ようこそspinach fieldへ(おじさんリーマン✕料理人)

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ようこそspinach fieldへ(おじさんリーマン✕料理人)

食テロ おじさんリーマン✕料理人(タチネコの想像はご自由に) *************  昌孝は包丁を握ったまま、肩越しに店内の掛け時計の針を見る。 「あと30秒! 10、9……」  心の声がゼロと呟くのと同時に、今日も髪の毛一つの乱れもなくきっちりとスーツを着込んだ一人の常連客が入ってきた。  トクンと昌孝の動悸も打つ。 「いらっしゃいませ、宮本さん。今日もようこそspinach fieldへ」  宮本は軽く会釈をすると、カウンターの奥まった席に腰掛ける。  昌孝がオフィス街の奥まった一角にベジタリアンフードの店を構えてから、平日はほぼ毎日やってくる。この近くの商業オフィスで働いているのだろう。  今日は生憎の雨だったが、ありがたいことだ。  宮本は知的な細フレームをかけている。その間に通る鼻梁はすうっと高く、形が良い。  薄い唇やきっちりとスーツを着込んだ様から、一見神経質そうに見えるものの、目尻に寄ったシワがなんとも優しそうな風貌だった。  こちらもつい笑顔が二割増になる。 「今日のランチはエスニック風プレートです。今日もお任せランチでよろしいですか?」 「ええ、そちらでお願いします」  宮本は好き嫌いがないようで、スパイシーなものでも、少し癖のある食べ物でも、眼鏡の奥の目尻を緩めて実に美味しそうに頬張る。当初は繊細そうな見た目とのギャップに驚かされたものの、この旺盛な食べっぷりには料理人冥利も尽きた。  昌孝はカウンター越しに、彩り豊かに綺麗に盛り付けられたワンプレートランチを宮本の前に置く。 「どうぞ」 「ありがとうございます。今日のこちらはなんという食べ物ですか?」 「少し大きめの小鉢に入ったのが……」  季節の野菜のロントン(蒸し米団子入りのカレースープ)  オタオタ(ヤシの葉に包まれたチリ風味のすり身)  タケノコのココナッツ煮  テンペとオクラのチリ煮  葉野菜とキノコのサンバルチリ炒め  茹でいんげんのサテソース添え  少量ずつ盛られたそれらを、どこの国の料理で、どんな味付けになっているのか、はたまたいつ昌孝がその料理に出会ったかなど、一つ一つ事細かに説明を加えると、宮本はその都度感じ入ったと言わんばかりに深く首を縦にに振った。  昌孝にとっては、こうして宮本と言葉を交わすことが束の間の幸せの時だった。たとえこの御仁がつゆとそんな想いを知らなくとも。  いわば一方通行の想いだった。それを自覚したのはいつの日だったか。  されど昌孝はただ宮本が来るのを待ち続けるだけしか能がない。  だから、いつか宮本が他の店に心惹かれ移っていってもおかしくはないのだが、昌孝も昌孝でそんな日が来ないようにと、日々飽きのこない献立を全霊で考え、下ごしらえにも少し労を惜しまず、腕によりをかけて作っている。かつてリュックを背負い弾丸でまわった各地の料理に思いを馳せながら、宮本のために、全てのお客様のために。 「ああ、この味……」 「えっ、何か?」 「いえ、悪い意味ではないんです。この味は私にとってはとても懐かしいものですから」 「懐かしい?」 「ええ、懐かしい。だけど、これをここで戴けるとは!」 「ネシア料理が?」  よほど驚きが顔に出ていたのだろう。  宮本は苦笑しながらも、プライベートな自らの話を語ってくれた。 「子供の頃のことなのですが、私は父親の海外駐在で東南アジアに五年ほど家族で住んでいたんです。私はまだ小学校の中学年くらいでしたのでローカル料理には関心も薄く、料理名さえ覚えていません。ですが、この独特な味の感じはよく覚えています。これはあちらのフードとはいえ、そんなにスパイシーではありませんから、母親に『これなら食べれるでしょ』と食べさせられました。これはロントンといったのですね」 「ええ」 「その当時は慣れない異国の味が苦手で、食べるのが嫌で仕方がなかったのですが、今、食べるとどうして、とても美味しいものですね。いや、貴方の料理の腕のなせる技でしょうかね? 兎に角、今、これを頂いて、懐かしくて、懐かしくて、胸の奥がジンと温かくなりしました。これは美味しい以上の心へのスパイスですね」 「いえ、私も宮本さんに喜んでいただけて、とても嬉しいです」  よく見ると、綻んだ宮本の目尻に薄らと涙が滲んでいた。  そういう昌孝も思わぬことに宮本の昔を知れて、心からこの料理を今日作って良かったと思えた。 「それに、貴方の旅したところと私のゆかりの地が同じというのも嬉しいですね。もし差し支えがありませんでしたら、どうか今度ラクサも作ってください」 「ええ、ラクサですか。良いですね。私も好きです。近いうちに!」 「ああ、嬉しい、嬉しいな」  昌孝の声も弾む。  こんなに嬉々とした声を出して、宮本への想いまでダダ漏れてはいないかと不安になる。  それにできることなら宮本のためだけに、他にもいろいろと作ってあげたい。けれども、昌孝には宮本とも時間はこの平日のお昼しかない。 「ここの料理は野菜だけを使った料理だというのに、アイディがあって目新しく、味も良い。実は特別ベジタリアンでもない私ですが、毎日通いたくなって、昼休みになると同時に駆け込んでいます。それが恋人もいない私の何よりの癒しですから。だけど、その上にこの懐かしい国の料理。完全に胃袋を掴まれてしまった気がします。あっ、こんなおじさんに言われても、ちっとも嬉しくはないですね」  できることなら胃袋だけでなく貴方の心も掴みたい。  そんな風に言えたら、どんなに良いか。 「いえいえ、とんでもない。身に余るお言葉です。これからも宮本さんに通っていただけるよう、楽しんでいただけるよう、精進いたします」 「一ファンとしては、いつまででも貴方の美味しい料理を食べたいですよ。いつまでも……」  ふいに熱い宮本の眼差しとぶつかり、お互いに慌てて視線を彷徨わせる。 「あ、あ、宮本さん。まだお時間が大丈夫でしたら、ソルティラッシーもいかがですか? 日々の感謝を込めて、今日はサービスでつかさせていただきます!」 「えっ、あっ、良いのですか? ど、どうもありがとうございます。い、い、いただきます」  二人してしどろもどろになる。  横目で宮本を見遣ると、ハンカチで汗を拭う隙間から覗いた肌がほんのり赤らんでいた。  思わずありもしない気持ちを期待してしまいそうで、そんな自分の頬を軽く打って叱咤した。  けれども、指先についたソルティラッシーの塩気が、昌孝の心をいつまでも甘く甘く引き立ててくれていた。 End
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