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K ~しあわせの呼鈴~
おばあさんの言うことが本当なら彼は来る。絶対来る。ああ、神様…
マンションの一室で葛城こずえは手を合わせた。
壁にかけている赤い時計の秒針が10のところを回った。あと10秒! 本当に来るのかしら。
こずえは一心に祈った。…3、2、…神様…
そして…。
「寺田さん、お仕事。例の佐川さん」
「ええっ、またですか? センパイ」
「ごめんね! ドライバーさん、みんな出ずっぱりなのよ」
寺田こずえは仕方なく佐川急便の現場に向かった。やれやれ、また力仕事だ。なんでこんなこといつも女の子が。でも田中センパイはおめでただしなあ。クリスマスあたりが予定日だって言ってたっけ。センパイにやらせるわけにもいかない。
27歳の寺田こずえは先日誕生日を迎えた。こずえは中堅の運送会社に勤めている。東京の短大を卒業後、化粧品メーカーに勤めたのだが、2年で転職し、この会社に移ってきたのだ。女の園の化粧品メーカーより、ドライバーのおじさんに囲まれて働く方が彼女の性には合っていたらしい。給料はよくないが、彼女は仕事に一応満足していた。
今日も梅雨明け十日のとても暑い一日だ。夕方に入り、少し日が陰ってきたが涼しくはならない。気温は今でもゆうに35度を超えているだろう。彼女は更衣室で事務服を脱いでTシャツとジーンズに着替えた。夕方4時から断続的に佐川急便の荷物が来る。伝票貼りと仕分けをしなければならない。7月20日付でドライバーが二人も辞めた。以来この力仕事は彼女に回ってくるようになった。伝票貼りはともかく、仕分けが大変だ。学生アルバイトと、再雇用の村上さん(=村上老人!)とやらなければならない。
「中村くん! まだ貼ってないやつ仕分けしないで。あと45番はAだよ」
「はい、すいません」
素直でまじめなアルバイトの中村くんは汗をふきふき、荷物を仕分ける。こずえも伝票の貼り終わった荷物を仕分け始めた。村上さんも…老体に鞭打ってがんばる。3人の頑張りで荷物が徐々に整理されていく。しかし、
「こずえちゃん、荷物崩れかかっているよ!」
手伝いに来てくれたドライバーさんからのダメ出しだ。すいません! こずえはドライバーさんと積みなおす。それが終わるころに、
「はーい、新しい荷物ね」
パレットに荷物を満載したフォークリフトがやってくる。厳しい!!
荷物たちと格闘すること2時間半、作業は終わった。午後6時半、最後の佐川の荷物が出荷。あとは事務所へ帰って残務整理だ。こずえは着替えなかった。Tシャツのまま事務所に戻って冷たいお茶を飲んだ。
「中村くんも冷えたお茶飲んでね。あっ、村上さんもお疲れさま。お茶どうぞ」
しかしながらゆっくりとはしていられなかった。
「寺田さん、仕事。悪いんだけどここだけは今日中にやって。続きは明日でいい。田中さん身重だからサポートしてあげて」
山野課長だ。もう、帰れると思ったのに!! でも、田中センパイには元気な赤ちゃんを産んでもらわないと。私たちの年金の払い手が。彼女は課長からの仕事にとりかかった。どうしても今日まで、という部分だけはきっちりやった。7時15分にタイムカード打刻。退社した。
空はまだほのかに明るい。夕暮れがきれいだ。っていうことは明日も晴れ、猛暑か…こずえは憂うつになった。なんか自分にもいいことないかなあ。
同い年の田中センパイはママになる。私はというと…こずえは悲しくなった。ダメダメ、卑下しちゃ。センパイはセンパイ。私は私の人生。
「でもなんか、私の人生に彩りはないかな…」
こずえは平成最後の夏空に向かってつぶやいた。
寺田こずえには趣味らしい趣味はない。テレビを見るのが好きだが、それでは趣味とは言えない。しかし、休みの日は決まってテレビ漬けだ。仕事の後も寄り道などはせず、家に帰ったらお母さんのご飯を食べてテレビだ。インターネットは適宜に見る程度だ。パソコンは仕事でよく使うが、趣味というほどではない。家のパソコンもどちらかといえば、自室のインテリアだ。
あと、こずえには決まった彼氏がいない。27歳だからやっぱりパートナーは欲しいし、結婚も考えたい。去年結婚した職場の先輩、田中映見を見ているとやっぱりうらやましい。しかしこずえは恋愛に関しては奥手だ。自分からはとても言い出せない。化粧品メーカー時代に1年付き合ったけど、乗り換えられたもんなあ。あれから恋は休んでいる。
そんなこずえがある休みの朝、テレビを見ているとこんな言葉が取り上げられていた。
“今日という日は残りの人生の最初の一日である。”
とてもいい言葉だと思った。こずえは自分がなんだか生まれ変われるような気がした。
「そうだ、私もやっぱり趣味を持とう。ボーナス、まだ丸々残っていたよなあ」
30分後、銀行通帳を確認したうえで、彼女は出かけようとした。
「お母さん、ちょっと出かけてくる」
「あら、どこ行くの?」
「渋谷」
巾着は薄いが、キャッシュカードもクレジットカードもしっかり入っている。
渋谷の街を一人でウロウロした。まず書店に入り、いろいろ物色した結果3冊買った。村上春樹と、あと誰だろう、女性の作家ともう一人男性だ。男性の方は直木賞作家って書いてある。本なんかほとんど読まないもんなあ。
デパートでは夏だから水着商戦だ。海水浴シーズンは終わりかけだがプールはまだやっている。私も水着買おう。
…勇んで売り場に入ったが店員の進める水着はどれも若い子向けだ。24歳以下だ。結局、競泳用水着の比較的安いやつを買った。
楽器ができると楽しいかもしれない。楽器店に入ると店員の若いお兄さんが応対してくれた。この人、ミュージシャン志望なんだろうか? 音楽が大好きならしい。とても親切な人だ。私と同じくらいの年だろうか? ウクレレを薦めてくれた。でもそれじゃ高木ブーみたいだし…ならギターはどうですか、って。ギターいいなあ。練習用のなら1万5千円からあるそうだ。あっ、このギター、かっこいい。いい色。ヤマハ製だって。2万円。これに決めた。お兄さんありがとう。
しめて3万5千円ほどのショッピング。ケチな買い物が自分らしい。かばかりと満足して家に帰った。
現実は甘くなかった。こずえは趣味に始めたものがどれも興味が持てなかった。
買った本はどれも良さがわからなかった。3冊とも途中でやめてしまった。水着は…こずえは意外と自分はお腹が出ていることに気付かされた。スリムなはずなのに!! これではみっともなくて泳ぎになんていけない。まず痩せなければ。
ギターは難しかった。スマホの動画をじっくり見て弾き方を覚えようとしたが、無理だった。指使いがむつかしい。これも挫折してしまった。テレビでミュージシャンが弾いているようにはいかない。
使った3万5千円は早くも無駄になりそうだ。カード払いだから来月請求が来る…。
結局何も新しい趣味は身につかず、こずえは悶々としていた。そんな彼女を察したのか、ある8月も末の昼休み、先輩の田中映見が声をかけた。
「寺田さん、今度は一緒に飲みにいかない? とは言っても私は飲めないからご飯だけだけど。寺田さんお酒好きなんでしょう?」
「ええ、いいですけど…。誰が来るんですか?」
「私たち二人だけで行こう。じゃ、金曜の晩に」
こずえは映見と約束を交わした。
金曜日、ちょっと早く夕方6時で退社した。こずえの会社は北区王子のはずれにある。王子駅前のイタリアンへ行った。ここなら飲めなくても食事がおいしいだろう。席についてこずえが映見に尋ねた
「センパイ、夕飯作らないで旦那さん大丈夫なんですか?」
「ちょっとくらいいいのよ。気にしないで。あっ、それから今日はこのディナーコースにしよう。見て、この内容で4500円よ、安いと思わない?」
「えっ、でも私…」
「大丈夫よ、今日は私が全部おごるから」
「そんな、センパイ…」
「気にしないで、寺田さん。私、いっつも寺田さんに悪いと思ってんだぁ。だって私、おなか大きいでしょう? そのことでいつもしわ寄せが寺田さんに行ってるから。ねっ?! それから、これからはこずえちゃんって呼んでいい?」
「えっ、いいですけど、センパイ…」
「もーぅ、敬語なんか使わなくていいの。私たちタメなんだから。私のこと映見、って呼んでね」
「はい…映見…。」
映見は決して悪い先輩でない。面倒見もいいし、付き合いもいい。ただ、時々先輩風を吹かしたり、いささか強引なところがあったりするのだ。
結局、映見の薦める4500円のコースにした。王子界隈でパスタ・サラダ・メイン・パン・コーヒーまたは紅茶・ミニデザートの内容でこの値段とは破格だ。飲み物はこずえがビール、映見はジンジャーエールを頼んで二人で乾杯した。
前菜のパスタは数種類から選べる。こずえはカルボナーラ、映見はシンプルにミートソースにした。
「こずえちゃんって、こってり系が好きなんだね」
「うん」
二人でにっこりした。
その次はサラダが来た。サニーレタスとミニトマト、薄くスライスしたピーマンが乗ったサラダだった。ドレッシングがおいしかった。メインは肉か魚のチョイスで二人とも肉にした。牛ロ-スのステーキだった。いい肉を使っている。申し分のない味だ。
肉の最中にパンとバターが来た。映見が気を遣ってこずえに話しかける。
「こずえちゃん、グラス空いてるわよ」
「いいんですか?」
「もちろん。私も頼むからさ」
「じゃ、あと一杯だけ」
「すいませーん」
映見がウエイターを呼んだ。こずえはイタリア産の赤ワインを、映見はウーロン茶を注文した。映見が話しかけてくる。
「こずえちゃんってさぁ、どうなの恋愛とかは?」
「へっ?!」
「だからさぁ、彼氏とかはいないの?」
「い、いません」
こずえは映見からの突然の質問に飲みかけたワインを吐きそうになった。映見はさらにたたみかける。
「だからさあ、敬語はいいから。で、どのくらいいないの?」
「3年、くらいかな・・・」
映見はここでステーキを食べ終え、フォークとナイフを皿に置いてパンを手でつかんだ。
「そう、早く新しいパートナー、欲しいよね」
「そうね」
こずえはいったんフォークとナイフを止めて映見に尋ねた。
「あの、映見ちゃん…やっぱり、結婚生活って楽しいかな?」
映見は突然のこずえからの問いかけにやや驚きながらも、
「まあ、そうね。楽しいよ。でも、こずえちゃんに厭味に聞こえたらごめんね。私と彼は、3年半前…」
映見は長々と身の上話を始めた。二人のなれそめ、彼からのプロポーズ、そして新婚生活。今妊娠6ヶ月で一番幸せだという。
「私の自慢話ばっかしてても意味ないから言うけど、今日はこずえに来てもらった目的がもうひとつあるのよ。こずえにいい人いるの。一度会ってみない?」
「えっ、男の人?」
「当り前じゃない、それがねえ、もうチョーが三つ付くくらいいい男なのよ。私のダンナ東京都庁に勤めているんだけど、主人の後輩の部署にいる男性でね。すごいイケメンで、大学は一橋出身で、性格はよくて、もう掘り出し物だよ。私は主人いるからダメだけど、それでもほしいくらい。こずえに今度紹介するからさあ」
なんか怪しい。断った方がよさそうだ。
「わ、私、背が高いでしょう。168センチあるし…靴履いたら…」
「その彼背が高いのよ。183センチだって。こずえと並んだらもうお似合いだよ。男女の差15センチがベストっていうでしょう」
こずえは少し警戒を解いた。そしてワインを飲みほした。
「ただね、彼年下なの。今24歳でね。私たちより3歳年下。でもさ、もう決めなよ。私が産休に入る前に紹介するわ」
年下か…不安と不満はあったが、こずえはちょっとだけうれしくなったのも事実だ。それから食後のコーヒーとデザートをおいしく平らげた。
「はい、これ」
二人での飲み会の次の月曜日。昼休みに映見がこずえに自分のスマホを見せた。
「誰なんですか? これ。新人の二枚目俳優とかですか?」
テレビ好きのこずえだが、このイケメン“俳優”は知らない。
「だからもう、敬語はいいから…。こずえ! これがこずえに紹介する男性」
「えっ、この人が!!」
こずえはびっくりした。思わず大きな声を出してしまった。会社の人が一斉にこずえの方を見る。こずえは首をすくめた。
「映見ちゃん、この人良過ぎるわ。私と釣り合いません」
「それがねえ、この彼にこずえちゃんの写真送ったの。ほら、あの後自撮りで二人で撮ったでしょう?! 彼のIDは教えてもらっていたから。そしたら、彼『ぼくの方こそよろしくお願いします』って。こずえちゃん、第一審査パスだよ!」
「そんな・・・」
こずえは逃げ出したくなった。
「じゃあさ、一度会おう。大丈夫、こずえちゃんかわいいから。彼も大喜びよ。あっ、それから」
映見はこずえのほうに向き直って言った。
「言い忘れていた。彼の名前、葛城和則くんっていうの」
スマホの画面の中でデニム生地のブラウスをラフに羽織った葛城和則が虚空を眺めていた。
こずえはこれまでに2度、男性と交際したことがある。一度目は短大生の時だ。親に隠れて10歳年上の男性と付き合っていた。年が離れていたからとにかく優しかった。デート代はすべて負担してくれたから、まるでお姫様になったような気分だった。その男性は当時急成長だったIT関係の仕事をしていて、そういったことにとても詳しかったし、話も面白かった。年下のこずえから見て彼が大人に見えたのは言うまでもない。
だが、年の差は残酷だった。当時19歳のこずえにとって29歳の彼とは世界が違った。ある意味当然だろう。年は離れていても気が合ったし、話もあった二人だが埋められない溝があった。…結婚である。
彼が30歳の誕生日を迎えて数日たったある日、こずえは突然彼からプロポーズされた。こずえはまだ短大2年生、卒業もしていない。だが、彼は真剣だった。
「サイズがわかならなったから指輪は今度渡すけど、僕に決めてほしい」
「えっ、」
こずえは何のことかさっぱりわからなかった。
「結婚しよう」
こずえはびっくりした。逃げ出したくなった。
「た、たっちゃん、なんで今なの? もっと後でもいいじゃない」
「ダメなんだ。こずえが短大を出る前くらいに結婚しよう」
彼の話はこうだった。やはり結婚していた方が会社での昇進には有利だということ、そして…この理由が彼女には理解できないのだが…子どもを作るのに有利だということらしいのだ。たっちゃん(というのが彼氏の名前だ)は三人兄弟の長男で、自分も三人子どもが欲しい。でもこの年から子どもを作り出すと三人目を作るときには35歳を過ぎてしまう。35歳を過ぎた男性の精子は元気がなくなる、というのだ。彼はインターネットで見たというが本当に科学的根拠があるのだろうか?
