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ありがとうシッポちゃん
猫のいる生活は良い。どんなに辛いことがあっても耐えられる。
会社から帰ってきた私は玄関を開ける。猫ちぐらの中で横になっているシッポちゃんに「こんばんは」と挨拶をする。しかし、反応はない。目を開くことすらしない。
シッポちゃんは眠っているかのように丸くなっていた。使い古されたバスタオルの上に、心地よさそうにニャンモナイトになっている。静かに何かを待ち続けるかのように動かない……。
全く動いていなかった。今朝は、横になっていた時も、お腹が上下していた。呼吸をしていた。けれども、今は完全に停止している。
手を握ってみた。勿論、反応はない。猫の体温はこれくらいのはずない。というほど、冷たくなっている。
目を閉じようとした。まぶたを指で閉じようとするが動かない。無理やり続ければ閉じたかもしれない。しかし、見開いた目は虚ろで、苦しげな様子はまったくない。私は頭を撫でるだけにして鼻をすする。
「お母さん! シッポちゃんが……」
私はリビングに向かって大声を出す。すると、両親は何事かと言わんばかりに玄関まで来てくれた。状況が理解できていない表情だった。でも、何が起こったのかは、シッポちゃんを見ずともすぐに理解した。ただ、覚悟していたものが訪れただけだと理解していたようだった。
三人でシッポちゃんの体を撫でてあげた。もう、鳴くことも甘えてくることもない。大人しくて甘えん坊だったシッポちゃんは、ここに抜け殻だけ残している。動かないまま私たちのことを見つめている。暴れることなく静かにシッポちゃんは天国へと旅立っていたのだ。
シッポちゃんが死んで、悲しかったけれども冷静だった。頭の片隅で予期していたのだろうか。私はウェットティッシュで体を入念に拭いた。最後は出来るだけ綺麗にしてあげたいと思った。
「明日、朝一で火葬場に行ってくる」
父は迷ったような表情で私に告げた。
「私も行くよ。有給は余っているし、急ぎの仕事もないから」
「そうか……。それにしても、安らかな顔をしているな」
「でも、本当に良かったのかな。最後までちゃんと面倒を見きれなかったんじゃない?」
私は父に突っかかる。言っていることがおかしいかもしれないと思いつつ、どうしても感情が押さえられない。
「人間には出来ることと出来ないことがある。家は出来る範囲でベストを尽くした。それがたとえ自己満足なものであったとしても、死にそうになったシッポッポを保護したんだ。たかが、数日しか長生きが出来なかったかもしれないが、私たちはシッポッポと十分に心を通わせたはずだ。冷たい路上で死んでゴミのように廃棄されるのではなく、最後に自分を知ってもらうことが出来たのは、シッポッポにとって良かったことに違いない」
私は何か反論したかった。湧き上がる理不尽さを何処かにぶつけたかった。でも、出てきたのは単なる涙だった。
私たちは無言で片付けを始めた。ネズミのおもちゃは既に傷んでいた。あまり使われていないのに、十分に遊んだかのように傷ついていた。
翌日、家族三人で葬儀場に行った。私は年休を取得した。
ペット用葬儀場は少し人里離れた場所にある。落ち着いた雰囲気の場所で、車から降りると、職員の方が迎えに出て来た。
私はシッポちゃんを寝かせた猫ちぐらごと持って施設の中に入る。待合室で準備ができるのを椅子に座って待つ。膝の上に置いた猫ちぐらの中のシッポちゃんは、眠っているようだった。今すぐにでも起き上がって、すり寄ってくるような気がして頭を撫でた。
柔らかい毛並みだった。キジトラ色がキレイに見えた。手に触れてみた。ピンクに黒が混じった肉球は冷たくぷにぷにと柔らかい。足の肉球も同じように触ってみた。シッポちゃんは、足を触られるのを嫌がっていた。ウェットティッシュで拭く時、他の部位より抵抗した。
でも、今はされるがままだ。動かずに私に揉まれている。
「準備ができました」
職人に呼ばれて火葬場に行く。猫ちぐらごと設備の中に入れて焼却を開始する。
「15分くらいかかります。もう一度待合室でお待ち下さい」
私たちは再び待合室で待機した。私も両親も無言だった。なんら楽しい会話は思い浮かばなかった。ただ、シッポちゃんの最後を見届けようとしていた。 骨になったシッポちゃんはとても小さかった。以前に飼っていた猫の半分もなさそうだった。それもそのはず、シッポちゃんは初老の猫でありながら、子猫と間違えるくらいの大きさだった。手のひらに乗りそうなほどの猫だったんだ。
私は不意に手を伸ばそうとして止めた。触れたら崩れそうな頭蓋骨は、もう何も語らない。灰の塊になったシッポちゃんは、土に還るのだけを待っている。最後は静かに天国に送ってあげたい。
私たちは共同墓地への埋葬を依頼した。少し薄情な気もした。でも、個別で埋葬しても墓参りには来そうにもない。シッポちゃんと過ごした日数とはその程度の重みなのか、冷酷なだけなのかはわからない。混乱しかけたが、一番冷静な父親が話をまとめてくれた。その場に流されやすい私と母親にとっては助かる存在だ。
全てを終えた私たちは、無言のまま帰路についた。家のドアを開けると、既にそこには何もなかった。ただ、スリッパが家を出たときのように脱ぎ捨てられているだけだった。ケージも猫ちぐらも片付けられ燃やされた。あれほど困惑した臭いすら殆ど残っていなかった。
私はスンと鼻を啜りながら、玄関に上がりスリッパを履く。何事もなかったかのようにリビングに向かおうとしたその時、シッポちゃん毛が一本だけ宙に漂っていることに気づいた。
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