動物たちの虎落笛

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*  私の会ったこともない彼の愛犬が山へ行ったのと同じように、金雪もまた山へと消えた。  行方不明となり戻らぬまま年月が過ぎ、とうとう今日、死亡したとみなされるのだ。  家を片付けてくると家族に言い置き、私は十数年ぶりに大叔父の家に入った。物の少ない家だったし、行方不明になっている間にも定期的に掃除などはされていたから、私が片付けるようなものはほとんどない。それでも、ここに来たかった。  十歳の冬休みが開けてこの家を離れてから、一度もおとずれたことはない。……おとずれがたい気持ちがあった。 (――いやだ。ここにいる)  子どもの頃の私が叫ぶ。  必死で伸ばした手を、金雪はあの日掴んではくれなかった。 (おじいちゃんとここにいる)  ほんのわずかの期間ここで過ごしただけだったけれど、あの頃の私には、この山での暮らしは眠るように静かで寂しく幸せだった。  暖炉に揺れる炎を眺めて過ごしていたかった。  家の中で二人寄り添い、虎落笛を耳にしたときのあの心地。あれをずっと、味わっていたかった。  最後まで残されていたのは一組の布団のみだった。その布団を敷いてみる。使う人のないままの布団は埃くさく、湿気を含んで重かった。  ここに横たえるべき体も見つからないまま、表面上だけの死を受け入れることは難しい。 「おじいちゃん……」  見つからなくても、どこかにいるのではないかと諦め悪く思ってしまう。この山のどこかにきっと、と。  眠るひとのいない布団をなでる。冷たいばかりの感触だった。  ……そしてふと目を瞑り、ゆっくりと開ける。  ――と。  目の前に、動物たちがずらりと並んでいた。  狐が、猿が、雉が、狸が――金雪の布団の周りをぐるりと囲み、神妙な面持ちで端座していた。  まるで彼等にはそこに横たわるべき人の姿が視えているように――そのひとを悼むように、真摯な瞳でじっと見据え、並んでいた。  私はその輪の中にいる。  ヤモリが口を開いた。私を見、何かを探すような視線の彷徨わせ方をした。鹿が私を見た。口を開き、何かを求めるような瞳を見せた。 「……笛なら、ここに」  私は手のひらに収めていた虎落笛を動物たちに示した。猿がそれを口先で咥えると、呼気を吹き込んだ。  びゅおお、と木の洞を吹き抜けるような強い風の音がした。兎は抱きしめるように笛を持ち、それを奏でた。深夜に響く寒い心地の音がした。  彼等はそうして順繰りに、虎落笛を吹き奏でた。誰もいない布団に向けて、そこに横たわるべきひとに向けて、手向けの音色を贈りつづけた。 (もう、いないんだ)  ……彼等は知っているのだ。金雪がこの山のどこかで、ほんとうの死を迎えたことを、知っているのだ。体が朽ちて白骨となるまで、見つめ、悼み続けてくれたのだ。  形ある死しか分からない私にももうそれで、ほんとうに金雪がこの世のどこにもいないことが分かってしまった。  ……空気を揺する虎落笛の音色よ。柵に叩きつける強い風よ。  彼等の響かせるその音のすべてが、金雪のいのちが喪われたことを悲しみ、嘆きの底に沈んでいる。もう吹くもののない笛を自ら奏で、動物たちは懸命に悲しみを吐き出している。 (――どこかでイタチの子が死んだな)  不意に顔をあげ、木々に瞳を凝らした金雪。そう言って彼が奏でた笛の音を憶えている。  涙で悲しみを解放することも出来ず、身の内に溜めこみ死んでしまう動物たちの慰めとなるよう、深く強く笛を響かせた。  この風の吹きつづけるかぎり悲しみに暮れろ、だがお前は死んでくれるな。悲嘆にくれたそのあとは、いのちにしがみ付いて生きてくれ――金雪はそう語りかけていたのだろう。  虎落笛は今は動物たちによっていくつもの音色を生み出している。  涙を流せていたならば、彼等は嗚咽をもらし、しゃくりあげもしていただろうか。  金雪の魂が失せてしまったことが悲しくて――寂しくて。  ほんとうはもっとずっと一緒にいたかったのに、と。 (……私も)  彼等だけでなく私も――寂しくて辛くてとても耐えられそうにないのだと、気付く。 「……ここで暮らしたかったのに」  冬休みを終えた別れの日、一緒に暮らしてはやれんと厳しく言われた。あれが金雪の思いやりから出た言葉だということなど、ちゃんと分かっていた。日常に戻っても生きていける子だと太鼓判を押されたのだ。  それでも一緒に暮らしたいと願ってほしかった。  そのままここに来づらくなり疎遠になって、とうとう行方不明になるまでおとずれることさえなかった。 「なんで、いなくなっちゃったの……」  あっという間に日々は過ぎて、社会の中では金雪はこの世に生きてないことにされてしまった。そんなの私には分からない。長年会っていなくても金雪はこの家で生きていた。だから見つからなくて会えなくても同じこと。会えなくても生きているはずだと、……そんな風に考えて、私は受け入れようとしなかった。 「死んだらやだよ……」  かつて話に聞いたあの犬のように、優しく穏やかな大叔父は、山のものたちのなにかのために生きて、死んだのだろうか。  そしてすっかりと土に肉が還るまで、彼等に惜しまれ続けたのだろうか。  ほんとうの別れを教えに、動物たちはきっとここへやって来たのだ。
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