一方の彼女は、このプロポーズ以来彼のことが嫌になってしまった。愛情も冷めた、ということだろうか? 最も19歳の彼女にとって愛が何なのかさえよくわかっていなかったのかもしれない。確かにプロポーズはいったん断ったが、二人の交際はしばらく続いた。しかし、それまで彼の長所と思うところはことごとく短所に代わった。年上で大人だと思ったところはおっさんに見え、優しかったところは小心者に見えた。そして彼女からたっちゃんに別れを切り出し、二人は別れた。
彼女の二度目の交際は化粧品メーカー在籍当時だった。相手は4歳年上の会社の先輩だった。たっちゃんもそうだったが、優しくてリードしてくれる人だった。でもたっちゃんと違ってルックスはとてもよく、そういう意味では彼女の虚栄心を満たしてくれるところはあった。
古塚さんというのがその彼氏の名前だった。彼女は最後まで下の名前では呼べなかった。
「古塚さん、お腹すいた。ご飯食べたいです」
「古塚さん、販促のエクセル入力、できました」
デートでも仕事でもこんな具合だった。アレの最中まで古塚さん、古塚さんだったのだ。(もっとも、彼女の初体験は前述のたっちゃんだが。)こずえは古塚さんに夢中だったし、いつか自分もこの名字になるのかも、と淡い期待を持っていた。
しかしこずえの期待ははかなく裏切られる。彼女は見てしまったのだ。
その日は決算前でこずえの部署も忙しく、こずえは残業で帰りが遅くなった。3月の冷たい雨が降っていた。夜の9時過ぎに地下鉄の駅に向かっていると遠目に古塚さんが見えた。彼には連れがいた。
奈緒子が! どうして?!
古塚さんはこずえと同じ部署で同期入社の高野奈緒子と腕を組んで歩いていたのだ。ビニールの傘は透明だから街灯の明かりゆえすぐに分かった。楽しそうだった。こずえはショックだった。奈緒子は四年制の女子大出身だから年はこずえより2歳上だ。でもとてもやさしい子でこずえとも仲が良かった。まさか古塚さんと奈緒子に裏切られるなんて!
こずえは思わずさしていた傘を落とした。彼女に冷たい雨が降り注いだ。その冷たい雨に彼女の涙が混じった。
「お姉さん大丈夫?!」
親切な誰かが声をかけてくれた。だが、こずえは振り向きもせずにとぼとぼと立ち去った。
翌日、彼女は古塚さんに尋ねた。昨日の商談どうでしたか、と。彼はアフター5に商談があるといってこずえとのデートをキャンセルしたのだ。
「商談、そうだね。まあまあかな…。まあ、話が長引いてね…」
目が泳いでいた。
「嘘つき!!!」
こずえはオフィス中に聞こえわたるくらい大きな声で怒鳴り、古塚さんにビンタした。男性にビンタなんて人生でこの時だけだ。
春の人事異動で彼女は急に転勤を命じられた。前例のない、ありえない異動だった。こずえは迷わず会社に辞表を提出した。
9月は怪しい季節、と昔一風堂が『すみれ September love』という歌で歌った。(平成に入ってからSHAZNAというグループがこの曲をカバーした)その歌のとおり、平成最後の9月も怪しい気候だった。夏の記録的酷暑は和らいだが、大きな台風に何度も見舞われた。大阪の方では関西国際空港が閉鎖になるなど特に大きな被害もあった。
寺田こずえもそんな怪しい季節を生きていた。そしてついに、先輩の田中映見がセッティングしたのだ。葛城和則との対面を。
「映見ちゃん、私やっぱ自信ないわ。フラれるだけ。もう、やめよう」
「大丈夫よ、こずえ。実はね、葛城くん2回電話くれたの。早く寺田さんにお会いしたいです、って。驚いた! 彼、奥手なのかと思ったら意外と積極的なのかもって。こずえ、彼氏いただき、だよ」
「無理よ…」
和則に会うのがこずえは不安で仕方なかった。
9月15日の土曜日の夕方、顔合わせ会は組まれた。こずえに和則、あと田中夫妻に映見の夫の後輩で和則の同僚、それにプラス・イチ(当然女)である。学生ならこんなものは合コンと呼ぶかもしれない。前日の金曜日は気も漫ろに定時で退社した。
いつものように母親の夕食を食べ、テレビを見たが落ち着かない。風呂に入ったがやっぱりダメだった。パジャマに着替えて自室でベッドに横になっていた。
「何て言ってフラれるのかなあ…」
その時スマホが鳴った。080で始まる、知らない電話番号からだ。こずえはためらった。しかし恐る恐る出た。
「は、はい…」
「夜分に突然のお電話で大変失礼いたします。わたくし、葛城和則と申します。寺田こずえ様のご携帯でしょうか?」
こずえはびっくりした。どうして、この番号が?!
「えっ、何で私の番号が!」
「も、申し訳ありません! わたくしが、田中映見さんに教えていただきまして…とは申しましても田中さんは別に悪くありません。田中さんはずいぶん渋られたのですが、わたくしがこずえさんとどうしてもお話ししたく、無理を言って教えていただきました」
「そ、そうですか…」
普通ならこういう場合は誰だって不愉快な思いをするだろう。普段のこずえならきっとそうだ。だが、彼女は意外とそうではなかった。むしろこの和則という青年の熱意にほだされていた。
「あ、あの…やはりお気に障りましたか?」
和則は恐縮した。しかし次の瞬間、こずえは自分でも信じられない言葉を口にする。彼女はクスッと笑って
「イケメンなんですね、和則さんって。映見ちゃんに写真見せてもらいました。なんだか俳優さんみたい」
「えっ、ぼくですか?! とんでもありません。ぼくは俳優でも何でもありません」
この人、面白い。それになんだかカワイイ、こずえは思った。
「こずえさんこそきれいです。写真拝見しました。誰だろう、あの人に似てるな、ほら乃木坂の…」
「ちょっといやだ、和則さん! 乃木坂にはこんなブサイクいないわよ」
「そんなことないですよ、そうだ思い出した、白石麻衣だ」
「まさか! 似てるのは年恰好だけよ!」
話が弾んだ二人はその後約1時間電話で話した。その後、こずえは映見に電話した。
「映見ちゃん、明日楽しみだね!」
「こずえごめんね、電話番号!! でもちょっと、どうしたのよこずえ! 葛城くんに会いたくなかったんじゃないの?!」
「今日はお日柄もよく…」
飲み会の席で田中映見の夫、竜司が茶化してあいさつした。これではまるでお見合いである。だが、一同静粛に田中竜司の挨拶を聞いた。
対角線上に葛城和則が座っている。なかなかのいい男だ。だが、写真の方がよかったかな、こずえは思った。今日は来てよかった。会えてよかった、早く二人で話がしたい。この後の予定も空いている、明日は日曜日だ。こずえは挨拶を神妙に聞きながらウキウキしていた。
和則は赤と黒の文字の入った白地のTシャツにリーバイスのブルージーンズといういで立ちだった。髪は短く切っていて黒くてサラサラの髪だった(都庁に勤めているから茶髪にはできないだろう)。すました顔もいいが、こずえと目が合った時に見せた笑顔も格別によかった。
しかし、和則には簡単に近づけなかった。まずは参加6人で乾杯し飲んだのだが、田中龍司とその後輩の小村潤が連れてきた女の子、成宮華子に主導権をすべて奪われてしまったからである。この華子という子も都庁の職員で、小村や和則の同期らしい。華子は盛大に食べ、飲んでしゃべった。こずえは逆になんだか白けてしまった。
「寺田さん、ジョッキ空いてるよ。何か頼もうか?」
竜司が気後れしているこずえに尋ねた。
「そ、そうですねえ、じゃあ…」
このときこずえの代わりに、
「私、ハーパーロックで、もちろんダブル!!」
と華子。マシンガントークも止まらない。
「私ら期待されてないのか区役所配属でさあ、私なんか子育て支援課だよ! でも東京都の育児政策、ダメだねえ! 引っ越したいけど、どっかいい県ないかなあ。私結婚したら3人子どもほしいんだけど…おい、コムジュン!! 税務課だからってあのツルハゲおやじに媚び売ってんじゃねーよ。一体カズノリまで…」
酔った華子にこずえの割り込む余地などまるでなかった。
「寺田さん、から揚げ召し上がってくださいね」
小村潤が気を遣って言ってくれた。
「あっ、から揚げいただき! お酒に合うねぇ」
成宮華子がマッハの速度で飛びついた。
「最低だったね、今日の飲み会」
帰り道こずえと映見が並んで歩きながら話した。運送会社の二人と都職員組に分かれたのだ。
「私、気後れしちゃった。何も話せなかった」
こずえはがっかり肩を落として言った。
「ホントに何も話せなかったの、彼と?」
「うん、和則さん最近何か映画観ましたか、って。いや、何も。ただ、それだけ」
「あの女、はしゃぎ過ぎなのよ。華子とかいうやつ」
「そうね」
こずえは映見の気遣いにちょっとうれしくなった。
「今度は私らだけで会おう、葛城くんと」
「うん、ありがとう。じゃあね」
「お疲れ! バイバイ」
こずえは映見と別れた。
地下鉄の駅に向かっていくと、通りのコンビニから男性が出てきた。和則だった。
「ああ、寺田さん」
こずえはうれしくなった。
「今日は…お疲れさまでした」
「いやあ、ホントごめんなさいね。成宮さん悪い子じゃないんですけど、飲み会ではいつもあんなふうで。ぼくたち、十分話せませんでしたね」
「ええ」
こずえの声が1オクターブ上がった。
「今度は二人で飲みましょう」
こずえはこっくりうなずいた。
「特別おごりますよ」
こずえがうれしくなったのは言うまでもない。
「あの、葛城さん…」
「すいません。今日はまだ寄るところがあるので、じゃ、また」
和則は笑顔を見せて、去って行った。
ホントならその後の予定は空いていた。一抹の無念は残したが、彼女の心はやや満たされた。
10月に入ると、気候はいっそうよくなった。京大の本庶特別教授がノーベル賞を受賞した。築地市場が83年の歴史にピリオドを打ち、豊洲市場へ移転となった。そんなおりしもこずえはある作戦を実行していた。“和則さんの彼女になる作戦”である。
電話はまずは5日に一回、一回の電話は5分以上20分未満。のちに3日に1回とする、というものだ。そのうちにメールかLINEも、という具合だ。初デートはどうしよう? 思い切って二人でディズニーランド?! 渋谷でショッピング? なんかありきたりだな、浅草寺か明治神宮へお参り、それがだめなら、じゃ、できたばかりの豊洲市場って見学できないのかな…いろいろ考えた。やっぱり、映見ちゃんにも立ち会ってもらおうか、その方がいいな、でも映見ちゃんだんだんお腹が目立ってきたしな…考えは連鎖した。
その日は和則に電話する日だった。会社から帰り、夕食を済ませ、テレビも見ずに午後8時。電話をかける前にスマホの前で何か儀式でもしたいところだったが、それはしなかった。和則の番号をタップした。3回目のコールで和則が出た。
「ああ、寺田さん。どうされました?」
「い、いや…葛城さん今どうされているかな、って思って…」
「ごめんなさい、今電車の中なんです。後でかけ直しますね」
ちょうど一時間後、和則よりも先にこずえがかけた。待っている間に風呂は済ませた。
「今帰ったところです。今日は帰りが遅くなってしまって」
「葛城さん、お疲れ様。いや、急で悪いんですけど一度会っていただきたいなあ、と思いまして…」
「そうですか。別にいいですよ。いつにしましょう?」
「あっ、あの、映見ちゃんも来るんで彼女の都合聞いときます」
こずえは電話を切った。でも本当はもっと話したかった。
今度は映見に電話した。デートの同行を依頼しなければならない。
「葛城くんとデート? 二人で行けばいいじゃない」
「映見ちゃんお願い、付いて来て。一人じゃ、ちょっと…」
「こずえちゃんなんか中学生の女の子みたいだね」
映見に冷やかされてしまった。
三人でのデートの日、あいにく東京は朝から雨だった。仕方なく恵比寿のカフェでお茶をすることにした。映見の家が中目黒だから和則が合わせたのである。身重の映見に対する和則の優しい配慮だ。こずえも実家が巣鴨だから山手線で一本である。朝の10時にそのカフェで会うことにした。
9時50分に行くと和則は待っていた。こずえは会えてうれしかったが、いやがうえにも緊張した。
「あっ、葛城さん…」
「おはようございます。田中さん、まだですか?」
「ええ、映見ちゃん遅いですね」
10時を少し過ぎて映見がやってきた。お腹はより目立ったように思われた。それまで、和則とこずえは二言三言、言葉を交わしていた。そんな二人を見て映見は、
「ほらほらもっと、お二人さん! 男女交際の基本はまずはお話だよ!!」
「もう~! 映見ちゃん、冷やかさないで」
「田中さんはしょうがないですね」
二人は苦笑した。そして映見もテーブルについて三人はドリンクを注文した。
話はいたって和やかに進んだ。こずえは和則とたくさん話ができてよかった。映見のおかげだと感謝した。和則も年上の女子二人にすごまれることなく、楽しそうにしていた。
「三人じゃないよ、四人だよ」
映見が言った。
「どういうこと?」
こずえが尋ねると、
「決まってるじゃない、お腹の子よ。もう男の子だってわかってるのよ。今から楽しみだわ」
「よかったですね、田中さん。おめでとうございます」
「えっ、映見ちゃんって男系の家庭なの。兄弟は?」
「私、お兄ちゃんが一人。二つ、年上かな。小学生までは一緒に遊んで仲良かったけど、それからはもう右・左よ。お兄ちゃん、まだ結婚もしてないの。でも最近やっと彼女できたってお母さん言ってた。伯父さんになるんだからお兄ちゃんも頑張ってもらわないとね」
「ところで、それなら今日は2対2の合コンですね。前の仕切り直しかな」
和則が軌道修正すると、
「そうそう、葛城くん。こずえをよろしくね。この子、葛城くんに燃えるような恋がしたいって言ってるから」
「もう~! センパイ言ってません!!」
こずえは顔を赤くして否定した。
