残心(弓道もの・強豪校有力選手×地味キャのサラブレッド)

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 競技に興味のない残心に、幼馴染で同じく幼少の頃から弓を引いてきた駿が(かお)を歪めて言った。 『残心、それでも俺はお前を待っているから!』  駿の気持ちもよく分かる。昔のように切磋琢磨と一緒に弓を引けたならどんなに良いかと思う。  けれども、僕たちの進む道はいつしか分かれてしまった。  弓道強豪私立校に進学した駿、家の道場でひたすら己の弓を極めたい僕。  僕は誰かと闘いたいわけじゃなかった。弓は、引くことで己と向き合えさえすれば良いのだと思っている。  僕の名前につけられた”残心”。和武道に共通する基本理念の一つで、究極の訓示でもあると思う。  弓道でも射法八節(しゃほうはっせつ)の動作の一つとして説かれいて、字を”残心”、または”残身”と記した。 ――僕たち弓道家は弓に何を求めるのか。  『(しゃ)(じん)の道みちなり   射は正しきを己に求む   己正しくして(しこう)して後発す   発して(あた)らざるときは、   (すなわち)己に勝つ者ものを怨みず   (かえ)ってこれを己に求むるのみ』    (禮記射義(らいきしゃぎ))  『弓を射ずして骨を射ること最も肝要なり』    (吉見順正(よしみじゅんせい) 射法訓(しゃほうくん))  弓を引く時、何が大切で、何がその(しゃ)の決めてとなるか。  端的にいえば、矢が的に(あた)るか中らないかは、”(かい)”にかかっている。綺麗な射形(しゃけい)で弓を引き分けてきて、矢を発する機が熟するのをじっと待つ”会”が良いように保てなければダメだ。  けれども、実際は良い”会”が得られなくとも、矢が的に中ることはある。ただそんな時は中ったところで苦々しい悔いが残るものだ。  そんな己の射と向き合うのが、矢を放った後の"残心"なのだ。  また、その射と向き合うことで、己の心とも向き合うことになる。射の総決算ともいうべき所作だ。  だからこそ良い射ができれば、自ずと良い残心になる。戦うべきは常に己自身なのだと、僕は思っている。  だからこそ学生弓道のような、中てるだけの弓道に何の魅力も意義も感じない。  しきりに僕との共闘を求める駿の気持ちも分からなくもなかったが、僕はそんな雑念とは無縁の実家道場での弓道生活を選んだ。  進学先も学力と通学距離に見合う桜台公立高校普通科に通うことにしたし、ここにも弓道部があるそうだが、現時点では入る気はさらさらなかった。  今日も自宅の道場の安土(あづち)整備をし、自主練習をし、その後は地元の生徒さん達のための的張りをやっておいてあげようと思う。  校門へと歩みを進めると、運動部にはとても思えない息をゼーハーと切らしながらランニングをしている集団と出会った。  集団といっても十人程度のこじんまりとしたもので、廃部寸前の将棋部よりは断然マシなものの、ここもかなりの部員不足に思えた。  しかも、その集団の中にいる太っちょには見覚えがあった。  確か隣のクラスのヤツで、苗字が残心と同じで”ひ”あたりで始まるのだと思うが、入学式の時に体育館で出席番号順に座った席がちょうど残心の隣だったのだ。 (柔道部が似合いそうな体しているから、柔道部なのかな?)  それにしては他のメンバーはひ弱そうなひょろ長の者や小柄な者など、いろいろだった。
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