0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
七月三十一日(金)
事件発生。ベランダに何かがある。
「何か」としか言いようがない、正体不明の物体だ。風呂上がり、カーテンの隙間を閉じようとして何気なく外を見たら、ベランダにあった。
手のひらに乗るぐらいの大きさの、水まんじゅうのようなぷるぷるした丸いかたまりだ。ピンクと茶色の中間ぐらいの半透明。食べ物なのか、虫かなにかのタマゴなのか、ゴミなのか、さっぱり不明。においは特になし。
気持ち悪いのを我慢して、正体を探るべく棒でつついてみる。棒は、去年植木鉢でミニトマトを栽培していた時の支柱を使用。ベランダに一年以上放置しておいてよかった。
つつくと、かたまりはぐにゃりと棒を飲み込んで形を変える。引き抜くと、またぷるんと揺れて元に戻る。
ゼリーのように割れてしまうこともなく、グミよりは柔らかい。ちょうど子供のおもちゃのスライムのような質感。
そんなものが一体どこからきたのか?と辺りを見回していたら、いきなり目の前に、またぼとんと落ちてきたので仰天した。
どうやら上の階のベランダから隙間を伝って落ちているようだ。
上の住人は大人しそうなOL風の女性。以前、干していたタオルがうちのベランダに落ちてしまったと謝りながら取りに来たことがあるから知っている。
彼女がなぜベランダにスライム状のものを置いているのかは知らないが、下に漏れていることに気づいていないのだろう。注意されて逆ギレしそうな人ではないので、とりあえず何か落ちてきてますよ、と伝えるため行ってみた。しかし留守。
帰ってまたベランダを確認。スライム状のものはまだ漏れ続けているようで、時折ひとかたまり落ちてきてはぼたり、と音がする。
スライムであれば、落ちたら床に広がってしまうと思うのだが、この物体は前に落ちたものの上に積み重なるように落ちてぷるんと震え、すーっと一体化して大きくなっていく。
一体何なのかわからないが、とりあえず明日対処することにして、今日はもう寝る。
最後にもう一度ベランダを覗いた。かたまりはまた少し大きくなってぷるぷる揺れている。
キモ。
八月一日(土)
スライム的なかたまりが人間の下半身になった。
ちょっと何を言っているのかわからないと思うので、順を追って説明する。
朝起きてカーテンを開けると、あのかたまりはまだそこにあった。夜中じゅう上からぼたぼた落ち続けていたらしく、かなり増えていた。
そして人の足の形になっていた。
両足分、五本の指があってかかとがあって足の甲がある。そこから上にすねが伸びて、ひざ上までできていた。大きさも実物大である。靴のサイズ二十四センチといったところか。
鍾乳洞で上から水滴がポタポタ落ちて、洞窟の地面からは石筍が生えます。
みたいな感じで、上の階からぼたりぼたりと落ちてきたスライム的な物体がベランダの床にたまって重なり、だんだん高く育っているのだ。
今日も上の部屋の人は不在。スライム状の物体の正体も未だ不明。
気持ち悪いのでしょっちゅうベランダをチェックしていたら結局一日中家にいた。
スライム的な物体は今日一日でさらに育ち、人の形はウエストのあたりまでできあがった。彫刻のようにリアルな形である。性別は女性。ももが太く尻がたるんでいる。
ベランダに半透明の人間の下半身が立ち、時折風が吹くとぷるぷると揺れている。
キモ。
八月二日(日)
週末だというのに、あれが気になりすぎてずっと家でベランダばかり見ている。
スライム状の物体でできた人の体はもう首までできていて、あとは頭部を残すのみ。
これを書いている今、まさにボトボトと連続してかたまりが落ちて来て、ついに人体が完成した!
