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プロローグ
「名波なぎさ」さん
人違いだろうけど、同姓同名なんてめずらしい。
──たぶん、僕の初恋のひと。
八月の連休も終わり、営業活動もついに後半戦がスタート。一年間の山場であり集大成とも言われる年末商戦に向けて、僕が働くこの横浜営業所も忙しくピリッとした空気が流れ始めていた。
地元の大学を卒業した僕は、父親の勧め(食べ物に困らないからという理由)でいくつかの食品メーカーの面接を受け、この小さな食肉メーカーの内定を勝ち取った。神奈川県全域を地盤とする、いわゆる地元のハム屋さんだ。営業所も横浜営業所と厚木営業所の2拠点しか存在しない。
入社5年目、それなりに営業の仕事も板についてきたし、助け合いの精神を大切にするこの職場は嫌いじゃない。もともと引っ込み思案で臆病者の僕には、これくらいの規模の会社がちょうどいいんだと思う。
逗子海岸の近くにある取引先のスーパーの店長さんから着信があったのは、昨日のこと。お客様からクレームが入ったとの連絡だった。
「2個入りのハムギフトをお持ち帰りで購入されたらしいだけどさ」
「はい」
「1個しか入ってなかったらしいんだよ。ハム」
「……なるほど」
「でさ、悪いんだけどお客さんに電話してあげてくれないかな」
「え、私からですか」
「うん、だって僕たちは箱開けたりしてないからさ、お宅の責任でしょ」
「なるほど」
「悪いんだけど、うちも忙しくてさ。頼むよ」
「承知いたしました。それではお客様のご連絡先を」
引っ込み思案の僕だ。「いやいや、まずはあなた達が対応しなさいよ」だなんて強気な発言は当然できず、そのまま連絡先を伝えられ、クレーム処理を一方的に押し付けれれてしまった。
「名波なぎさ」さん、逗子市在住。
──逗子、まさかね。
僕は、高校時代を
この逗子という街で過ごした。
潮の香りと波の音が聴こえる町。
僕の高校は海のすぐそばにあり、休み時間になると海岸で過ごしたりもできた。夏にこそ、そこそこ海水浴客が現れて盛り上がりを見せるが、それ以外のシーズンは落ち着いた地元の砂浜。僕は特に、秋の静かで穏やかな砂浜で放課後を過ごすのが好きだった。
昨日は二度ほど電話したが、結局「名波なぎさ」さんとの電話は繋がらなかった。忙しい人なのかもしれない。今日の夕方、もう一度挑戦して繋がらなければ、留守電を入れて数日間は待つ。お申し出対応のセオリーだ。
──でも、もし彼女本人だったとしたら。
いやいや、待て待て。そんなに世間はせまくない。妄想癖のあるの僕の悪いくせだ。
高校時代、
僕は知り合いでもない彼女に恋をした。
JR横須賀線の下り、逗子行き。
僕が乗るのは戸塚駅、7時40分発。
彼女は毎朝、同じ車両に座っていた。
きっと横浜駅あたりから、
乗ってきていたのだろう。
ぎゅうぎゅう詰めの車内で偶然にも、
彼女の前に立てる日なんて、
僕にとっては、最高に特別な一日。
コカ・コーラのラベルのように赤い髪。
小さな頭には大きすぎるヘッドフォン。
紺色の地に白い線のセーラー服。
……いったい、
彼女の高校の校則はどうなっていたのだろう。
臆病者の僕は、一度もまともに、
話しかけることもできなかったけれど、
それでも高校2年生の夏。
僕は、彼女に。
──彼女に恋をしていた。
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