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私はよろけながら洗面所に向かった。床に右足を着く度に重力に皮膚を引かれて立ち止まる。ネグリジェが皮膚に擦れるだけで身体がバラバラになりそうな痛みが走った。
壁伝いに歩き、なんとか洗面所に到達したが、数歩歩いただけで脂汗が頬を伝って顎の先から滴り落ちる。鏡に映る顔は相変わらず蒼白で、少し痩せたのか袖から覗く腕は血管が目立つ。
こんな腕で弓を引けるだろうか? もちろんそんな事態に陥らないことが一番だけど。
凍る寸前ぐらいの冷たい水で口を濯いで顔を洗う。両頬をピシャリと叩けば気が引き締まった。血色を取り戻した私の顔を、鏡に映る父さんが悲しげに見つめていた。
「君たちを、救うためだ。あのまま眠り続けていたら、君もアルファルド君も命を落としただろう。君を奪われるくらいならそれでも良いと、彼は思っていたのかもしれないが……私もヒース君も、君たちを失いたくなかった」
眠っている間も、私に話しかけるアルの声が聞こえていた。優しく狂おしく私を呼ぶ声は、いつからか『目を覚まして』と言わなくなった。
奪われるくらいなら一緒に死んでも良いとまで思うのなら、その前にどうして私と生きる道を模索してくれなかったのだろう? 私が、アスタヘルじゃないから?
「……本当は、少し前から気付いていたんだ。気付いていて知らないフリをしていた。アルが、私の中にアスタヘルの面影を探しているって。必要としているのは私じゃないって」
鏡に映る長い黒髪の女は、アスタヘルによく似た別人。
御印の記憶を夢に見て、アスタヘルの抱える感情を我が事のように感じることはあっても、まるで活動写真を見ているかのように、どこか遠い世界のことのように思えた。いくら姿を似せても、私はアスタヘルにはなれなかった。
この器に宿るのは今もセリアルカの心だけ。
『愛しているんだアスタヘル……君が恋しくて恋しくて堪らない。もう一度君に巡り合うために千年を越えたんだ』
彼の言葉に涙したのも、セリアルカの心だった。
「認めたくなかったんだ。だって、記憶の中でいつまでも美しいままのアスタヘルに、勝てる筈がないのだから。アルにとって私はアスタヘルとの再会を阻む邪魔者。アルが恋したのは私じゃなくて、アスタヘルだと理解してしまったら、アルの牙を受け入れられなかった。だって、それは私を求めてくれたわけじゃないから」
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