12時近くになり、ランチをどうしようかという話になったが、結局そのカフェで食べることとなった。女子二人はオムライスを、和則はカレーライスのセットにした。これらにサラダ・ドリンク・デザートがついて千円と大変お得なセットである。おいしいランチを楽しみ、ドリンクを飲んでいる(二杯目となる)と映見が言った。
「こずえちゃん、私昼から検診なの。ここから近くの産婦人科なんだけど」
「えっ、今日は土曜日よ」
「土曜日でもそこはやっているのよ。あとは二人に任せるね」
映見は来週10月20日で産休に入る。もっとも20日は土曜日だから出勤は19日までだ。
「えっ、そんな、映見ちゃん、センパイ?!」
映見は荷物をまとめながら
「それではこのへんで、お二人さ~ん、な・か・よ・く!!」
「田中さん、ありがとうございました。さようなら!」
和則があいさつした。そして和則とこずえの二人になった。
あれほど二人で話がしたかった和則なのに、いざ前にすると何も話せなくなった。こずえは緊張してきた。この前は電話で1時間はしゃべったのになあ。電話だったからかなあ。でも、ダメだ。逃げ出したいとさえ思った。とにかくしゃべらなければ! こずえは焦った。
しかし、和則は一向に自然体だった。アイスコーヒーに口をつけ、くつろいでいた。こずえがずっと下を向いて何も話さないでいると少し心配して、
「どうかされましたか、こずえさん?」
和則が尋ねた。
「こ、こずえさん?!」
こずえは大げさにびっくりした。
「す、すいません! つい馴れ馴れしく…失礼しました」
和則は深々と頭を下げた。すると、こずえは緊張が解けて
「いいんです。こずえってよんでください」
「ありがとうございます。・・・こ、こずえ」
「いえいえ。葛城さん」
「ぼくの方こそ…ぼくは母親から『かずくん』ってよばれています」
「でもそれは大切な一人だけなんでしょう」
「いえ、例外を認めます。こずえ」
「もう敬語はやめようか?」
こずえが思い切って提案した。
「そうだね」
和則もOKした。コチコチだった二人がなんとなくリラックスして心がふれあった。
昼からも外は寒かった。朝少し降った雨は上がったが、どこかに出かけるという気分にもなれなかった。二人がいるカフェも少し暖房が入っているようだった。あたたかい部屋で二人はいろんな話をした。和則は本当に引き出しというか話題の豊富な男だった。聞き上手なうえに話し下手だった。知らない間にこずえは夢中になって話していた。やがて二人の話題は音楽について、になった。
「こずえはどんな音楽が好き?」
「私は…ピアノだけの音楽とかバロックみたいな静かな音楽が好き。あと、ポール・モーリアかな…」
「バロックってバッハとか?」
「そう。あとパッヘルベルのカノン」
「いいねえ。それにポール・モーリアはぼくも聴く。『恋はみずいろ』なんかね」
「あれ、原題“Love is blue”っていうんでしょう? ポール・モーリアフランス人なのに」
「ハハ、そうだね。フランス人英語使いたがらないのに。ところで、J-POPとかは聴かないの?」
「そんなことないわ。カラオケもたまには行くし。そう言えばさっきここに来るときDA PUMPのUSAかかってた」
「いいよね! ぼくも朝コンビニ寄ったけど米津玄師のLemon聞いた」
それからも二人は話をした。3杯目のドリンクも注文した。運ばれてきたホットレモンティーを飲みながらこずえが言う。
「かずくんってホント面白い! 話し上手」
「そんなことないよ。じゃ、どんな話題がよかった?」
「全部」
「じゃ、ぼくが米ドル相場と日経平均の話を延々2時間したり、『趣味は女子小学生です!』なんて言ったりしたら?」
「も~う、かずくんったら!!」
二人は笑いあった。そして、3杯目のドリンクを飲み干して二人は店を出た。時間は午後3時を回っていた。JRの恵比寿駅まで一緒に行った。
「かずくんってどこから来てるの?」
「ぼくは川崎の方から。こずえは?」
「私は巣鴨。じゃあ、ここでお別れだね。さびしいな」
「また会おう。電話する」
「うん、じゃあバイバイ」
二人は握手して別れた。
こずえと和則の電話でのやり取りが始まった。2回目のデートはどうしよう、という話になり結局こずえの家に行くということになった。話してみて二人とも意外とインドア派だということが分かったのである。二人で話すというのが彼らのスタイルとして確立しつつあったのかもしれない。こずえも二人で話すことが本当に楽しかった。
11月の3日に、和則がこずえの家に訪ねてくることになった。その日は文化の日で祝日だが土曜日だ。休みを一日損したこととなる。だが、和則に会えるうれしさからそんなことどうでもよかった。その日は朝から少し暖かく、穏やかだった。朝10時に巣鴨の駅まで迎えに行った。
「かずくん、おはよう!」
「ああ、こずえ! 久しぶり」
なんだかもうすっかり恋人同士みたい、こずえはひそかに思った。
家まで歩いて約10分、二人で向かった。着くと玄関のかんぬきを開け、家に入った。こずえの母・裕子が出迎えた。
「あら、初めまして。こずえがいつもお世話になっています」
「こちらこそ初めまして、葛城と申します。あっ、これつまらないものですが、ご家族で召し上がってください」
と、手に持っていたケーキの箱を渡した。
「まあ、スイーツパラダイスか。有名なところね。バイキングとかやってる。何かで聞いたことがあるわ」
「うちが川崎なもので。ダイスにあるんです。」
こずえの母と和則があいさつのやり取りを済ませると、こずえは和則を先に2階へ上がるように言った。こずえの部屋は2階だ。
「こずえ、こずえ」
裕子がこずえを呼び止めた。
「一橋出身のエリート公務員が遊びに来るんじゃなかったの? いつから映画俳優に代わったのよ?」
「お母さん、彼が一橋なの」
「ひぇーっ!」
驚く母を尻目に、かずくーん、とこずえも2階へ上がった。
こずえの部屋に上がると和則は恐縮した。何と言ってもレディの部屋、それも年上である。緊張しないわけがない。
「ぼ、ぼくもあまりこういう経験がなくて。兄弟も弟とかだし。と、ところできれいな部屋ですね、こずえ」
「フフ、敬語はいいから。実はさっき大掃除したの」
和則は周りを見渡した。
「そっか。あっ、本がある。村上春樹かぁ」
和則は手を伸ばして一冊手に取った。
「ぼくも読んだよ、『ねじまき鳥クロニクル』。いい小説でしょう?」
和則は感心したが
「そう? 私良さがわからなかった。3巻まであったけど、とりあえず1巻だけ買って読んで、その途中でギブアップした」
と、こずえは肩をすくめた。
「そんなことないよ、絶対面白いよ。もう一回挑戦してみて」
「ありがとう。かずくんが面白いっていうんなら読むね」
「今度はうちに遊びに来て。『1Q84』が全巻ある。あれを読むといい」
「それ知ってる。何年か前に流行ったね」
二人はそれからも本の話をした。こずえが紅茶を運んできた。
「後でお母さんがお昼ごはんにカレーライス出してくれるって。実は私も手伝ってジャガイモやニンジンむいたりしたの」
「へぇーすごいね。掃除もして料理もして、こずえはきっといい奥さんになるよ」
「誰の?」
「・・・」
和則は黙ってしまった。
こずえの母・裕子が昼食にカレーライスとサラダを運んできた。ニンジンやジャガイモはちょっと大きすぎたが、和則はおいしいと言って食べた。おかわりもした。
昼食の後、和則がこずえのギターに興味を持った。例の、以前に渋谷へ買いに行ったやつだ。1,2曲弾いてほしいと言った。
「でも私すごく下手よ。今はもう弾いてないし」
「じゃ、ぼくに貸して。一緒に歌おう」
「えっ、かずくんが?」
和則はギターを手に取った。さっそくチューニングだ。5分で済んだ。慣れているらしい。
「ヤマハ製か。いいギターだね」
和則は感心した。こずえはちょっと照れて、
「そんなことないわ、かずくん。安物よ」
「そうでもないよ。軸がしっかりしてる。色だっていいし」
ジャラリン♪。 和則は少し鳴らして見せた。いい音、こずえは思った。自分のときと違う。
「一緒に歌おう。漕げよマイケル!」
マイケル ロー ザ ボート アショア ハレルーヤ
マイケル ロー ザ ボート アショア ハレルーヤ
和則は器用に弾いた。決してプロ級とかそんなのではない。でも愉快な演奏だった。自然と体がのってくる。今まで部屋の隅で埃をかぶっていたギターがもったいなかったとこずえは思った。
「かずくん上手!!」
こずえは拍手した。
「ねえ、もう一回弾いて」
「うんいいよ。一緒に歌おう」
今度は和則のギターで2人でハモった。ハーモニーがきれい、こずえはうれしくなった。
「ナイス、ボーカル!!」
和則がほめてくれた。
その後も2人で雪山賛歌やアニー・ローリーを歌った。こずえはますます楽しくなってきた。ヒートアップしてきた。
「ねえ、私にも弾かせて」
「もちろん! こずえのギターだし。まずは漕げよマイケルを弾くといい。Cコードはわかる?」
「ええっと、こうかな?」
こずえがぎこちなく押さえた。
「ちがう、それはG。Cはそこと、そこ。うん、それ。それで鳴らして・・・うん、いいよ。ハレルーヤのルでFに・・・そうそう。そしてまたCを・・・」
和則がレクチャーした。すごく丁寧なレクチャーだった。そんな指導のおかげもあってこずえもなんとか漕げよマイケルが弾けるようになった。今度はこずえのギター演奏で2人で歌った。残念ながらこずえの演奏はうまくはなかったが、和則は批判というものを一切しなかった。こずえはもう楽しくて仕方なかった。
その後は和則の持って来たケーキでコーヒーを飲み、2人はおしゃべりをした。午後4時近くとなり、和則は帰ると言い出した。こずえは寂しさから頬に冷ややかな風を感じてしまったが、和則は明るく、
「じゃ最後にぼくの一番好きな歌をギターで歌うよ」
と言った。
「えっ、どんな歌?」
「こずえは知らないかもしれないなあ。古い歌だから。逆にぼくは新しい歌はあまり弾けないから・・・」
そういって、弾き始めた。松山千春の『大空と大地の中で』だった。こずえは熱心に聴く。
見事だった。歌い終わって拍手した。いい歌だった。詞もいいし、メロディーも。和則のギターがまたよかった。和則はニッコリして、
「ぼくもいろいろつらいときがあったから。そんなときこの歌を歌って自分を励ましたんだ。いい歌でしょ?」
「うん。私も聞いたことあるな。でもオリジナルよりかずくんの方が好き」
「ありがとう。これからのぼくにはこの歌と、あとこずえがいるな」
「へっ?!」
「今日はありがとう。じゃ、」
和則は帰り支度を始めた。
ワンテンポずれてこずえは和則にもらった言葉の意味を喜んだ。幸せたった。
「今度はカラオケでも行こうか?!」
「うん。かずくん、ありがとう」
玄関でこずえが見送った。
幸せいっぱいのこずえだが、実は週の明けた月曜日仕事を休んだ。朝から体調がすぐれなかったのだ。こずえにとっては珍しいことだった。(もっとも、この点に関しては厳密には間違いで、こずえは現在の運送会社に入社してから1日たりとも体調不良で会社を休んだことはなかった。)
朝近くの内科を受診し、待ち時間も大してなく診察時間も短かった。ちょっとした薬が処方され、念のために大病院への紹介状が渡された。産婦人科あてだった。来週月曜日に電話で予約した。あと、そこの内科はもう来なくていいという。昼からは自宅の自分の部屋のベッドで横になっていた。土曜日にあった和則との楽しいひとときを思い出してニンマリしていた。
「お母さん、もう大丈夫。明日からは行けるわ」
夕食を食べながらこずえは母に言った。母の裕子は無理しちゃだめよ、とは言ったが明日の出社に反対ではなかった。実際こずえは出社した。それから次の月曜の産婦人科受診まで休まなかった。体調は悪くなかった。
週明けの月曜日、仕事を休んで産婦人科を受診した。採血・検尿をはじめいくつか検査も受けた。そして診察待つこと2時間、専門の先生に診てもらった。こずえには自覚症状はない。半信半疑の診察だった。
「担当医の内藤と申します」
40代くらいの男性の産婦人科医は丁寧にあいさつした。
「寺田こずえです。あの、私なんか悪い病気なんでしょうか?」
こずえは恐る恐る聞いた。
「今のところは何とも。ただ、可能性として捨てきれません」
内藤という医師は事務的に答えた。それだけでこずえはドキッとした。
「そんな、先生―」
「とりあえず最善を尽くします。3週間に一度で結構です。診察にいらしてください」
「あの、私仕事が…」
「大丈夫です。土曜日も私は診察しております。月曜日と水曜日と土曜日の午前中が私のデューティでして。まあ土曜日は寺田さんのようにお勤めをされている方も来られるから少し混みますが、それでも健康第一です。頑張って看ていきましょう」
内藤医師は少し柔和な笑顔を見せた。
和則との付き合いは続いた。病気のことを考えると不安にはなったが、和則とLINEしたり電話したり、たまに会ったりするとすべて忘れることができた。和則も励ましてくれた。それがうれしかった。病気の可能性があるとは言っても自覚症状がないことから心配しようにもよくわからないというのが本音だった。
季節は秋から冬へと変わった。インドア派の二人もインドアのデートに飽き足らなくなり、カラオケに行ったり、奥多摩へ紅葉狩りに行ったりもした。和則にせがまれて冬に温水プールへ二人で泳ぎにも行った。お年寄りばかりの区民プールに27歳の競泳用水着を着たスレンダーなこずえが来たらおじいさんたちから奇特な視線が集まった。その視線がこずえはたまらなく嫌だった。和則までこずえの水着姿に勃起してしまったから何をか言わんやである。結局ほんの少しだけ泳いでプールから上がった。
クリスマス、年末年始も二人は寄り添って過ごした。ただただしあわせだった。
新しい年、2019年がやって来た。4月で平成が終わって何て言う時代が来るんだろう?
