あるOLの動揺

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あるOLの動揺

 がたん、という震動に合わせて体がつんのめった。中央付近に立っていた私は前にいたサラリーマンの背中に軽くぶつかる。 「ごめんなさい」  小さく謝ると、相手はちらと振り返るだけで何も言わずに顔を背けた。 (感じ悪い)  ちょっといやな気持ちになったから、男に背を向ける。と、急に電車内の照明が落ちた。 「うそ……」  朝とは言え、電気が消えると車内は薄暗くなる。通勤ラッシュは今日もいつも通り。それがいっせいにざわめくものだから、いっきに騒がしくなった。車内アナウンスが、現状確認中であることとしばらく動けないことを伝えた。腕の時計を見ると、始業時間まであまり余裕はない。  ずっと立ちっぱなしで、ハイヒールが辛くなってくる。あーあ、本当に、 「最悪っすね!」  どこか嬉しそうにも聞こえる不謹慎な声がよく透った。声の方を見ると気が付いていなかったが少し前の方に、いつかのサラリーマンのお兄さんと、ちゃらい感じの男が背を向けて立っていた。 「困ったな。すぐ動くといいけど」 「しょうがないっすよ三浦さん。電車が動かないんじゃ」 「樋川くん、なんで嬉しそうなの」  相変わらず生真面目そうな様子の彼は後輩をいさめるように声を上げた。 「全然嬉しくないっす」 「顔が笑ってるよ君。……雨宮主任に連絡だけしておこうかな」 「えー…別にいいんじゃないすか?」  周りにも携帯電話を取り出している乗客がかなりいた。電話をする人、メールを送る人……私はとりあえずぎりぎりまでいいかな、とサラリーマンのお兄さんの方に意識を傾けた。 「ちゃんと連絡しないと。今日は朝から会議も入ってるはずだし、遅れたら……っ」 「ちょっと遅れるくらい別に……どうしたんすか?」 「いや、別に」  携帯電話を取り出して画面を見たサラリーマンのお兄さんがあからさまに歯切れが悪くなった。それに目ざとく気がついたチャラ男くんが手に持っていた携帯電話を覗き込む。そういえば今どきスマートフォンじゃなくて携帯電話だ。 「なになに誰から?」 「ちょっと、人の携帯電話を覗いてはいけません!」 「どーせのっぽ君でしょ」  どうせ、と決め付けながらなおも携帯電話を覗き込もうとするチャラ男くんを、サラリーマンのお兄さんが小動物みたいな俊敏さで振り返った。 「な、」 「三浦さんわかりやす過ぎます」  指摘されたサラリーマンのお兄さんは、口をぱくぱくさせながら顔を赤くして、中学生みたいにうぶな反応を返している。 「なんて?」 「え?」 「何て言ってきてんすか」 「別に……」  いいじゃないか、と後輩のくせに図々しくもお兄さんの持っている携帯電話を掴むとメールを読み上げた。 「あ、こら」 「なになに……電車停まったみたいですね、大丈夫ですか。そりゃ大丈夫でしょ停まっただけだもんよ。えーと、幸作さんはちっさいから心配です。三浦さんて下の名前、幸作っていうんすねえ。それで?……ただでさえいつも少しの間しか会えないのに、電車が動かないせいでさらに会える時間が削られてさみしい、今すぐ会いたいです……うは、三浦さん顔真っ赤」  見ればサラリーマンのお兄さんは、これ以上ないってくらい顔を赤くしていた。それはそうだろう、あまりにストレートな言葉は聞いているこっちが赤くなりそう。 「は、早く電車動かないかな」 「そっすねー早くのっぽ君に会いたいっすもんね」 「会議に遅刻しちゃうし」 「だいじょーぶ、あいつが乗ってくるまでは俺が三浦さん埋もれないように体張りますって」 「……恥ずかしい」  後輩のチャラ男くんにいじられて困った顔をしているサラリーマンのお兄さんは、やっぱりかわいかった。  その姿を見ながら、ああいいなあ、恋するっていいよね、恋がしたいなあ。と、深くため息を吐いていると。 「大変ご迷惑をおかけいたしました。電気系統が復帰しましたのでただいまより――」 「あ、動くみたいっすね」 「よかった」  薄暗かった電車内に照明が戻る。そこかしこで安堵のため息が漏れた。  私は、空調も停まっていた人ごみの中で酔ってしまったのか、少しめまいを感じていた。それに動き出した揺れが重なってまずい、と思ったときには、 「わっ」  くらり、とバランスを崩した。「これは倒れる」と思ったがその前に、誰かの手が倒れないように私の肩を支えた。 「……大丈夫ですか」  声に振り返ると、支えてくれていた男はさっきぶつかった無愛想なサラリーマンだった。支えてくれている手に凭れるようにしていたから、ハイヒールを履いた私より少し背の低い彼とちょうど目線が合った。 「ありがとう」  思いがけず間近な距離にうろたえながらも礼を返すと男が、 「いえ」  聞き取りにくい声でぼそぼそと呟きながら、笑った。  支えてくれていた手が離れて姿勢を正す。電車がさっきまでの不調なんて嘘だったかのようにスピードに乗り始める。私は。 「まさか」  自分自身が電車の中でこんなことになるなんて。どうしようか、サラリーマンのお兄さん。 「嘘みたい」 恋が、始まってしまった!
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