サウダージ

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 見慣れない天井に少し記憶を探ると容易に昨日のことが思い出されて大きなため息が出る。昔は始発電車が出るまで、それこそ記憶が飛ぶほど飲んだりもしたが、結婚して三十も後半を迎えた今ではそんなことも久しくなかった。苦労の末に成功したプロジェクトを祝してと、誰もが浮かれていたとは思う。  ただ昨晩のことははっきりと覚えていて、だからこそ非常に心苦しいのは、困った顔をした部下の顔も明確に記憶に残っているからだった。 「何時なんだ……」  起き上がって横を見ると、サイドテーブルにミネラルウォーターと自分の眼鏡が置かれていた。どうやらベッドを譲ってくれたらしい部下は、愛想のない割に気配りのできる男だった。  メガネを手に取り壁の時計に目をやる。本人同様飾り気のない部屋には綾瀬の匂いが満ちていた。窓の外は青空で、土曜日の午前らしいのんびりした空気が流れている。あとで家に電話をしなければ、と思いながら大きく伸びをして水を一口含むと部屋を出た。  テーブルとテレビが置いてあるだけのリビングの小さなソファで綾瀬は眠っていた。飼い猫と一緒に華奢な体を縮めて眠る様は微笑ましい。物音に目を覚ました猫が、こちらを見上げて小さく鳴いた。 「起こしてしまうから静かにな」  首を傾げていた猫は俺の言葉を理解したわけでもないだろうに、ソファから下りるとどこかへ行ってしまった。俺は綾瀬の顔を覗き込んだまま傍に腰を下ろした。  中小企業であるうちの会社に入った十数名の新入社員の中でも綾瀬は目を引いた。男にしては綺麗な顔をしていたのもあったが、他の社員が元気よく挨拶する中で彼だけが淡々としていて、ずいぶんと覇気のない若者だと思った覚えがある。それが実はとても緊張していたからだと聞いたのは後の話だ。  額にかかった髪をそっと払う。長い睫毛が頬に影を落とし、薄く開いた唇からは規則正しい寝息が漏れている。それを乱すように。吸い寄せられるようにその唇を、塞いだ。
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