2019年3月。大坂なおみがツアー大会初優勝した。森友学園に関する財務省の決裁文書改ざんをめぐり、佐川氏の証人喚問があった。
春先二人で旅行に行こう、という話が持ち上がった。こずえは特に旅行に興味はないが、和則と行けると思うともうわくわくした。どこへ行こうか、という話になりまずは箱根か伊豆かと言っていたが、和則が南の島はどうか、と言い出した。グッドアイデア! こずえもそう思った。結局土日を使って一泊二日で奄美大島に行くことになった。スマホさえあれば必要な情報は集まるが、こずえは奄美大島のガイドブックを買った。形から入るこずえである。一方、旅慣れていないこずえだから旅行の準備は苦労したが、母に手伝ってもらった。男との旅行と言っても和則なら特別なのだ。母の裕子も、父の哲雄も公認だ。
旅行の1週間前の土曜日、こずえは診察を受けた。
その時がその旅行の時に来るとはこずえは思っていなかった。今から思えばその時にこずえのすべての不幸は始まっていたのだ。しかし、神ならぬこずえは知る由もない。
4月1日に新元号が発表された。「令和」だそうだ。こずえは会社の食堂でリアルタイムで見た。へえっ、と思った。6、7日に奄美大島へ向けて出発した。成田空港からバニラエアの便で奄美大島へ飛んだ。奄美空港は小さな空港だ。奄美はあいにくの雨だった。だが、東京よりかは少し暖かい。空港からはバスで移動することにした。レンタカーを借りようかという話もあったが、二人ともペーパードライバーで運転に自信がなかったし(今どきの若者らしく、東京圏の真ん中に住む彼らにとって車は必ずしも必要ではなかったのだ)、3150円で2日間乗り放題のフリーパスがあるとこずえが買ったガイドブックで見つけたからである。
空港の名瀬行きバス乗り場では二人のほかに一組の老夫婦がバスに乗り込んだ。東京では絶対に見ないようなポンコツのバスに乗って出発だ。天気は悪いが、道路わきにはきれいな花が咲いている。でいごの花だろうか。これも東京ではお目にかからない。
アサガオによく似た花も咲いている。なんていう花だろうか? 奄美大島の亜熱帯気候が織りなす光景に二人はワクワクしてきた。
やがて海が見えた。きれいなマリンブルーの海。雨で空が曇っているのが惜しい。和則はスマホを取り出して写真を撮った。こずえは遠くの海を見やった。そしてバスはバス停でUターンし、もと来た道を引き返した。これがバスのルートらしい。坂を上り、やがて下り、バスは走った。
赤尾木というバス停で二人は降りた。バスは走り去る。雨がまだ弱いが降っていたので二人は持っていた折たたみ傘を差した。ほかに傘をさして歩いている通行人がいる。島の住民だろうか? ここから最初の目的地『それいゆファーム』へ向かう。
「ねえ、かずくん。ここから近いの? そのそれいゆファームって…」
「そうだなあ、ここからだと歩いて15分くらいかなぁ?」
「ご、ごめんね…私トイレに行きたいの」
「えっ、そうなの?!」
「空港でバスに乗った時からずっと我慢してたの。そのそれいゆファームってバス停の真ん前だと思ってた」
「困ったな、ちょっと待って。今スマホ見る…ここから5分ほどのところに小さなカフェがある。そこへ行こう」
二人はスマホのマップを頼りに歩いた。お目当てのカフェはすぐ見つかった。こずえは無事トイレを借りて一件落着である。二人は紅茶を注文し、少し休憩した。和則もトイレを済ませた。女主人がティーコージをかぶせたポットを運んでくる。
「お客さん、紅茶をどうぞ。レモンと砂糖も。それともミルクがいいですか?」
「ぼくはミルクをもらいます」
「そうですか。どうぞ。…お客さんたち、東京から?」
女主人がポットから紅茶を注ぎながら尋ねた。
「はい。奄美は暖かいですね」
「そうねえ。これでも少し寒い方ですわ」
カフェで紅茶と女主人とのおしゃべりを楽しみ、二人は出発した。ここからだとそれいゆファームは遠くない。やかでそれいゆファームに到着、二人はウミガメや山羊を見学した。
その後、ファームの売店でソフトクリームを買って食べた。ここのヤギの乳で作ったものらしい。濃厚な味だ。
「ねえねえ、かずくん。これだよね? 行こうって言ってた。ハートロック」
こずえが売店のポスターを見ながら言った。
「そうそう。さっきのカフェの女性も言ってたよね。潮の干満の関係でこの時間なら見られるって」
ハートロックというのはこの島で有名な潮だまりのことだ。ハートの形をしていて、パワースポットだと言われている。ここへ来ても見られなかったという人も多い、幻の観光名所だ。そこのポスターにはハートロックの行き方まで書いてある。
「行こうよ。バスまでまだ時間あるし」
「そうだね」
二人でそれいゆファームからハートロックへ向かった。密林のような林の一本道を抜け、海岸へ出て右手の方角へ歩いたら…あった!! ハートロック、本当にハート型だ。二人は息をのんだ。
ハートロックは思ったより大きかった。確かに岩礁に海水がたまっている。この時だけ雨が少し上がった。キャリーケースと傘を浜に置いて二人は写真を撮ったり、海水に落ちないように注意ながら周りを歩いたりした。その時辺りに誰もいなかった。ごほん、と和則は大げさに咳ばらいをひとつしてこずえの方を向いて言った。
「ハートロックで言おう、って決めてたんだけど」
「何?」
「結婚してほしんだ」
「えっ、」
「結婚、しよう」
「か、かずくん…うそ…信じられない」
こずえは一瞬ためらったが、彼の愛を受けた。それはとても自然なことだった。
「あ、ありがとうかずくん。私をもらってください」
こずえは笑顔を見せた。やったー! 和則は大喜びで
「ぼく、こずえがプロポーズOKしてくれたらハートロックに飛び込もうって決めてたんだ」
和則はどうやら本気らしい。こずえが彼の腕にしがみついて制止した。
「もうー、かずくん。阪神ファンじゃないんだから!!」
ハートロックは本当に愛の源泉、パワースポットだったらしい。
その後二人は大島紬村へ足を運んだ。現地のおじいさんの話を聞き、大島紬がいかにして製造されるかを勉強し、お土産に大島紬のおそろいのペンケースを買った。そこから観光バスに運賃箱を取り付けただけの路線バスに乗り、島の中心・名瀬へ向かった。
「ねえねえ、かずくん。名瀬って市の名前じゃないの?」
「うん、たしか以前は名瀬市ってあったけど合併したんだ。今は奄美市っていう」
「じゃ、奄美大島は全部奄美市なの?」
「いや、ばくも詳しく知らないけどそうでもないらしいんだ」
和則も自信なさそうだ。
名瀬の中心部についた。二人はバスを降り、もう一度海を見るために港を目指した。さっきまで止んでいた雨がまた降り始め、一段と強くなった。歩いているときに小学生の集団とすれ違い、子どもたちが一斉にあいさつしてくれた。二人もあいさつした。特に和則は大喜びで別の子どもたちの集団にまで手を振った。今度はその子たちも大喜びだった。和則は子どもが好きなんだ。こずえはわけもなく戦慄をおぼえた。
港から帰ってきて街の中心部で銀行に寄った。南日本銀行だという。鹿児島県の銀行だろうか? 二人ともそこでお金をおろした。そして今夜宿泊するホテルへと向かった。
ホテルの部屋でキャリケースを預け、二人は食事に出かけた。こずえが調べたよさそうな居酒屋がホテルから徒歩5分のところにある。さっそく行くと、空港のバス乗り場で一緒だった老夫婦が先に来てお酒を飲んでいた。
「お兄ちゃんたち、どこでこの店を知ったの?」
「ガイドブックで」
代わりにこずえが答えた。お酒で上気したおじいさんが陽気に言う。
「お姉ちゃんね、ここのお店はとにかくこの島一番なの。ここのママはひとりでこのお店やってんだけどさ、もう最高よ。たくさん飲んで帰んなさい」
「佐藤さん、ちょっと! あんたさあ」
ママは佐藤さんという老紳士に褒められて照れている。佐藤さんのほっそりした奥さんが横で笑っている。さっそく二人もママの千円の定食と黒糖焼酎を注文して水割りで乾杯した。
定食のメインは焼き魚と刺身だった。新鮮な島の魚はどちらもおいしかった。そのほかに煮物や野菜のおかずもあり、ご飯に味噌汁がついて充実した内容だった。味付けも申し分なかった。アルコールが入ると和則は饒舌になり、『今度結婚するんですよ、彼女プロポーズOKしてくれたんですよ』と自慢しだした。和則の全く意外な一面である。こずえのOKがよほどうれしかったんだろう。和則の黒糖焼酎のピッチが進む。佐藤老人も黒糖焼酎のロックを飲みながら『君らが頑張ってニッポンの少子化を何とかせねばならん』とぐだをまいた。
このやり取りに、こずえは背筋が寒くなった。
居酒屋からホテルまで歩いて帰る5分の道のり、こずえはいったい何を考えただろうか? 大好きなはずの和則、優しいはずの和則がその時は恐ろしく思えた。世間ではこれをもしかしたらマリッジブルーと呼ぶかもしれない。
部屋に帰るとテレビをつけた。シャワーを浴びることとなり、最初に和則が次にこずえが入ることとなった。
「かずくん、服はユニットバスの中で脱いでね」
こずえはお願いした。15分後、和則はシャワーを浴びて上がってきた。髪は濡れて身体から湯気が上がっていた。気持ちよさそうだった。
「やだ、かずくん裸のまま出てきたじゃない」
「大丈夫、ちゃんとパンツはいてるよ」
確かに和則は迷彩色のトランクスをはいている。
「あー気持ちよかった。こずえも入ってね」
和則は笑顔で言った。
「大丈夫、あっち向いているから」
屈託のない笑顔で言った。こずえは家から持ってきたパジャマと(ホテルなどで浴衣では寝ることの出来ないこずえである)替えの下着を持ってユニットバスに入った。
シャワーは悪くなかった。何といってもシャンプーとボディソープがいい。だが緊張して10分で出てきてしまった。和則はテレビを見ていた。こずえを見て、『あっ、こずえ。お帰り』とでも言いたげな顔だ。こずえは部屋のドライヤーで髪を乾かした。(実はこずえは髪が長い)
それからこずえは寝るまで何をしたかよく覚えていない。緊張していたのだろう。テレビを見ていたかおしゃべりをしていたかのどちらかだ。夜10時に寝ることにした。この部屋はセミダブルだ。『緊張するなぁ』和則がうれしそうに言った。
電気を消した。二人でベッドに入った。和則がややあって興奮しだした。
「ママー」
「か、かずくん」
こずえはドキッとした。
「ママー、ぼく弟か妹が欲しいなあ」
「ちょっといやだ、かずくん」
こずえは抵抗した。ママー、和則の悪ふざけは止まらない。そして、
「脱いで」
こずえの耳元でささやいた。こずえの我慢は早くも限界だ。
「ダメー、ダメなの。かずくんダメなの」
和則はびっくりして我に返った。こずえは泣き出した。すぐに号泣に変わった。
「できないの。何も。弟とか妹とか、子どもはできないの」
こずえは和則に涙ながらに事情を打ち明けた。
「か、葛城くん。本当に悪かった。申し訳ない。人をだますような子に育てた覚えはないのですが…どうかこの通りです」
こずえ宅の応接間。こずえの父、寺田哲雄が和則に謝罪した。母親の裕子も頭を下げた。こずえはうつむいている。
「だましたなんて…こずえさんはただ言えなかっただけです」
和則は遠慮がちに言った。『ごめんね』とこずえは泣き出した。
「こらっ、こずえ! こずえも頭を下げなさい。葛城くん、本当に申し訳ない。きみのような本当に立派なパートナーを得て、私も裕子も本当に安心しておったのですが…。こずえとの婚約はなかったことにさせていただきます」
「そんな…」
和則は絶句した。
「その代わりできる限りの誠意は示させていただきますから」
哲雄は再度和則に頭を下げた。こずえも泣きながら頭を下げた。和則は恐縮して、
「それは困ります、寺田さん。こずえさんは別にだましたのではありませんし…ねえ、こずえ。どうしてご両親に言ってくれなかったの?」
「そうよ、こずえ。そんな大事なこと私たち両親にどうして黙っていたの?」
裕子がこずえに問いただした。こずえは泣きながら言った。
「言えなかったの。言わないことがお父さんやお母さん、和則さんのためだと思ったの。ねえ、和則さんと二人だけで話させて。二人にして」
「じゃあ、部屋で話そう。おとうさん、おかあさんお願いします」
「うん、こずえ。ちゃんと葛城くんに説明し、謝罪するんだぞ」
哲雄が言った。こずえと和則は両親の許しを得て2階のこずえの部屋に上がった。
部屋はきちんと整頓され、よく掃除が行き届いていた。部屋に入って腰を下ろすと、こずえはほんの少し落ち着いた。和則は努めて優しく尋ねた。
「こずえ、何があったの? 奄美大島の旅行の前からきみは変だよ。ぼくは決して怒らないから理由を聞かせてほしい」
「理由ならあの時話したじゃない」
「あれか、産婦人科で検査を受けたら卵巣に大きな病気が見つかって子どもが産めないかもしれないっていう話だろう? でもどうしてそんな大切なことご両親に言わなかったの?」
「男のかずくんにはわからないわ、そんなこと」
「そりゃそうだ。でも、力になりたい」
「私…かずくんにプロポーズされてためらったけど本当にうれしかった。かずくんとはお付き合いしても結婚って考えたことはなかったから。だから、私がハートロックに飛び込みたかったくらいだった。でも、本当にかずくんと結婚してかずくんの子どもを作れないという現実がある。私だってかずくんが結婚相手ならやっぱり子どもは欲しい。でも、ダメなの」
「なら一生子どもは作らないでいよう。二人でいれればいい」
「ダメよ、かずくんはきっと子どもが欲しくなる。そしたらきっとほかの女の人のところへ行くわ」
「ぼくは行かない。約束する」
「男の人なんてどうせウソつきよ。それに私はかずくんより3歳も年上だからきっとかずくんも若い子に行くのよ」
ピシャッ!! 和則はこずえを思い切りビンタした。こずえは床にうつ伏せになった。
「ごめんね。…でも、こずえに断られてもぼくはまたプロポーズする。本当にOKしてもらえるまで何度でもプロポーズする」
こずえはハッとなった。和則にひどいことを言ってしまったと悟った。そして泣いた。
「かずくんごめんね! 私、一生かけて子どものこと、今のこと、償うから」
和則は静かに首を横に振って優しく言った。
「ぼくはどこへも行かない。ただこずえのそばにいる。愛してる」
1階の階段の上り口でこずえの両親がこのやり取りを息を殺して聞いていた。両親ももらい泣きだった。
「申し上げにくいことですが、あなたに子どもはあきらめた方がいいでしょう」
こずえの主治医・内藤医師はこずえの卵巣のMR写真を見ながらため息交じりに言った。話は前後するが、奄美大島へ発つ1週間前の診察の時である。
「そんな…、先生何とかならないのですか!?」
こずえは泣いた。悲しすぎる現実だ、とても受け入れられない。
「この状態じゃ手術しても手遅れでしょう。今はお薬で様子を見ることにして、これからも最善はつくします。また、三週間に一度受診してください」
「はい…。ありがとうございました」
こずえは診察室を後にしようとした。その時、内藤医師が呼び止めた。
「寺田さん。大変失礼ですが、あなたにもいずれお子さんを作るご予定なんかはあったのですか?」
なぜか和則の顔が浮かんだ。しかし、
「いいえ」
こずえは一礼もせず、診察室を後にした。
二度にわたる? プロポーズを経てこずえと和則は長い10連休のゴールデンウイークの前に正式に婚約した。平成31年4月30日、そう平成ラストの日に二人は都内の安いビジネスホテルのツインルームに泊まり、平成から令和に変わる瞬間を二人で過ごした。平成最後の夜はどこのチャンネルでも「平成残り〇時〇分」などといったテロップがあった。
