彼女の失恋

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彼女の失恋

 正直そんなことってあるんだ、と思った。  やっとの思いで合格した美大に進学するために地方から出てきた私は、初めて乗った満員電車で初めて痴漢に遭った。声も出せなくて、怖くて怖くて仕方なかった時に現われたのが彼だった。 「あんた、やめとけよ」  周りに聞こえないように小さな低い声を発したのは、チンパンジーのTシャツを着た背の高い男の人だった。その人は、私と体を入れ代えて痴漢から遠ざけてくれて。もうその段階で私は半分落ちてたと思う。だって、そんなのドラマとかでしか見たことない。小さくありがとうって言ったら微かに笑ってくれて、わたしは完全に落ちた。  そのあと勇気を出して声をかけようと思ってたのに降りるときに人の波に呑まれてはぐれてしまった。がっかりしていた私を待っていたのは大学で再会というドラマチック展開。しかも専攻が同じで、バイト先も同じで、好きな作家も同じで、アパートが近くて。もう運命だと思った。 「啓次くんおはよ」 「おーはよ」 「なんか寝呆けてる?」 「おーよバイトが」  ドア寄りの壁に立っている啓次くんは、肩に張られたクモの巣が裾に向かって一本落ちる赤のトレーナーを着ている。クモの糸の先、ズボンからちょっとだけ見えるクモがかわいい。友達には微妙って言われたけど、個性派俳優みたいなかっこよさがあると思う。背も高いし。 「どしたの」 「あー、いや、ちょっと」  珍しく歯切れの悪い啓次くんはしきりにどこかを見ている。 「誰か、」  知り合いがいたのかと聞こうとした瞬間。 「おい、あんた何してんだ」  私のいるほうとは逆のほうを向いて、いつになく低い声の啓次くんが言った。驚いて見上げた啓次くんは見たことのない顔をしている。 「痴漢野郎」  気が付けば啓次くんは、わりと背の高い私と同じくらいの身長の、男にしては背の低いサラリーマンの肩を抱いていた。 「消されてえのかクソジジイ」  あれ、啓次くんキャラ違くない? 「あの、ありがとう」 「大丈夫ですか」 「はい、大丈夫です」  え、なにそのジェントルマンなしゃべり方。そんなの知らないんですけど。 「何で今日はここにいなかったんです?」 「お友達と一緒みたいだったし…彼女さんかもしれないし」  なにこのサラリーマンのお兄さん、はにかんじゃって何かかわいい。 「違います」  どきっぱりかい! 「そうなんですか」 「そうなんです。だから」  なんかもう私のこと忘れてますよね。ついでに痴漢のオジサンのことも。 「ちゃんと俺の近くにいてください。心配だから」  めっちゃいい笑顔で啓次くんが言った。サラリーマンのお兄さん、その顔はいい歳した男がしていい顔じゃないですよ。  ああ、なんだよもう。これって失恋確定?
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