貴方は今笑っていますか?

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 見慣れた我が家へ飛び込み鍵をかける。バクバクと心臓が口から出そうなほどだ。静まりかえった寂しい玄関が今は心を落ち着かせてくれる。  深呼吸してのぞき穴から外の様子を伺う。五分くらい凝視した。誰も家の前を通らないことにまた息を吐いた。どうやら家までは知られていないようだ。  警察に相談しよう。あぁ、その前に掃除をしないと。  リビングにおいてある植木鉢と先程買った植木鉢を並べる。これだけあれば植えられるだろう。肥料も防腐剤も準備できた。種はまだ決めてない。土を盛れたら考えよう。  あの人が自慢していた庭がこんなところで役に立つなんて。何かの縁ね。  一昨日買った刃が長い包丁を手にしてバスルームへ向かう。壁一面に防音材、洗い場の床には高価な伐採セット。そしてバスタブに夫。  殴られないように両手足をビニール紐で、いつもいつも五月蝿かった口をガムテープで塞いで、はや五日。自然に息絶えていたらありがたいのだが、浴槽に響く呼吸音が私の心を落胆させる。性格と一緒でしぶとかった。でもさすがに抵抗する気力はないだろう。  本当は勝手に死ぬまで待っていたかった。だがあの変なスーツ男にこの家を特定されるのも時間の問題だ。今が最大のチャンスだと思った。  まずは血を抜こう。そうすると魚みたいに切りやすいだろう。極力浴槽を汚したくはない。せっかく今まで綺麗に掃除してきたのだ。ゆっくり、ゆっくり刺して行こう。  こんな大きい包丁使い慣れていないせいか重すぎて振り上げることができない。なんとか狙いを定めてシャツにめりこませていく。 『〜〜〜〜っ!』  手に肉を裂いた感覚が伝わった瞬間、それまで息も絶え絶えだった夫がもがきはじめた。  新鮮だった。  あの夫が、痛がっているのだ。しかも簡単に足でそれを抑えられる。  愉悦に身体が震えはじめた。 「大丈夫よ。あなたが好きなチェンソーも使ってあげるから」 『ゔ〜っ』  何個もあって助かったのよ。私にはなぁんにもくれないでこんなのばかり集めていたのだから。腕にめいいっぱい力をこめてみると、痙攣して動かなくなった。あぁ嫌だ。いい年して失禁するなんて。血の匂いとまざって気持ちが悪い。早く終わられせなければ。もっと深く刺して、抜いてまた刺さして。そうしないと血が全部でていかない。  はぁー  はぁー  荒い息が耳に響く。夫のだろうか。  暑くて視界が揺れる。汗が血と混ざっていく。もう少し涼しくなってから作業すればよかっただろうか。いや時間がかかるのはよくない。  深く刺せただろうか、一度抜いてみよう。動かすたびに伝わってくる肉の感触が気色悪い。夫の腹の脂肪が多いから余計そう思うのだろうか。  ……。  ……。  包丁の、せい、で、やりにくい。 「貴方は今笑っていますか?」  突然の声。身体が尋常じゃないくらい反応する。  すぐ横にはあの勧誘男が私の目線に合うようにしゃがんで微笑んでいる。いつの間に。どこから。 「なんでっ」 「貴方は笑えていますか?」  笑う? どうしてそんなこと聞くのよ。こんな場所で。 「わら、笑えるわけないでしょ」  そうよ。真剣なのよ。早く片付けなきゃいけないのよ。切って埋めて、アナタを通報するために。夫のうめき声に構わず引き抜こうと力を込める。 「では、泣いていますか?」  え?  固まっていた手が頬を探す。  そこを通り過ぎていくのはあせ、ではなかった。  なかったのだ。 「はい」  認めてしまった。 「ならヤメといたほうがいいですよ。泣きながら刺すのは後で後悔しか残りませんので」  そう言って刃物を握りしめているもう片方の手を温かい手で包む。私はただただ、されるまま。彼はその後携帯を取り出し何処かへかけはじめた。  終わった。それだけはわかった。  夫の容態を確認している彼をただ眺める。 「わたし、」 「はい」 「この人を殺したかったんです」 「みたいですね」 「できませんでした」  できると思ったのに…。今更になって手が、身体が、震えていることに気づいた。  肉の感触も。血の匂いも。うめき声も。みんなみんな気持ち悪い。  怖い。本当は、すごく怖かったのだ。  どうしてこんなことをしてしまったのだろう。収まらない震えを隠すようにうずくまる。 「あなたは、つらいつらい毎日に少しずつ押しつぶされて、何もかもどうでも良くなってしまった。でもあなたは踏みとどまりました。凄いですよ。偉いです」  人を殺そうとした私の背中を彼は優しくさすってくれる。  どうして、褒めるのだろう。  でも私はその言葉をずっと誰かに言って貰いたかった。  今更、遅いのに……けれど声のない叫びを見つけてくれたのだ……涙がまた溢れた。  救急車が来るまで彼は泣いている私のそばに居てくれたのだった。  こうして私の殺人計画は幕を閉じたのだったーー。
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