身長はちょうど私と同じ一六〇センチほどだろうか。ベランダで半透明の人体がぷるんぷるんしているのを見ながらビールを飲む。だんだん見慣れて面白くなってきた。
ベランダに落ちて来たスライムのような物体でできた人の形、などといちいち書くのが面倒なので、あれを「スライム人間」と呼ぶことにする。
外の電線に止まっていたカラスがスライム人間を不審に思ったらしく、飛んできて手すりにとまり、カーカーと激しく鳴いてスライム人間を威嚇しだした。
スライム人間はカラスに頭を突かれ、突かれてもすぐにぷるんと元には戻るのだが、両手で頭を抱えるようにして痛そうにした。
いつのまにかぼんやりと目鼻だちもできており、口をOの字に開けて震えながらカラスの攻撃から逃げようとしている。
スライム人間が揺れながら一歩、二歩と歩いて窓まで来ると、びたんびたんとガラスを叩いた。叩くたびに振動が伝わって、スライム人間の身体中がさざなみのようにぷるるるるるんと震える。
なんだか気の毒なので、窓を開けてスライム人間を中に入れてやった。カラスは諦めて飛んで行ったようだ。
床に倒れこむようにして入って来たスライム人間は、ゆるゆると起き上がると「ホウ」と言った。
今日はそろそろ寝ることにする。
スライム人間は部屋の隅で膝を抱えて静かにしている。寝ているのかもしれない。
八月三日(月)
スライム人間は一晩のうちに人間ぽい質感になっていた。半透明さがなくなり、表面が人の肌らしくなった。
そうなると、家に全裸の人がウロウロしているわけで、どうも落ち着かない。仕方ないので私の部屋着のワンピースを貸してやる。スライム人間はワンピースを苦労して着終えると「ほう」と言った。少し嬉しそうだ。
スライム人間を置いて出かけるのも不安なので、会社に電話して風邪をひいたと嘘をついて休みを取った。
一日かけてスライム人間はますますしっかりした質感になり、もうぷるぷる震えることもなくなった。黒い頭髪も生えてきて、いよいよ人間らしくなった。「コレ」「アツイ」「テレビ」など、簡単な言葉も喋るようになった。
夕飯時、聞いてみると「タベル」と言うので野菜炒めとご飯を小皿に取り分けてやる。きれいに食べた。
来客用の布団を出してやる。
八月四日(火)
今日は仕事に行った。
朝、スライム人間が「いってらっしゃい」と言った。
朝食は私がパンやコーヒーを用意してやったが、昼は自分で買い置きの冷凍チャーハンを温めて食べたようだ。
夜、帰ってくるとスライム人間がテレビを見ていて、のほほんとした様子で「おかえり」などと言う。変な感じである。
夕飯はミートソースパスタとサラダ。二人分作って、スライム人間も普通に一人前食べた。
食べ終えた後風呂に入り、あがったらスライム人間が洗い物をしてくれていた。
嬉しい。
八月五日(水)
今日も仕事に行く。結構忙しかった。
七時ごろ、疲れて帰るとテーブルの上に母からの宅急便が届いていた。スライム人間が受け取ってくれたらしい。
中を見ると、時々送ってくれる野菜と一緒に「萩の月」とずんだ味のスナック菓子が入っていた。
「野菜ありがとう。仙台に行ってきたの?」
電話をしてそう言うと、母は笑った。
「友達と旅行したのよ。昨日電話で説明したじゃない。やだ、もう忘れたの?」
電話を切ってから、スライム人間の方を振り返ると
「ごめんごめん、昨日お母さんから家電にかかってきたんだった」
と悪びれずに言った。
その言い方も声も、キッチンカウンターにちょっと寄りかかったポーズも、全てが私にそっくりだった。
いつの間にか顔も私と同じになっている。
キモ。
八月六日(木)
今日は仕事を休んだ。
いや、スライム人間が会社に行ったので休んだことにはなっていないのか。
朝、いつもの時間に一旦起きたものの、どうしても眠くて眠くて朝ごはんも食べないうちにソファに倒れ込んでしまった。
意識が薄れて行く中、いつのまにか通勤服に着替えたスライム人間がバッグにスマホを入れて玄関に向かうのが見えた。
すぐに寝てしまって、次に起きるともう昼になっていた。
そうして一日中寝たり起きたりして、ご飯も食べずにソファでウトウトしていた。
スライム人間が帰ってきたのは七時ごろだろうか。
「オカエリ」
揺り起こされて、眠くて眠くて回らない口でやっとそれだけ言うと、スライム人間はふんと鼻を鳴らして私を爪先で蹴るようにして床に落とした。
ちょっと、何すんのよ。
文句を言ってやろうと思ったのだが、私の口から出たのは「ホウ」という声だった。
ああ。
私はこれを書き終えたら服を脱ごうと思う。
キッチンの方を振り返ると、私が冷蔵庫から取り出したビールを片手にこちらを見ている。
八月七日(金)
清々しい気分だ。
昨日は仕事が忙しくてとても疲れた。
へとへとで帰ると、私がソファーでだらしなく寝ていた。一日中ぐうたらしていたらしい様子に、腹が立って蹴っ飛ばしてやった。
もっと抵抗するかと思ったのだが、私であったものは案外素直に裸になるとベランダに出て行った。
ガラス戸をぴしゃりとしめてやると、私であったものはぼんやりとこちらを見た。気温が高いせいか、もう目鼻立ちがぼやけ始めていた。
ちょうど風が吹き、私であったものの表面にさざ波が立った。
そして、ゆっくりと私であったものは溶け始めた。
下の階に住んでいるのはどんな人だったかな。
まあいい、もうあれは私ではないのだから。
私はビールを飲みながら、それが隙間からゆっくりと階下へ滴り落ちて行くのを眺めた。
最初のコメントを投稿しよう!