令和元年の5月1日の午前0時0分にシャンパンを開け、乾杯した。二人とも楽しくて、幸せで仕方なかった。「令和は夫婦として!」が自然と二人のキャッチフレーズとなった。子どものことも忘れてしまった。
オールナイトして、3時間だけの睡眠をとって朝9時に起き、朝ご飯を食べて二人は丸の内のレストランへ向かった。ここで葛城家・寺田家両家初の顔合わせ会がある。こずえは和則の両親に会うのは初めてだ。令和最初の日という特別な日に彼の両親に顔を合わせるというめぐりあわせにこずえは不思議な縁を感じた。
正午に現地集合だ。時間前だがメンツはそろっていた。こずえの両親に和則の両親と弟。こずえの姉は現在身重のため今日は欠席だ。さっそく和則の父親に挨拶した。彼の父親は本当にダンディーな紳士だ。職場こそ違うが東京都の出先機関の課長なので和則の上司だという。母親の方は和服姿が似合う淑女だった。和則はどうやら母親似らしい。弟は和則とはまた趣が違うがさわやかな好男子だ。上智大学で英語を専攻している三回生だという。気慣れないスーツ姿がなんともフレッシュだ。こずえと和則もそれぞれの両親が用意したスーツに着替えることにした。
会は和食を楽しみながらの和やかなものとなった。昼食だったアルコールも少々入り、盛り上がりを見せた。ウエイトレスたちが次々と料理を運ぶ。
「いやぁ、何度見ても素敵な坊ちゃんですなあ。芸能人顔負けのルックスに一橋大学出身で都庁に勤めるエリートサラリーマン。願ってもない娘婿ですなあ」
こずえの父・寺田哲雄が冷えたビールを傾けながらうれしそうに話す。
「葛城くんのお父様お母様。この子には姉がいるんですけど、今日は申し訳ありません、妊娠中の今大事なときでして欠席とさせていただいております。でも、姉の理奈も今日ここへ来たかったと申しておりました」
母の裕子が言うと、和則の父・葛城隆と母・雅美がともに箸を動かしながら、
「それは残念ですなあ。お姉様にもお会いしたかったです」
「でも、元気な赤ちゃんを産んでもらわないとね」
と言った。しかしここで少し暗い空気になった。こずえのせいだ。
「葛城さん、こずえのことは本当に申し訳ありません。本人の病気、と言うことでして・・・」
何ともデリケートな話題だ。しかし、隆はこずえに向かって、
「こずえさん。その点ならご心配なく。この和則は本当にあなたをカバーしてくれると思います。父親の私が言うのもなんですが、優しい男の子です。思いやりがあります。それに決してうそをつかない子です。必ずや、こずえさんを幸せにすると私が約束します」
すると雅美も、
「そうそう。かずくんは本当に優しい子。人様の子をさらってきたのかしら、と思うこともありました。弟の友樹に勉強を教えてあげたり、一緒にゲームをしたら必ず勝たせてあげたり」
すると今まで黙っていた葛城友樹が、
「お母さん、兄ちゃんとゲームして勝ったのはぼくの実力だよ」
すると隆が、
「何を言う友樹。確かパワフルプロ野球をやるときは巨人とか強いチームを選ばせてもらっていただろう」
ドッと笑いが起きた。ここでメインディッシュだろうか、お造りの盛り合わせとしょう油の小皿が運ばれて来た。一同箸をつける。寺田さん、と隆が哲雄にビールを勧める。主人お酒弱いんで無理に勧めないでくださいね、と裕子が横で笑っている。
「でも、友樹さんもステキな男の子。和則さんとはまた違うけど、かっこいい」
こずえが友樹をほめた。友樹は照れてありがとうございます、と言った。
「でもね、こずえさん。ともくんにはガールフレンドはいないんです。あなたみたいなかわいい女の子、いないかしら」
母の雅美が言うと、和則が、
「こいつ、彼女欲しくてテニスサークル入ったんだけど、フラれた上にまた試合に出られなかったんだって」
と茶化して言った。友樹は怒って、
「兄ちゃん! 優しいんじゃないのか!!」
一堂明るい笑いに包まれた。
その後、こずえも和則も結婚の準備に忙しい日々を送った。新居探しに苦労したが、高田馬場にいい物件が見つかってそこにした。双方の親は同居はせず、二人で暮らさせたい、という願いがあった。こずえと和則は当面二人で暮らすことにした。
二人が見つけた物件は高田馬場駅から歩いて20分くらいのところにあるマンションだ。間取りは2Kだが、6畳(厳密には6畳より少し大きめだった。)の同じタイプの部屋が二つあることが決め手となってそこに決めた。こずえと和則のそれぞれが自分の部屋を持てたら、と思ったからである。あと、近くに安そうなスーパーがあったのも理由だった。二人は部屋を決めてから家電量販店や家具屋さんを回って電化製品や家具を揃えた。二人でお金を出したが、双方の親も援助してくれたし、和則が多めに出してくれた。
5月20日に二人は入籍した。こずえは和則の籍に入り、葛城こずえとなった。その日の晩、二人でワインで乾杯した。そして次の日、こずえも和則もそれぞれ結婚の挨拶をした。こずえの上司・山野課長もこのときばかりは喜んでくれた。
「寺田さん、このたびはおめでとう。結婚後も仕事は続けるんだって?」
「はい、引き続きお願いします」
「あと、結婚後のわが社での呼び方なんだけど…」
「はい、彼と同じ『葛城』でお願いします」
「わが社も今年度から旧姓の使用を認めたんだけどね」
「いいんです」
こずえはにっこりした。山野課長は黙って微笑んでうなずいた。
「実は昨日田中さんが訪ねて来てね。きみは荷物の仕分け中だった。彼女、元気な赤ちゃんを抱いていた。男の子だったそうだ。寺田さん・・・いや、葛城さんによろしく言っていたよ」
「ええ、センパイとは今でもLINEしてますから」
その後、荷物の仕分けの仕事に向かった。荷物の仕分けに『結婚休暇』はない。中村くんと村上さんがすでに現場で待っていた。
「寺田さん、ご結婚おめでとうございます」
「こずえちゃん、よかったのう」
二人からお祝いの言葉をもらった。中村くんから意外な言葉をもらった。
「ぼく、今週いっぱいでこのアルバイト辞めるんです。今日来て、あとあさってが最後の勤務になります」
「えっ、中村くんずいぶん急ね。何でまた?」
「ぼくももう4回生ですよ。将来の準備です。どういう道に進むかいろいろ考えたんですけど、結局公務員目指すことにしました。東京都庁です」
「へえ、すごいわね」
「寺田さんのだんなさんも都庁だって聞いてすごいなって思いました。あと、国家も一応受けます。落ちたらまた来年かなあ」
「今なら民間も入りやすそうななのに。ここの会社でも募集、あるかもよ」
「いえいえ。ぼくもはじめは銀行とか証券とかも考えました。でも、より多くの人にサービスできる仕事って何かな、って考えたときやっぱり公務員だって思ったんです」
「そっか。がんばってね」
中村くんはここで照れくさそうに少し目をそらしていった。
「ぼくは、寺田さんにあこがれていたのかもしれませんね」
こずえは中村くんをまっすぐ見て微笑んだ。
「うん。じゃ、始めよっか。村上さんもお願いします」
こずえは軍手をはめた。いつもと変わらない荷物の仕分けだ。パレットに荷物を満載したフォークリフトがやってくる。
翌6月。大阪で交番が襲撃され拳銃が奪われる事件が起きた。南海キャンディーズの山ちゃんと蒼井優が結婚した。だからでもないが二人は6月最後の日曜日に近親者のみで結婚式を執り行った。いわゆるジューンブライドだ。本人たち以外は双方の両親だけである。こずえの姉はその後お産のため入院していたし、和則の弟は結婚式の当日テニスの試合に出られることになり、欠席したのだ。親戚も誰も呼ばなかったし、結局式に参加したのは都合6人だけである。こずえも和則もそれで満足だった。いや、二人ともそれがよかったのだ。
いい結婚式だったと思った。少なくとも姉の式よりはよかった、とこずえは思う。あんな親戚だの会社の上司だの呼んで形式的にやるよりかははるかにいい。和則もおそらく同じ思いだろう(最もこの点についてはやや微妙で、和則は結婚式というものに行ったことがないらしい)。
晴れ着を着た和則は本当にいい男だった。黒いフロック・コートのようなタキシードだった。背が高くてスマートでスタイル抜群な和則にはぴったりだった。自分にはもったいないと思えた。でも、そんな和則がこずえの純白のウェディングドレス姿を見て何度もきれいだよ、って言ってくれた。本当にこの人と結ばれてよかったと思った。
式の後にちょっととしたパーティーをして仲間を呼んだ。親たちは帰ったが、双方の職場仲間、若干の学生時代からの友人も参加した。こずえの先輩であり、親友の田中映見も夫の竜司と生後6ヶ月の息子を連れてやってきた。
「こずえちゃん、おめでとう。やったじゃない!」
「うん、映見ちゃんのおかげ。本当にありがとう」
こずえと映見は言葉を交わした。脇で竜司が赤ちゃんを抱いている。
「こずえさん、本当におめでとうございます。ああ、蓮。泣くな、よしよし。おしっこもらしたか。こずえさん、ちょっと失礼します」
幸せいっぱいのはずのこずえだが、映見の子どもを見てちょっと悲しくなった。
パーティーは盛況だった。本当にたくさんの人からおめでとうと言われた。その一方で、またまた和則の同僚・成宮華子が宴席の一隅で主導権を握っていた。アルコールも入ってなおのことだ。ヒートアップしていた。しかし、和則におめでとうというのは忘れなかった。こずえに対しても忘れなかった。意外といい人なのかもしれない。しかし…、
「カズノリが所帯持ちになってよー、誰が言ったことか人生の墓場かもな。いや、やっぱりこずえちゃんは幸せ者だ。これから毎日こずえちゃんの爪の垢でも煎じて飲むよ」
アルコールのせいでぐだをまいた。周りは華子、やめろと制止した。こずえと和則は呆れて顔を見合わせて苦笑した。
パーティーが終わって家路についていよいよスタートなんだ、とこずえは思った。もともとゴールデンウイーク明けから一緒に暮らしてはいたが、これまではそれぞれの実家へ帰ることも多かったので、今日からが本当の始まりとなる。
そして本格的に二人の新婚生活が始まった。
遅い梅雨明けの後、酷暑の夏がやって来た。東京はオリンピックまであと一年を切った。
予想通りとは言え、二人の新婚生活は順調だった。こずえは山野課長の許しを得て5時半に仕事を上がらせてもらい、家に帰って手作りの夕食を作った。和則は仕事が終わると早く帰ってきた。そしてなるべく一緒に夕食を食べた。それはとても幸せなことだった。土日は和則が夕食を作った。意外や彼は料理のセンスもあり、おいしい食事を作ってくれた。掃除や洗濯は分担してやった。部屋の掃除と洗濯は各自、トイレと台所の掃除は和則、風呂掃除はこずえといった具合だ。
それぞれの部屋を持った二人だが、寝るときは決まってどちらかの部屋に行った。そして二人で寝た。手をつないだり、抱き合ったり。だが、アレはしなかった。(今から思うと和則はいわゆる性の処理をどうしていたのかはわからない)。いずれにせよ、二人は幸せだった。
休みになるとショッピングモールへ買い物に行ったり、家で本を読んだり、ギターを弾いたりした。普段の日もだが、コーヒーを飲みながらするおしゃべりは楽しくて話題が尽きなかった。
こずえは毎日が楽しくて仕方なかった。おそらく和則も同じであろう。
数ヶ月後。
交通事故だった。
わたしはあの日、その知らせを受けた時ことをはっきり覚えている。いや、はっきりではないかもしれない。だが、40代くらいの警察の担当者の低く、くぐもった声ははっきり覚えている。でも文言がはっきり思い出せない。いずれにせよ、わたしはその警察官に言われた。
「あなたのご主人が事故で亡くなりました。署まで来てください」と。
わたしは会社から帰り、夕食の準備をしていた。その日はカレーライスで、材料を煮込んでいるところだった。まだわたしがかずくんと付き合いだした頃に彼がわたしの実家に遊びに来てくれて、わたしの母親が作るカレーライスをわたしが手伝ったことを思い出していた。
警察からの電話を切って、わたしはまったく信じなかった。悪い冗談だ、と思った。今から思えば信じたくなかったという気持ちがそうさせたんだと思う。しかし電話の直後、彼の両親が家に来て、彼のお父さんがわたしの前で泣きながら『こずえさん、聞いただろう? 残念ながら和則が…』といった瞬間、わたしの目から涙が頬をつたった。
そこから警察までどうやって行ったんだろう? かずくんの両親と三人でタクシーに乗ったような気がする。確か黄色いタクシーだった。そんなことはどうだっていい。とにかく連れてこられたのは池袋警察署だった。どうして池袋? わたしは警察からの電話でどこの署に行くべきなのかは聞いていたはずなのに、そのときまでわからなかったのだ。
警察官に死体安置室へ連れられた。いわゆるご対面だった。かずくんは青白い顔をして眠っていた。外傷もあったのを覚えている。先に来ていた弟の友樹さんも泣いていた。わたしはかずくんの変わり果てた姿を見て崩れ落ちた。ここではじめて号泣した。信じられなかった。でも、かずくんの死は現実にそこにあった。当時わたしたちは毎朝一緒に家を出るのだが、その時まであった幸せが崩れ去ったことを知らされた。大声をあげて泣くわたしに彼のお父さんが優しく、そっと手を置いてくれた。でも、彼のお父さんもお母さんも泣いていた。その後、わたしの両親も来たはずだ。
犯人は62歳の会社員の男性だった。今年に入ってよく高齢者の運転する車が事故を起こすという話を聞いていたが、62歳ならまだ高齢者とは言えないし、その人はむしろゴールド免許を持つ熟練ドライバーだったという。ただ、現場は少し見通しの悪いカーブになっていて、時間も日没後だったから暗かった。11月にもなると日が暮れるのは早い。かずくんは黒っぽいスーツを着ていたから見つけにくかったのだ。あと、彼は横断歩道ではない道を無理に渡ろうとしていたらしい。つまり、かずくんにも非があったのだ。犯人の奥さんと長男という人がその後池袋警察署へ来てわたしに謝罪した。二人は保険でできる限りのことはします、と言いまず100万円の小切手をわたしにくれた。そんなことどうでもいい。わたしがほしいのはかずくんだけだ。
彼のお葬式は主に彼の両親が取り仕切った。いや、主にではない、すべてだ。わたしはただ泣くだけだった。今から思うとお葬式なんて本当に必要だったかどうかも疑わしい。だが、彼もわたしも若かったからそんな日が来るとは思っていなかったのだ。お葬式も過ぎて一人になった部屋でわたしは絶望にくれた。わたしの部屋の隣は主を失った部屋だ。でもあの日のままにしてある。脱いだ洗濯物も。充電を忘れたスマホも。
わたしはすべてを失った。
事件以降、わたしは眠れなくなった。夜になるとかずくんのいない一人の部屋で悶々とした。どんな悲しみも日にちがたてば薄らいでいくという。だが、かずくんを失ったわたしの悲しみはいっそう増幅された。まるで小さな音を拾っては大きな音に変える拡声器のように。社会はかずくんを失っても何事もなかったかのようにそこにある。朝になれば日が昇り、夕方には沈む。電車やバスはガタゴト走るし、人々は忙しそうに会社や学校へ行き、夜家路につく。かずくんって一体何だったんだろう? わたしは思った。
一週間の忌引き休暇もあっという間に終わり、会社に行かなればならなくなった。わたしはからっぽの心で出勤した。今から思うと当時出勤できたのはほとんど奇跡だ。周りはわたしをひどく心配した。それはわかっている。わたしは浮いた存在になっていた。
