりと過ごしている僕は、いつの間にかうだつの上がらない男になってるのかなぁ…。嫌だなぁ…、でも、それは恐らく避けられない事実なんだよなぁ…。
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