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第五話 波の音に染む
電話越しに聞こえる「名波なぎさ」さんの声は、波のように静かに透き通っていて、こちらの心が洗われるくらい穏やかな声だった。
「ごめんなさい。まさか、こんなにおおごとに……」
「いえ、こちらこそご不快な思いをお掛けし、誠に申し訳ございません」
「もう大丈夫ですよ……ハム、一個でも。好きなので」
「あ、いや、そんなわけには。ちゃんとご返金させて頂きます」
「でも……」
困っているのが電話越しでも分かった。なんだか申し訳ない。だが、今回のケースは返金しか手段がなく、直接の手渡しが会社としての対応マニュアルだった。
「直近で、ご在宅のご都合をお伺いできませんか。直接お伺いして、改善報告と併せてご返金をさせて頂きたく」
「うーん」
「すみません……」
──この人が、もし彼女だったりしたら。
おいおい。
いったい、何を考えているんだ僕は。
クレーム対応に集中しないといけないのに。
でも、不思議だ。
なんだろう……。
受話器越しの声しか聴こえないのに、
どことなく彼女の雰囲気を感じる。
──もしかして、本当に。
「……じゃあ、明日の夕方とかでどうでしょうか」
「夕方。17時でも宜しいでしょうか」
「あ、はい。その時間ならいると思います」
「有難うございます。それでは、明日の夕方17時にご自宅にお伺いさせて頂きます」
「はい、お待ちしております」
『待ってるよ。』
『アタシを描いてくれる日を』
(──────!!)
──その瞬間、君の声が重なった。
そして、僕は思い出した。
君との約束。
決して忘れたりはしないと誓った思い出。
あの、静かな波の穏やかな、砂浜での大切な約束を。
***
受話器を置いた僕は急いで帰りの支度を済ませ、タイムカードをきって事務所の外に出る。タバコを吸って帰ってきた根岸さんと、すれ違う。
「お、電話どうだった」
「明日、ご自宅に伺います! そのまま直帰します!」
「お、おう」
「すみません、もう今日は帰ります! お疲れさまでした!」
叫ぶように挨拶を済ませた僕は、目を丸くしている根岸さんを後ろ目に、駅までの道を駆け抜ける。こんなに必死で走るのは久しぶりだ。
息が切れる。
肺がはち切れそうなほどに痛い。
……懐かしい感覚。
そういえばあの頃は、
毎日こんなふうに走っていた。
彼女と一緒にいられたことが、
最高に幸せだった。
走りながらスマホを取り出し、
急いで実家の母に電話をかける。
「なに? どうしたの、突然」
「今日、そっちに帰るわ!」
「え……?」
「探しものがあるんだ! 取りに帰る!」
横浜駅の雑踏をくぐり抜け、改札を抜け、階段を駆け上がり、到着したばかりの横須賀線に飛び乗る。
──急げ、急げ!
戸塚駅に着く、ホームを駆け抜け、階段を駆け上がる。改札を滑り抜けて、下りの階段を必死で駆け下り、線路沿いを走り抜ける。
──急げ、急げ……急げ!
実家に到着する。
「ただいま」を叫びながら、
すぐに自室に向かう。
どこだ?
どこにある??
──あの絵はがきは、どこだ?!
机の引き出し、クローゼット、本棚。
全部ひっくり返して、部屋中を探し回る。
受験時代の参考書。
大学時代のテキストやレジュメ、
プリントの山。
必要なくなった会議資料……。
全部ゴミの山だ。
どこだ?
出てきてくれ。
頼むよ……。
──出てきてくれ!!
押入れの向こう、
しっかりとガムテープで封された
大きな段ボールを見つける。
おもいっきりガムテープを引きちぎり、段ボールの中に詰め込まれプリントや書籍たちを部屋中に撒き散らす。
頼む、頼むよ!
──出てきてよ!!
最後のプリント群を一気に掴み取り、宙に思いっきり投げ放つ。
──あ。
……そこに、君がいた。
『やあ』
「やあ……」
『ずいぶんと待たせるじゃないかキミは』
「すまない」
『だから言っただろう、キミは忘れると』
「でも、僕は思い出した」
僕は両手で君を掴み、目をつむって波の音に耳をすます。まだ潮の香りを感じられる気がした。
『さあ青年よ。もう一度、筆を取りたまえ』
「うん」
『アタシを描き入れてくれる約束だろう』
「うん」
『そして明日、もう一度』
『持っていくのだろ? 本当のアタシに渡すため』
そうだ。
僕は、もう逃がさない。
まだまだ臆病者な僕だけど。
──君に会いに行く。
あの日の誓いを、果たすために。
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