一方、主治医の内藤先生から軽い睡眠薬を処方された。でも効果はなかった。思い余ったわたしは与えられた睡眠薬を一度にすべて飲んだ。別に死ぬ気だったわけじゃない。でもぐっすり眠りたかった。その晩だけは眠れた。
まどろみの中、わたしは夢を見た。もちろんその時は夢とは知らない。わたしはかずくんに出会った。彼は紺のスーツ姿だった。都庁に勤めるヤングエグゼクティブのかずくんだ。わたしもスーツを着ていた。彼を見て、久しぶりにわたしははちきれんばかりに喜んだ。
「かずくん!!」
「こずえ、久しぶり!」
やがて彼はラフな格好に変わった。大学生のかずくん? わたしは思った。わたしはスーツのままだ。やがて、高校の制服のブレザーを着たかずくんに変わった。わたしは白いデニムのブラウスにブルージーン。このブラウス、短大の時来てたな。
これってひょっとして…。
わたしは思った。やっぱりそうだった。かずくんは今度は詰め襟の中学生の制服姿に変わった。わたしはその時高校の制服だ。やがてかずくんはランドセルになり、わたしはセーラー服の中学生になった。なぜかって? そりゃ、わたしがかずくんより3歳年上だからだ。当然彼はその後幼稚園児になり、赤ちゃんになった。わたしは彼よりタイムラグをもって小学生になり幼稚園児になり…。
やがて、赤ちゃんのかずくんが消えた。おそらく生まれる前に戻ったのだろう。消えてしまったことはわたしにとってショックだった。大声で「かずくん、行かないで!!」と叫び、その声で夢から目覚めてしまった。
目覚めたとき、わたしはぐっしょり寝汗をかいていた。でも眠いのと夢のショックでパジャマをすぐに脱ぐ気にはなれなかった。かずくん(それもわたしの知らない大学時代以前の彼も含めて)に久しぶりに出会えたのはちょっとうれしかったが、夢の中までも彼を失ったことにわたし私は顔を手で覆って泣いた。そして、あああ今日も会社か。わたしはただ、かずくんといたいだけなのに。わたしは仕方なくベッドから出た。
2,3日後、警察の担当者が来て改めて事故の概要が知らされた。防犯カメラの解析や犯人の車のドライブレコーダーの解析結果も教えてくれた。わたしには興味のないことだが聞いた。犯人はほぼ法定速度は守っており、危険な運転はしていなかった。ライトもハイビームになっており、かずくんを発見できなかったのはかずくんが黒っぽい服を着ていたことと、無理な横断をしたからだそうだ。犯人は飲酒もしておらず、アルコールも検出されなかった。(ここまで聞くとまるでかずくんが加害者のようにすら聞こえた)犯人はまじめなサラリーマンで会社では部長のポストにあり、奥さんと二人の子どもがいたという。起訴はされないようだが、会社は現在謹慎中だという。
その二日後に犯人とその奥さんと子ども二人がわたしの家に訪ねてきた。犯人の男性はわたしに土下座までした。やりすぎとも思ったが、誠実な人だった。わたしは犯人を許さなければならないという気持ちももったが、許せないという気持ちも自分の中で激しくぶつかった。保険金は近く保険会社からわたしの口座に振り込まれるという。
さらにそれから1週間、わたしはからっぽの心で会社に通った。そのころ、新宿区役所からわたしに電話があった。かずくんの上司の人だった。かずくんの私物を引き取りに来てほしい、と。あと若干、手続きのようなこともあるそうだ。どうでもいい、とは言えない。わたしは半日会社に有休を出して区役所へ行った。
窓口で声をかけると「少しお待ちください」と窓口の男性に言われた。すると今度は、若い女性が応対してくれた。メガネをかけたスーツ姿の女性だった。しばらくしてその人が成宮華子であることに気が付いた。
「この度は本当にご愁傷様です、奥様」
そう言って華子は深々と頭を下げた。あの飲み会や結婚式の二次会とはまったく違う華子だった。わたしも恐縮して頭を下げた。
わたしは華子に小会議室のようなところへ通された。ややあって華子がお茶を運んできた。美味しいお茶だった。
「課長の西村が参ります。お待ちくださいませ」
そう言って、また深々と頭を下げ、部屋を出て行った。
5分後課長の西村さんがやって来た。50歳くらいの瘦せて禿げた背の高い人だった。西村課長はまず、わたしにお悔やみを述べ、かずくんの私物を返した。紙袋にコップだの本だの今みたいな寒い季節に着るフリースだのが入っている。意外とものがあった。その後、いくつか書類に記入した。
「本当に我々も深いショックを受けています、奥様」
西村課長は悲しい目でわたしに言った。ありがとうございます、わたしは小さな声で言った。
「彼がなくなった時、役所でも大きなショックがありました。和則くんはいくつでしたっけ?」
「25歳になったばかりでした」
わたしは答えた。あらためて悲しくなった。
「そうでしたか…。いや、奥様もお若い。いや、うちの小村や成宮からも聞いていました。お二人がご結婚される前にみんなで楽しく飲まれたとか」
「ええ」
わたしはほんのちょっとだけ楽しく、懐かしくなって笑った。笑顔を見せたのなんでいつぶりだろう?
「今度奥様がお見えになったら奥様にお会いしたい、と成宮が申しておりました。彼女は子育て支援課なんですが…。何かありましたかな?」
そう言えばかずくんは税務課だった。課が違うのにわざわざ華子は来てくれたんだ。意外といい人なんだ。わたしはほんのちょっとうれしくなった。
「ただ一点、我々がどうしても解せないのは当日の彼の行動です。あの日和則くんは中野区役所に出張で3時にここを出ています。3時40分ごろ中野区役所に着き、用事はまあ20分程度、直帰ではなく、また新宿区役所に帰る予定でした。4時過ぎに私のところに電話連絡がありました。しかし、役所には戻て来ず池袋の事故、という結果になったのです」
それはわたしの知らない話だ。どうして池袋に?
「どうして池袋なんでしょう? 奥様、心当たりは…?」
「いえ、ありません」
わたしは正直に答えた。不思議な話だ。こちらが聞きたいくらいだ。
区役所に行った次の日、わたしの銀行口座に1億円を遥かに超えるお金が振り込まれた。事故の相手からの保険金だ。対人事故なので補償が手厚いのだ。さらにその後、かずくんの生命保険もおりた。
何せ彼の母方の叔母さんが大手生命保険会社の優秀なセールスレディらしく、その勧めでいい保険に入っていたそうだ。彼のことだから保険料損してもこずえのため、と思ってくれたのかもしれない。それに彼は若いのにたくさん貯金も持っていた。贅沢をあまりしない彼である。そんなところもあってわたしはかずくんと結婚したのだ。彼の遺産分けという話になり、葛城さんのご両親がわたしに多くを分けてくれたのだ。わたしは義理の両親に感謝した。
わたしの口座の残高は2億を超えた。
あの事故以来、わたしは鬱っぽかった。しかし、大金を手にして今度はなんだかハイになっていた。なんせ2億というこれまで考えたことのない金額だ。かずくんを思ってはうつになり、お金のことを考えては躁になる。わたしは相当不安定になっていた。だが、そこらへんの事情は医者でもない自分でもよくわからない。
わたしは引き続き産婦人科の内藤先生の診察をずっと受けていたが、そんな流れから先生に精神科の受診を勧められた。これはわたしにとって正直ショックだった。わたしはきっぱり断った。
「それは葛城さん、精神科を受診されている方に対して失礼でしょう。確かにあなたが精神科の受診を勧められてショックを受けるのもわかる気がします。しかし、これはあくまで治療の一環です。あなたがおっしゃっているのは明らかに精神疾患です。精神科の薬をもって治療すべきご病気です」
「そうはおっしゃっても…。精神科なんて行きたくありません」
「葛城さん、私の知り合いにいい精神科医がいます。私と同じ年くらいで女性の医師です。きっとあなたとなら合うと思います。悪いことは言いません。では、彼女に紹介状を書いておきますので、ぜひ受診してください」
わたしは内藤先生に強引に押し切られてしまった。
内藤先生がわたしに紹介してくれたのは内藤先生の勤務する大病院の近くで小さなクリニックを営む秋山順子先生という精神科医だった。わたしはいやながらも秋山先生のクリニックへ行った。受付を済ませ、待つこと1時間。わたしの番が来た。わたしは診察室へ入った。
「やっぱり、そんな顔してくると思った」
秋山順子先生ははじめましても言う前にわたしにそう言った。
「へっ?」
わたしは診察室の入り口で困惑した。しばらく先生の顔を見て佇んだ。
「掛けて。…ええっと、葛城さん。初めまして。秋山です」
秋山先生はにっこりした。わたしもあわてて会釈した。
「精神科に喜んでくる人なんていないわよね」
「えっ、そんな…」
わたしはまた困惑した。先生は快活に
「無理しなくていいの。みんなそうだから」
と言った。そして続けて、
「さあ、始めましょう。内藤先生からの紹介状、拝見したわ」
といって笑顔を見せた。
それから約30分間、わたしと先生の丁々発止のやり取りが続いた。もちろん事故でかずくんをなくしたことも話した。そのことに秋山先生は強く感銘を受けたようだった。
「そう、そうだったの…。でもあなたには悪いんだけど、これではっきりしたことがある。サトシが私と仕事でやり直したいって思っていることよ」
「サトシ?!」
わたしは何のことかさっぱりわからず声を上げた。
「ハハ、ごめんなさい。あなたにはわからないわね。サトシっていうのは内藤先生のことよ。内藤聡さんていうの、先生。私たちは医大生時代の同期でずっと交際していた。でも…、私の親に別れさせられたのよ」
「そ、そうだったんですね」
わたしはショックを受けた。
「ごめんなさい。私の身の上話なんてここでするべきではないわね。それはわかっている。私が医者なのにね。でも、葛城さんに私の病気を治すつもりで聞いてほしいの。なるべく手短に話すから聞いてね」
そう言って秋山先生は語り始めた。
私が聡と知り合ったのは大学に入ったときのこと。私たちは東京のある医科大学だったんだけど、もともと私の両親は多摩の方にある精神科クリニックを経営していて、一人娘だった私は跡を継ぐことを期待されていた。聡は地方から出てきた田舎者だったんだけど、彼も開業医の息子で跡を継ぐことを期待されていたみたい。彼の病院は産婦人科だったの。今思えばこれが悲劇の始まりね。
私は必死で勉強して現役で医学部に入ったんだけど、聡は二浪していた。だから私は大学の勉強よりもテニスサークルやアルバイトに夢中だったけど、彼はもう後がないってまじめに勉強してたなあ。そんな私たちがキャンパスで出会って、彼の年上でおっとりしたところにひかれたの。自然と交際に発展した。今の若い人はむしろ恋愛に関心がない人もいる、って聞くけど私が学生の頃は違ったなあ。わたしもうすぐ39歳だけど、私の頃はボーイフレンドを持つことは女の子のあこがれだったような気がする。
私たち、本当に多くの時間を共有したなあ。私は自宅生だったけど、彼は地方出身で下宿だったからよく彼の下宿に遊びに行った。そんなわけで、男女が普通にすることは何でもやったわ。まあ、ご想像にお任せだけど。(笑)そして、二人で夢を語り合ったの。いつか精神科の機能も備えたレディースクリニックを二人でやろう、って。今は少子化だから産科のニーズは少ない、でも女性の様々な病気に二人で対応できるようなクリニックを、って思ったの私たち。もうワクワクしたなあ。そして意識したの。この人と結婚するんだ、って。
でもそんな話、双方の親は猛反対よ。どちらの親も自分の子どもに病院を継いでほしかったからね。聡には弟さんがいたから弟に継いでもらえばいいけど、私はそうもいかない。何で産婦人科の息子なんか連れてくるんだ、って私のお父さんは怒っちゃって。私たち大ゲンカ。こずえさんもわかると思うけど、精神科は長く通院するのが普通なのよ。そこが内科なんかとは違う。だから長く顧客、つまり患者を診なきゃいけないの。だから私の両親はきっとどうしても後継者が欲しかったのね。そんな私が、両親に盾ついて早い話が勘当されたのよ。
私は今このクリニックをやっているけど、でも、ここも両親の病院の分院っていう形で、つまり両親にお金を出してもらって開業したの。だから両親には逆らえない。私もここを出たら行くところがない。結局、聡とは泣く泣く別れて、私自身結婚はしなかった。両親が勧めてくれる相手もいたけどね、聡を忘れることができなかったの。聡はその後、違う人と結婚したって聞いたわ。でもたぶんだけど、郷里へ帰らず、この近くの大病院で勤務してるっていうのは私への未練だと思うの。決してうぬぼれじゃなくて。今までずっと、私に遠慮してたんだと思うけど、今になってちょっと私にアクセスしてみたくなったのかもね。
こずえさん、あきらめないで。あなたにはまた幸せが訪れると思うの。まだ若いしね。私だって人生何もあきらめていない。結婚もしたいし、やり残したことはいっぱいある。お互い、頑張りましょう。
わたしはこの話を面白く聞いた。そして秋山先生には失礼かもしれないが、すがすがしい気持ちにもなった。そしてクリニックを後にした。
次の内藤先生の診察の時、先生の方から切り出した。
「順子は、どう言っていましたか?」
わたしは、そのときの診察の話をした。内藤先生は苦悩の色を浮かべながら、
「私は順子を裏切りました。彼女を守ってやれなかった。私は見下げ果てた人間です」
内藤先生は頭を掻きむしった。わたしは先生をたしなめた。
「秋山先生は、内藤先生を恨んだりはしていません」
「ありがとうございます。でも、あなたのご主人さんならどうしたでしょう? あなたと結婚できなかったからと言ってすぐに違う女性に走るでしょうか? 愛ひとすじに生きられたのではないでしょうか? 私はひとすじに生きられなかった。なのに、彼女の近くで勤務医をし、彼女への未練の中で生きている…」
内藤先生は別に悪くない。ただ、言えることはかずくんは本当に私への愛に生きてくれたということだ。
数ヶ月後。
その後、内藤先生への通院は終了となった。また何かあればいつでもいらしてください、先生はおっしゃった。そのとき先生はいつもの姿だった。あの秋山先生とのことを告白したときの苦悩はなかった。白衣の似合う端正な内藤先生だった。一方、秋山先生の精神科への通院は別に続行となった。
日々悲しみが少しずつ薄らいでいくような気がした。いや、気がしただけで実際には違うかもしれない。わたしは常にもがきながら、何かと闘いながら生きていた。それが29歳のわたしの姿だ。
わたしはこの頃よく夢を見る。ある夢ではわたしはボクサーだった。グラブをはめてリングに立っていた。『赤コーナー、○○パウンド、葛城こずぅえぇぇ!!』司会者が大げさにわたしをコールした。青コーナー…わたしは息をのんだ。山のような巨大なボクサーだった。男か女かも分からない。ヘビー級?! 殺される! わたしは思った。逃げ出そうとしたその時、ゴングが鳴った。相手が猛突進してくる。やめて! わたしは逃げた。そしてあっという間にコーナーへ追い詰められた。パンチの雨!! わたしは崩れ去った。意識を失って逆に目が覚めた。
また別の夢。わたしはフリフリの衣装を着てステージに立っていた。スポットライトがわたしをめがけている。客席には超満員のファンだ。『こずえLOVE』『こずえちゃん♡』と書かれた多くの団扇。七色のペンライト。体を激しく振っている男の子たち。ヲタ芸?!
