第三話 古文の単語帳

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第三話 古文の単語帳

 困ったことになった……。 「キミ、落とし物は交番に届けるものだよ」 「わかってる」 「でもどう見てもキミは交番に行く気はなさそうだ」 「……でも、これはチャンスなのかもしれない」  その日の朝、通学のとき。僕はいつもの横須賀線で「彼女の前」という特等席を獲得した。最高の一日の始まりを予感した。  僕はこのまま終点の逗子駅までこの電車に乗っていく。彼女はその逗子のひと駅手前、鎌倉駅で電車を降りる。彼女の座っていた席に、ひと駅分でも座れる時間が高校生の僕には何よりもの至福の時間だった。 「キミ、それはもう本当に『』だよ」 「うるさい」  ただ、その日は事件が起きた。鎌倉駅に到着し、彼女が座席を立つ。僕は俯きながら静かに彼女を見送り、代わりにその座席に腰を下ろす。  その時だ──。  足元になにか分厚い文庫本くらいのサイズのものが落ちている感触を覚えた。かがみ込み、足元に手をのばす。なんだろう。  手にとったその文庫本サイズの書籍を持ち上げ、目の前で確認する。 『』  その本は、彼女の氏名が記された「古文の単語帳」だった。 「明日、これをキミに返すんだ」 「ふむふむ、それで?」 「それで……」 「……え、キミ。もしかして会話が弾むとでも」 「いや」 「奇遇だね。僕も古文好きなんだ! そうだ明日から僕と一緒に竹取物語でも……」 「そのパターンは、ダメだ……!」  いつものようにキャッキャとはしゃぐ君。今日は波打ち際で、一人で空に向かって水をバシャバシャとかけて遊んでいる。  まったく他人事のようだ。   「他人事だもん」 「君の問題なんだよ」 「アタシは空想上の人物だよ、キミ」 「でも、まさか。本当に『』だったなんて」  強い風がとっさに吹き、砂が僕の頬に当たる。強い潮の香り。そろそろ秋がやってくる。  僕は「彼女の単語帳」を手に取る。 「」さん  きれいな名前だ。この砂浜がとても良く似合う。キミと一緒にこの砂浜で目を閉じ、潮風を感じたい。  ふとした思いつきでその「単語帳」を開いてみる。 「染む」 自動詞 マ行四段活用      意:染まる。色がつく。   ああ、僕はすでにかなり君の色に染まっている。コカ・コーラのラベルのような赤い色、君を象徴する色。   「そうだ、絵はがきを描くというのはどうかね」 「絵?」 「うむ、サイズはぴったりだろう? 絵はがきを描き、想いをしたため、その単語帳にこっそり挟んで返すのさアタシに」  ──なんて素敵なアイデアなんだ! 「君は美しいだけじゃなく、天才でもあったのかい」 「はっはっは」 「最高じゃないか」 「よし、そうとなれば今日の放課後は絵はがき作りだね」 「もちろんだよ」 「じゃあ、また放課後」 「うん、また放課後」  いま思えば、「絵はがきを単語帳に挟んで返す」だなんて、臆病者の僕のどこにそんな勇気があったのか、不思議でならない。でも、もう二度とこんなチャンスはないと、そう思った。生まれて初めて、勇気を出して、走り出そうとした瞬間だった。  僕は放課後、せっせと無地のはがきと絵の具を用意し、波の絵にコカ・コーラのボトルを描いた絵はがきを描いた。 「君と波の音を聴きたい」  そんな文章とともに、僕の連絡先を書いた。  でも、結局。  その『古文の単語帳』を返せる日は、来なかった。その日以降、僕が彼女の姿を見つけられる日は……。  一度も、来なかった。
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