博士の右腕

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「ちくしょう。ちくしょう。ちくしょうっ!」 曇った冬は昼間でも室内は薄暗い。自室に日があたることはほとんどなく、夏場でも薄暗いと感じることが多かった。ただでさえ暗いのにカーテンを閉め、電気もつけずに布団の中でうずくまる。俺は右肩を押さえて涙で布団をぬらしていた。 「お兄ちゃん、ごはん、食べない?」 気づかわし気な母親の声が扉の向こう側から聞こえたがイライラと返答した。 「あとで食べるから、置いておいてくれ」 「顔だけでも見せてくれない?その、ここ二日ほど顔を合わせてないでしょ。だから……」 「今は誰の顔も見たくないんだ。ご飯は後で食べる」 ため息をついたのが扉越しに聞こえる。あきらめきったような声が返ってきた。 「病院、明日には行くからね」 「わかってる」 ならいいわという疲れたような母親の声が胸に重い。自分でもわかってる。本当はこれから先のことを考えなくちゃいけないって。それでもこの部屋から、布団の中から出ていくのは嫌だった。 母親が去ってから、布団の中から這い出して右肩を見る。今まであったはずの右腕はなかった。ふつふつをと湧き上がるマグマのような力に抗いきれず、枕をつかんで床に叩きつけた。 「ちくしょう。ちくしょう。ちくしょう!」 滝のように流れ落ちる涙は、全部布団が吸い取っていく。湿り気をおびた布団を蹴り飛ばし、床をどんどん足で踏み鳴らそうとしてやめる。行き場のない怒りで頭がどうにかなりそうだった。 俺は事故で右腕をなくした。それでだけじゃない。将来も一緒になくしたんだ。 頭によみがえるのはピストルのパンッという小気味いい音と、水に飛び込むときの弾くような鋭い癇癪、力強く水をかく腕、水面から顔を出すときの爽快感。誰よりも早くゴールに到着した時の達成感。そういったすべてのものがなくなったのだ。 もう少しでオリンピックに出場できるはずだった。選考のための大会を控え、前祝いに友人と飲んだ帰りに事故にあった。俺と友人をよけようとしたトラックが、ハンドルを切り損ねて突っ込んできたんだ。気づいたら病院にいて右腕はなくなっていた。友人は足の骨折と脳挫傷、命に別状はないらしいが1ヵ月ほど入院するのだと聞いた。トラックの運転手は壁にぶつかって即死だった。
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