わたしがアイドル?! 29にもなって?! その時イントロが流れた。そんな歌わたし知らない。歌えない。でも、客席の盛り上がりは最高潮だ。
「ごめんなさい」
わたしは頭をさげた。客席から激しい怒号がおきる。物が飛んできた。ビール瓶がわたしの頭に当たって夢から覚めた。
他にもピアニストになってまったく弾けず(わたしはギターをほとんど弾けないがピアノはそれ以上に弾けない)、観客にトマトをぶつけられたり、女流棋士になって王将以下持ち駒を全部取られて負けたり(わたしは将棋のルールを知らない)、保育園の先生になって受け持ちの子ども全員を泣かして学級崩壊させたり(私は保育士の資格を持っていない)、とひどい夢ばかりだった。わたしは仕事とかずくんを失った悲しみとそして日々の悪夢を戦い続けた。
そんな折だった。わたしがおばあさんに出会ったのは。
9月に入って少し暑さが和らいできたころだった。その日は土曜日で、仕事は休みだった。わたしは珍しくひとりで公園を散歩していた。自分を変えてみたかったのだが、やめた方がよかったかな、そんな逡巡がわたしの中にあった。
「毎晩つらいじゃろう? 悪夢にうなされるのは」
老女の声にドキッとした。でも自分のことではない、とも思った。
「あんたじゃよ、お姉ちゃん。そこの背の高いお姉ちゃん」
わたしはそこで振り向いた。杖をついた、小柄な腰の曲がったおばあさんが立っていた。紫色の服を着ている。一見、スーパーで売られているような普通の服だ。
「おばあさん…」
「楽じゃないねえ、ボクシングやったり、アイドル歌手になったりするのは。あたしゃボクシングなんか嫌いだよ。なんてったって殴り合いなんてねえ」
「どうして?!」
わたしは絶句した。このおばあさん、何でも知ってる!
「あんただって、スマートフォンくらい持っているじゃろ? なかったら普通の電話でもいいがね。スマートフォンがあればいつでもどこでも遠くの人と話ができるじゃろ? 遠くの様子が知れるじゃろ? たとえて言えばそれとまあ、おんなじじゃ。この婆のはいわば魔法のスマートフォンじゃ」
言ってることは間違いではないと思うけど、だんだん胡散臭くなってきた。わたしは立ち去ろうとした。
「待ちな! お姉ちゃん可哀想に、かずくんをなくしてな。いい旦那さんだったのに」
わたしはいやでも立ち止まった。かずくん!! どうしてそんなことまで!
「交通事故か。気の毒にな。この婆なら会わせてやるぞ、かずくんに。会いたくないか?」
胡散臭い、それはわかっていた。でも、かずくんなら会いたい! 会えるならなんだってする! わたしは一縷の望みをこのおばあさんに託すことにした。
「どうやったら、会えるんですか?」
おばあさんはニッと笑って、
「それゃ、できるさ。この婆なら。でもあんた、人にものを頼むんならそれなりの志も必要じゃろ? タダではできんよ」
お金?! わたしは必死になって聞いた。
「払います。お金で済むなら何とかします」
「あんた2億持っているねぇ。お姉ちゃん、それがあれば1日だけ会わせてあげる。大好きなかずくんに。会いたいじゃろ?」
2億、よく知っている!! さすがだ。でもそのお金は困る! わたしは困惑した。
「あたしゃ知ってるよ。あんたが持ってること。払えるじゃろ? 会いたくないかい、大好きなかずくんに」
それはもう会いたいに決まっている。この不思議なおばあさんならできるかもしれない。何でも知っているから。初対面なのに。
「いやならいいよ。他を当たるから」
おばあさんは立ち去ろうとした。そのとき、
「こずえ!」
かずくんの声がしたような気がした。本当にした。やはり迷ったが、2億円より1日でいいからかずくんに会いたい!! わたしは思わず、
「おばあさん、待ってください。お金なら出します。かずくんに会わせてください」
おばあさんはまたニッと笑って、
「賢い子だねえ。かずくんに会えるよ。でも、お金は払ってもらうよ」
じゃあどうやって…?
「今からあたしの銀行口座をあんたの脳ミソにアップロードする。大丈夫、あんたはそれを絶対忘れないよ。次の末尾が1の日の午前8時にかずくんは訪ねてくる。お姉ちゃんの家にな。呼鈴が鳴るから、必ず鳴るから鳴ったら20秒以内に出るんじゃ。それを過ぎるともうダメじゃよ。そして13時間たって午後9時に彼は去って行く。いいかい、約束は必ず守るんじゃ。2億円、ちゃんと振り込むのじゃよ。そして時間を守ってな」
へっ? 末尾が1の日、何?? わたしは思った。
「銀行で振り込むときは不動産の購入って言えば大丈夫だよ。大丈夫、かずくんは必ず来るからね。じゃ」
そう言っておばあさんは背を向けた。わたしはしばらくきょとんとしていた。待って! もう一度確認しようとしたとき、おばあさんはもういなかった。そのとき『○○銀行 ××支店 普通預金 013・・・ サントウエツ』というイメージがわたしの頭の中に流れてきた。おばあさんの銀行口座だ。
わたしが、死んだかずくんに会える?!
おばあさんは確か次の末尾が1の日と言った。今日が2020年9月5日土曜日だから11日の木曜日ということになる。その日の朝8時、かずくんがこの家に訪ねてくる。そして夜の9時に去って行く…真剣に考えてみた。そして、わたしは大声で笑った。そんなわけないじゃん。
でも、わたしはかずくんを求めていた。ひたすら彼に会いたかった。その気持ちを抑えることができなかった。彼のいない人生にお金なんて持っていても意味がないのでは、と思う。そして、2億手放せば彼に会える! 会いたい! かずくんをとるか2億をとるか。しかし、あのおばあさんはなんか怪しい。それにお金もやっぱり惜しい。わたしはジギルとハイドになった。
6日日曜日。わたしは家で悶々と過ごした。
7日月曜日。わたしは会社で悶々と過ごした。
8日火曜日、わたしは悶々としお金はまだ振り込んでいなかった。迷っていた。死んだ人に会えるはずがない。でもどうしても会いたい。あのおばあさんはすごい人だ。でもやっぱり胡散臭い。
9日の晩、夢におばあさんが出てきた。あの時と同じ紫色の服、それに杖。わたしはビックリした。
「こずえちゃん、かずくんに会いたくないのかい? お金を振り込みな。口座番号は言ったろう?!」
目が覚めてわたしは思った。新手の振り込め詐欺だと。わたしはベッドの上で苦笑した。
10日は五十日だ。わたしたちのような運送会社は忙しい。しかし、来るはずの荷物が道が混んでいたらしく時間通りに来なかったのだ。そのためわたしは特別長い休憩時間をもらった。真っ先に考えたのが銀行に振り込みに行ける、ということだ。最近銀行も合理化で支店の統廃合が進んでいる。わたしの会社の近くの支店もなくなった。少し遠くに行かなければならない。でも、その長い休みがあれば行くことができる。でもやめとこう、ばかばかしい。そう思った瞬間頭の中におばあさんの口座番号がダウンロードされた。あのおばあさん、相当強欲らしい。あるいは相当わたしのことを思ってくれているのだろう。
銀行へ行った。2億なんてお金はATMで振り込めない。窓口でないとダメだ。番号カードをとって順番を待った。待つこと5分、わたしの番だ。わたしは振り込む旨を窓口の銀行員に告げた。さっそく用紙を書いた。
「大きな金額ですが…。お振込みの目的は何でしょうか?」
わたしは一瞬頭の中が真っ白になった。しかし、すぐにおばあさんの言葉を思い出した。
「不動産の購入です」
「かしこまりました。かけてお待ちください」
そしてその銀行員は意外な一言を付け加えた。
「山東様にはいつもごひいきにしていただいたおります」
山東とはおばあさんの名前だ。おばあさん、信用のある人らしい。わたしはいよいよわからなくなった。やがて振り込みの事務処理は終わった。伝票を受け取り、会社へ戻った。
これで明日かずくんに会える。会える?! 私は思う。うそみたいだ。彼は死んだ。でもわたしはお金を払った。振込票だってちゃんとある。一人の夕飯を食べ、風呂に入り、床についても考えはそのことばかりだ。当然その晩を寝付けなかった。10時前にベッドに入ったが、なかなか寝付けない。最後に時計を見たのが午前2時過ぎだった。
目が覚めたら7時40分だった。危なかった! 寝坊しかけるところだった。わたしは慌てて顔を洗い、着替えて簡単な朝ご飯を食べた。そして午前7時59分。キッチンのテーブルで必死になって祈った。
おばあさんの言うことが本当なら彼は来る。絶対来る。ああ、神様…
マンションの一室で手を合わせた。
壁にかけている赤い時計の秒針が10のところを回った。あと10秒! 本当に来るのかしら。
こずえは一心に祈った。…3、2、…神様…
そして…。
ピンポーン!
呼鈴が鳴った! はーい。わたしはすぐに出た。確か20秒以内に出ないとダメだったはずだ。ドアを開けると…かずくんだ。かずくんが立っていた!!
「おはよう、こずえ」
かずくんはにっこりした。わたしは信じられなかった。そしてうれしかった。かずくんに会えた!!
「かずくん!」
わたしは彼に抱き着いた。かずくんのにおいが確かにした。抱き合ったときの背の感じ。まさに本物のかずくんだ。間違いない。
…2億円、安かった!!
「さあ、入って。ここはかずくんの家だよ」
私は彼を家の中へ招き入れた。その時気づいたのが彼の服装だ。かずくんは真っ赤なTシャツにブルージーンを履いていた。それにコロナ禍の今らしくちゃんとマスクをしている。(死んだときはそんなのなかったのに)一方、ジーンズと靴は確かに彼のものだ。しかし、Tシャツは見たことのないものだった。左胸に黄色い字でKと書かれている。
「かずくん、そのTシャツ…?」
「ああ、これ? おしゃれだろう?! 買ったんだ」
彼が事故で死んだとき彼は黒のスーツ姿だったという。だから今日この家に帰って来るならばその服で来るのが普通だ。それが見たことのないTシャツ。不思議な話だ。
「不思議なことないよ、こずえ。このKは和則のK、葛城のK」
かずくんが不思議に思っている私の心を見透かすかのように言った。
「そしてこずえのK?」
わたしは冗談っぽく尋ねた。
「もちろん!」
かずくんは快活に答えた。そしてマンションの部屋の中を見渡していった。
「もう~、こずえ。十分掃除してないだろう。まずは掃除だ」
「ごめんね! 今日かずくんが帰って来ると思うと何も手につかなくて」
わたしは朝ごはんの片付けすらしていなかった。寝坊して時間がなかったせいだ。さっそく二人で手分けして家の掃除をした。めいめいの部屋に、かずくんが台所とトイレ、わたしがお風呂。掃除に先駆けてわたしが洗濯機を回した。わたしはお風呂の掃除をしながら思った。かずくんといられる時間は13時間しかない。時間のムダをしてしまった。でも彼と協力して家の掃除をするも楽しいことだった。1時間ちょっとかかって掃除と洗濯が済んだ。
今日は有休を出していた。さっそく二人で近くの公園へ散歩に行った。天気は良く晴れて秋晴れだ。暑いくらいだが、時折吹く秋風がさわやかで気持ちいい。こんなときに大好きなかずくんとデートなんでもう素晴らしすぎる。9月らしく公園の一隅に東京でも赤とんぼが飛んでいた。
「きれいだね」
「うん」
この息の合った感じ。まさにかずくんとわたしだ。
公園のベンチに座って私が買ったミネラルウォーターをマスクを外して飲んだ。うれしくて涙が出そうだ。
「ねえ、かずくん」
私は思い切って尋ねた。
「何?」
「今までどこに行っていたの?」
「ぼく? ぼくは…こずえと一緒にいたよ」
「うそよ。かずくんは…死んだ、いや、いなかった」
「いや…ぼくはいたよ。ずっと一緒さ」
「わたし今まで寂しかった」
「そんなことはないよ」
これでは堂々巡りだ。気まずくなってしまった。しかし、かずくんは明るく
「こずえ、今から丸の内まで行こう。美味しいフランス料理の店を紹介するよ」
二人で山手線で東京駅に向かった。
丸の内の地下街にその店はあった。フランス料理のランチコースが4000円。丸の内にしてはかなり安い。だが、かずくんの話では雑誌やテレビで取り上げられたことも多い店らしい。なるほど、外見はなかなかフランス風でこじゃれた店だ。かずくんが言った。
「予約していた葛城ですが」
えっ、予約?!
「葛城様ですね。お待ち申し上げておりました。さあ、中へどうぞ。お連れ様も」
シックな内装の店だ。コースのメインは肉か魚から選べる。肉は米沢牛のフィレ・ステーキだというのでそれにしたらかずくんもそれにした。私は彼と同じだったからちょっと幸せな気持ちになった。
前菜は2種、秋茄子など季節のものと鶏肉を使った料理だった。私たちはそれぞれグラスワインを注文した。やがてメインのステーキが来た。なかなか大きなステーキだ。食べ応えがある。前菜もメインもどちらもおいしかった。
「デザートがあるよ、こずえ」
ボリューム満点のコースだ。締めのドリンクは揃ってアイスコーヒーだったのでまた幸せな気分になった。デザートのバニラアイスとチョコレートケーキをおいしくいただき、大満足で食事を終えた。お腹いっぱいではちきれそうだ。
「今日はぼくが払うよ」
そう言ってかずくんはレジで財布からクレジットカードを取り出し、渡した。あれっ、とわたしは思った。死んだ人のクレジットカード? 疑問に思いながらとりあえずわたしはごちそうさま、と言った。
その後、二人で丸善に本を買いに行った。かずくんは本が好きだった。小説も読むし、経済や法律の専門書も読む。1時間近くとても大きな本屋をうろうろしただろうか。経済書のコーナーでかずくんが立ち止まった。
「あった、これだ。探していた数理経済!!」
そう言ってたくさんある中から一冊の分厚い本を手に取った。数理経済学講義、と書かれている。税込み5500円もする高い本だ。
「この本はね、京大の先生が書いた本なんだ。この分野では京大の方がうちの大学より優れている。数式からグラフからみんな数理経済の理論が載っているんだ。やったー! いい買い物だ。こずえのおかげだ。ありがとう」
そう言ってかずくんはさっそく本をレジに持って行った。ナントカ経済みたいな小難しい本で勉強するかずくんがおもちゃを買ってもらった子どものように喜んでいる。でもわたしは思う。かずくんがこの世にいられるのは今日の9時までだけ。いつあの本を読むんだろう?
わたしは時計を見た。もうすぐ午後2時だ。あと7時間しかない。あと7時間でかずくんとお別れだ。私は背筋が寒くなった。今日彼に出会ってはじめて彼との別れを考えた。
「か、かずくんわたしも本買うね。もう一回小説のコーナーに行こう」
わたしはそこで迷った末に藤沢周平の時代小説を一冊買い、かずくんにお願いした。
「ねえ、かずくんここにサインして。書くものはわたし持っているから」
「えっ、ぼくが?ぼくが書いた本じゃないけど」
「いいの、さあ」
かずくんはサインしてくれた。
『大好きなこずえへ これからもよろしく 2020.9.11』
これからもよろしく?! わたしはうれしいというより悲しくて涙が出そうになった。いや、涙が出た。もう、会えなくなるのに?!
「どうしたの、こずえ?悲しそうな顔をして? 行こう。次は浅草寺へお参りに行こう」
彼はそっとわたしの涙をぬぐってくれた。そして丸善を出た。
地下鉄を乗り継いでわたしたちは浅草へやって来た。駅から浅草寺は近い。お寺の周りはコロナのせいでさほど賑わっていない。写真を撮ったりしていたのでわたしたちもわたしのスマホで二人の写真を撮ってもらった。かずくんが近くの男子高校生にお願いしてシャッターを押してもらった。この写真、一生の財産にしよう。
お線香をそれぞれ100円で買い、火をつけてもらった。煙を浴びたらご利益があるかもしれない。それから二人で、お賽銭を投げてお参りだ。わたしは一心にかずくんといられますように、と祈った。
「かずくんは何をお願いしたの?」
後でわたしは尋ねた。
「へへっ、こずえの幸せだよ」
だったらわたしといられますように、って祈ればいいのに。かずくんの意地悪。わたしは思った。それから喉が渇いたので近くのカフェに入った。昼になって暑くなってきた。カフェはよく冷房が効いている。わたしはアイスレモンティーをかずくんはアイスカフェラテを頼んだ。飲みながらさまざまな話題に話が弾んだ。楽しいひと時だった。時計は3時半を指している。またしてもわたしは焦った。
「ねえ、かずくん」
わたしは意を決して尋ねた。
「何?」
「どうしてあの日、池袋に行ったの?」
かずくんの顔色が変わった。
「それは…、よくわからないんだ。ごめん」
彼は急に苦しそうな顔をした。そして何度も咳をしてむせた。
「もういいわ。かずくん、わたしの方こそごめんなさい」
またしても核心には触れられなかった。
それから電車に乗って高田馬場まで帰ってきた。スーパーで買い物をした。最後? の夕食は家で作って食べよう、と決めたのである。鮭とキャベツ、もやし、豚肉、豆腐などを買った。
鮭は焼いて、キャベツ、もやし、豚肉で炒め物、豆腐と家にあった乾燥わかめでみそ汁を作った。二人で共同作業だ。だが、わたしは本当言うとつらくて仕方なかった。あと数時間でこの夢から解放される…。
かずくんの焼いた鮭はいい焼き加減、塩加減だった。彼のみそ汁もおいしい。わたしの野菜炒めはちょっと薄味だったかな? でもかずくんはおいしいとほめてくれた。食べてからもわたしたちはおしゃべりをした。
「お風呂に入って」
台所の片付けも済んだ午後7時、かずくんは言った。そんなの時間のムダ、わたしは思ったが彼は許さなかった。仕方なくわたしはお風呂に入った。わたしが出てから彼は入らなかった。
もともと夜はあまり二人でテレビを見ず、おしゃべりして過ごすことの多かったわたしたちだがこの夜もやはりそうだった。そして午後8時45分、ベッドに入って、と彼が言った。
「寝る前のお薬を飲んで。そろそろぼくは行かなければならない」
彼は去って行く気だ! いやよ!! わたしはもう悲しくて泣き喚いた。
「いや! そんなのいや!! かずくん行かないで!!!」
「ダメだ。きみは約束したんだ。約束は守らなければならないんだ」
「そんな約束、どうだっていい。かずくんの方が大事よ!」
「ダメだ。早くお薬を飲むんだ。ぼくは行くんだ」
「なら連れて行って! どんなひどいところでもかずくんとなら一緒に行きたい!!」
「この分からず屋!!」
彼は本気で怒った。そして水の入ったコップを持ってきた。
「睡眠薬もでているんだろう?」
彼は優しく尋ねた。どうしてそんなことを知っているの?! 彼はお見通しだった。そしておそらくこれが最後だからだ。もはや抵抗はムダのようだ。わたしは薬を飲んだ。急に眠気が襲ってきた。いつもの何十倍もだ。
「かずくん、わ、わたしあいしてる。ほんと・・・」
「ごめんね、こずえ。どこへ行ってもきみのこと忘れない。・・・またね」
そこまでは何とか覚えている。あとは曖昧だ。彼が電気を消して、玄関のドアが閉まって…。
目が覚めたら次の朝だった。
「もちろん、和則のカード類、銀行口座、保険そのほかすべてあの子がなくなってから閉鎖しています。あの子が残した遺産はあなたにもお分けしたはずです。それが何か?」
電話でかずくんの父・隆さんが怪訝な声で言った。わかりました、それもそうですよね、とそそくさわたしは電話を切った。
和則があのデートのランチの時、クレジットカードを使ったのが気になったのだ。でもそんなものいつまでも置いておくべきではないだろう。本来ならわたしが後始末をするべきところである。わたしはあのころ泣くばかりで何もできなかった。彼の両親には感謝しなければならない。
明くる朝目が覚めた時、わたしはひとりでベッドに入っていた。玄関はかぎがかかっていた。だが、チェーンロックはかかっていなかった。どうやらかずくんはかぎも持っていたらしい。しかし、彼はどこからきてどこへ去って行ったのだろう?
しかし、わたしは思う。わたしはひとりじゃない。かずくんと一緒だ。彼に守られ、彼の庇護を受けてこれからも季節を渡っていくのだ。実際、彼の部屋にはあの時買った数理経済学の本が主を待っている。
彼も言っていた。ずっとこずえと一緒だよ、って。
むすび
約1年後。こずえは30歳になった。
この年にもなれば人生の見方も変わる、本当にこずえはそう思う。人生がより深化し、自分のものになったと思う。女一人、どう生きて行こう? 徐々にその答えが見えてきた。いや、これから時間をかけてもっとその答えを求めていくべきなんだろう。
30歳の誕生日の夜、こずえは詩を書いた。そんな習慣は特にないが、何となく書きたくなったのだ。
未来
何も得てはこなかった
彼すら失い続けて今がある
愚かなのに 無知なのに
自分だけは違う そんな迷信の中で生きてきた
幾度と知れず来ぬ人を待ち続けた
30歳、女一人
自分に希望はあるか
自分に未来はあるか
妄想のさなかにいる自分に
慈しみを感じながら
聞きなれない人生の次のステージに手を伸ばす
しかし、最近のこずえにはうれしいニュースが2つ、いや3つある。
一つは精神科の秋山先生の治療が完了したことだ。もう大丈夫、太鼓判を押された。内藤先生の時と同様また何かあればいらしてください、と言われた。あと、秋山先生も新しいパートナーが見つかり、ご結婚されるそうだ。
内藤先生と言えば、こずえは久しぶりに検査を受けてみた。なんとなくいい結果が出る気がしたのだ。思った通りだった。
「お久しぶりです、葛城さん。・・・あなたの卵巣は、いや子宮もだな、まったく正常です。完全に治っていますよ。信じられない、奇跡だ。あなた十分赤ちゃん産めますよ」
とてもいい話だ。でも、パートナーがいないんです。こずえはいたずらっぽく笑った。
あと、会社の近くの道を歩いていると懐かしい声に呼び止められた。
「こずえちゃん、こずえちゃん」
「あら、村上さん。確かこの春に退職されて…」
一緒に荷物の仕分けをしていたお年寄りの村上さんだった。
「こずえちゃんに話があるから近くまでやって来たんじゃ。根が入る話でのう。どうじゃ、ちょっとだけ時間をとってくれんか?」
こずえは1時間だけ有休を出して近くの甘党の店に入った。そこで、
「あんみつを二つ」
村上さんは席に着くと早速注文した。
「姉が先月亡くなってねえ」
「まあ、そうですか」
「死んだ人の悪口なんか言うもんじゃないが、まあほんと、意地汚いばあさんじゃった。知っておるじゃろう、こずえちゃん? 山東エツというばあさんを?」
こずえはとても驚いた。
「それって、あの紫色の服を着た?」
「そうじゃ、魔力を使って死んだ旦那さんと引き合わせたばあさんじゃ。不思議な力を持ったばあさんでな、あちこちで魔力を使い、あくどい金儲けをしていた。わしらは5人兄弟でな、ばあさんが3番目、わしが4番目じゃった。兄が2人いたがもう亡くなっている。末の妹は若くしてがんで亡くなった。わしらだけが残った。ばあさんは満州で生まれた。わしは太平洋戦争末期、大阪で生まれた。戦後わしらの家族はおじを頼って東京に出てきた。やがて復興期に入って姉は結婚、双子の女の子をもうけた。かわいい双子じゃったが、二人とも亡くなってしもうたんじゃ。加えて末の妹のがんの死じゃ。そのころからばあさん、変になってな。魔力もそのころ身についたらしい。ばあさんの魔力はな、オールマイティでな、あらゆる不可能を可能に変えるのじゃと」
「じゃあ、例えば死んだ人のクレジットカードが有効に使えるとかも?」
こずえが尋ねると、
「そうじゃな、ばあさんならできたじゃろう」
ここでウエイトレスがあんみつを持ってきた。村上さんは食べながら続ける。
「あくどい金儲けで巨利を得たが、金銭トラブルも絶えなかった。でも、ばあさん、遺言書だけはちゃんとしたためておってな、書いてあったんじゃ。こずえちゃんに倍返しにしてやれ、と。さっそくばあさんの銀行通帳を見たら確かに去年の5月にこずえちゃんから2億もらっておる。さすがのばあさんもこずえちゃんにだけは悪いと思ったんじゃろう。だいじょうぶ、遺産は8億ある。わしとこずえちゃんで4億ずつじゃ」
「えっ、いいんですか?」
こずえはドキッとした。そして喜んだ。4億円ももらえるなんて…。
「もちろんじゃ、そうせんとあのばあさん成仏せんわ」
あんみつを食べ終えて、村上さんがちょっとお願いをした。
「あと、あんみつ代払ってくれんかの」
気前よく4億円譲ってくれたが、姉譲りの強欲さも顕在か?!
お金を払って店を出るとき思い出したように村上さんが言った。
「そういえば、ばあさん死ぬ間際にこずえちゃんに伝えろ、って言っていたよなあ。末尾が8の日の午前11時、しあわせの呼鈴を待て、キーワードはKって。次はもうずっとだ、って。
それって…。
「ありがとう、村上さん!!」
今日が26日だからその日は2日後だ。さっそくこずえは会社にダッシュした。そして直ちに有休申請をした。
「困るよ、葛城さん。そんな急に! 月末うち忙しいし、さっきも1時間だけど休み取ったでしょう?」
山野課長は顔をしかめた。
「お願いです、お願いですから休ませてください! 今度休ませてくれたらもう一生有休なんていりません!!」
「そんな…」
「そこを何とか!!」
こずえの必死の頼み込みに山野課長もついに折れた。
28日の朝。只今11時前だ。
おばあさんの言うことが本当なら彼は来る。絶対来る。ああ、神様…
マンションの一室で手を合わせた。
壁にかけている赤い時計の秒針が10のところを回った。あと10秒! 本当に来るのかしら。
こずえは一心に祈った。…3、2、…神様…
そして…。
ピンポーン!
(了)
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