ティアーズ・イン・ヘヴン

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――天使の輪っかって空洞じゃないんですねぇ。  死んだ先で、私の第一声は生きてた頃の癖で語尾がひ弱に伸びていた。 ――皆さんそう仰います。  私と同じ、薄黄色の発光円を頭に浮かべた上品なウェイターが私を席に案内してくれた。照明にこだわりのある純喫茶という風情。背中がうなぎパイみたいな籐椅子に死んだ背中がしっくりと馴染む。 ――空洞だと、レコードになりませんからね。  キョロキョロと店内を見回す、首が死後最初の回転に覚束ない。 ――これ、レコードなんですか?  これこれ。私の、だから、これこれ。思っていたよりも不躾に固い。ミリ単位でもずれてくれない。私の輪っか。 ――ええ、カウンターの奥にプレーヤーがございます。  丸眼鏡にオレンジの照明をチラチラ反射させてウェイターは語る。 ――再生をお望みなら。  つ、っと空気を滑るように私の輪っかに触った。私には不躾だったくせに、軽く外れる。指定席ではなく自由席だったの。そんなに安い席、だったの。プラスチック容器に入ったお茶がお似合いな。 ――そんな、簡単に動かせるんですね。  私が多少拗ねて言うと、ウェイターは全身で微笑んだ。 ――御覧下さい。  自分の頭上を力いっぱい触ってみせる。 ――誰も、自分の輪っかを動かせないんです。そういうことになってます。  あ、そういうこと。なら、安心しました。 ――再生をお望みなら、ご注文ください。 ――はい。  ご注文。  食品サンプルがなくても、輪っかにフォークが刺さっていなくても。  注文、していいのなら。  したくなったら、します。  けど、私の輪っかは、なにを再生するのだろう。 ――音楽、なんですかねぇ。生前好きだった曲、とかかしらぁ。  と、耳を澄ませる。意識が音にいった。  店内に音楽は流れていない。お客の話す声が絶え間なく、響いている。そのどれも意味ある言葉にならない。風のまま電信柱は逃げていくみたいに。 ――それは、お楽しみです。  ウェイターはお盆もメニューも抱えずに両手を股間に組んで立っていた。 ――では、お待ちください。  はい。  小さな丸いテーブル。クロスもなにもない。木目が時間の間違い探しを求めてくる。向かいの席が空席で、誰かときっと相席になるのだろうと思った。  注文を訊くこともせず、水を出すこともせず。去ったウェイターに、私はもっとするべき質問があった気がして、頭の輪っかを撫でた。固く、ビクともしない。頭との隙間に手をくぐらせると心がグンニャリ落ち着いた。生きていた頃は、不安になると私、おでこのお肉をグニグニしたものだけど。 ――お待たせ致しました。  コトリ。カタリ。  ソーサーにウエハースが二枚。ティースプーンは世界をまぁるくする。カップの中には褐色の黒。コーヒー? ――コーヒー? ――ええ。 ――ティースプーンがあるのに、お砂糖もミルクもないの? ――ええ。涙を、お混ぜ頂くのです。説明を致します。 ――お願いします。  ウェイターはお盆を抱いて説明してくれた。店内の喧騒が躾良く下がっていく。 ――ここは転生への中継地点になります。コーヒーをお飲みください。飲んでも飲んでも尽きることはありません。湧き続けます。しかし、転生への次の間に進むにはこのコーヒーを飲み干すことが必要です。飲み干すために、涙を落として混ぜて下さい。なぜ泣くのか、どの涙か。転生へのキーになりますので、賢明に選択して。と、言ってもどうやら選択の自由はないのかもしれませんが。  ウェイターの説明を受けて、カップの褐色した黒を覗いた。プカプカ表面に輪っかが揺れもせずいる。 ――泣くこと、なぜ泣くのか、答えを持って次へ、ってことかしらねぇ。 ――そのようです。ご注文はよろしいですか? ――あ、輪っかの再生? うん、まだいいです。 ――では、ご相席よろしいでしょうか? ――はい。 ――ありがとうございます。  ウェイターが去って、相席者が訪れる。自分で籐椅子を音なく引くと、どっこいしょと座った。品のいい身なりに真珠のネックレスをしている老婦人だった。  私は自分の身なりにそこで気が付く。随分カジュアルなフランネル。若かったのねぇ。そっか、みんな死んだ年齢の身なりなのかぁ。 ――初めましてね?  婦人が骨の強そうな声で語りかけてくる。ウィッシュボーンに不向きな声で。 ――はい。あの、ここ、初めてなんです。 ――あら、そうお。私はもう、永いのよ。中々涙の理由が思い出せなくって。 ――え、ここ閉店するんですか? ――閉店、というかね、眠たいって思ったら体が消えるの。 ――体が。 ――で、気が付いたらまたこの店の入り口よ。 ――なる、ほど。 ――コーヒーは冷めなくても、存在は冷めるのかもしれないわね。 ――はぁ。  カタリ、コトリ。ウェイターが夫人のコーヒーを置いていった。私に出されたものと狂いなく、同じ。 ――あなた、思い出せそう?  婦人は私がやったのと同じようにカップの表面を覗いていた。頭の輪っかがほんの少し、眩しい。 ――どうでしょう。でも、私、記憶力は自信あるんです。 ――お若いものね。早くゆけると思うわ。 ――ありがとうございます。  店内の喧騒に、音楽が覆い被さった。私の視界に輪っかのないお客が一人。スーツ姿のおじさん。白の混じった顎髭を掻いていた。 ――やっぱり、この輪っかレコードは生前好きだった音楽を再生するのですねぇ。 ――そのようよ。  カップの表面が音楽に波立った。ティースプーンが寂しそうにしている。タイトルが浮かばないジャズナンバーが店内をスイングした。  私はコーヒーを飲みたくなって、飲む。ゴク。喉をつたってお腹が温かい。飲み干すことができないことを確かめたくてグイグイと飲んだ。ソーサーに空に近くなったカップを置く。スーっと元の水位にコーヒー。雨の心配が要らなくていいわねぇ。 ――ウエハースは復活しませんからね。  と、婦人は愉快そうに言った。  私は言われたままに、ウエハースを一枚、舌に貼りつかせてみる。ブランブラン。 ――お行儀が悪いこと。  婦人はまた愉快そうに言った。  サクリ。噛みしだいた薄羽のお菓子は中にクラッシュチョコレートが敷き詰められてとても美味しい。 ――美味しい!! ――よね。  っと婦人は言った。  頬杖をついて、ぼんやりとした目で言葉を続ける。 ――泣くのに、そんなに大した理由があるのかしら。 ――喜怒哀楽、ある程度の理由はありますよね。 ――ふぅん。思い出せないの。私は転生できないのかな。 ――そんなこと。 ――思い出せないまま、また眠くなるのよ。お腹ダブダブにコーヒーを飲んでも、眠く、なるのよ。  婦人は物憂げに語った。首の真珠が高級そうにみえて悲しさが増した。 ――大丈夫ですよ、きっと。コーヒーを飲めるのなら。 ――あら、新入りさんの直感? ――はい。  私は元気付けたくて言ったのだけど、生気を取り戻して目を明るくする婦人をみて拳を握った。 ――嬉しいわね。  と、婦人はコーヒーを一口飲む。 ――あら、あら、あらあら。  え?  あら、婦人の両の瞳から滲んだ涙が、カップに吸い込まれていく。ティースプーンが追って透明人間が操作するみたいに。クルクル回転した。 ――思い、出しちゃった。やだ、スッキリ。眠気が晴れたわ。  婦人がコーヒーを飲み干した。 ――涙が視神経つたいに体の淀みを全部持ってってくれたみたい。  婦人は感傷もなく席を立った。 ――ウエハースお礼にどうぞ。お先に。  と、言い残して。  転生のためのキーになる涙の理由を、教えて欲しかった気もしたけれど、飲み干せないコーヒーでお腹を満たすと、そんな気も薄れていった。人の涙は私の涙ではないのだから。  さて。  私は目を閉じる。  泣こうと思った。  喜び、悲しみ、怒り、感動、出会い、別れ、快感、小説、映画、人生、人、全てが褐色に黒く渦を巻く。  私の、涙。  記憶が大口を開けて私を飲み干してゆく。 ――注文、お願いします。  私は片手を上げて、ウェイターに輪っか再生を注文する。  流れてくる音楽。記憶の大口がまた、広がる。 ――婆さんがいたらなぁ。  お爺ちゃんが台所に立っている。もう、自分の名前も思い出せないほど子供に戻っていたお爺ちゃん。 ――あの人のが一番良かった。  ジジジジ。コンロに火が点る。  私の、涙は。 ――お母さん、お爺ちゃん、また。 ――大丈夫、お母さんがみているから。あなたはお部屋にいきなさい。  嫌。  みていなくちゃ。  私はみていた。 ――お父さん。火傷だけしないでよ。  お爺ちゃんはステンレスのフライパンを焼くと、そこに涙を垂らした。私はあのフライパンで作った料理は食べないと心にびっこを引く。  お爺ちゃんは球になって転がる涙を何度も何度もフライパンの壁に跳ね返らせていた。  いつまでもいつまでも、飽きることなく。  私とお母さんはそれをみていた。  あれは、お爺ちゃんの涙だ。  私は聴こえてくるオールディーズにカップの表面と共揺れしながら、ウエハースをベロにくっつける。  お母さんは叱ってくれなかった。お爺ちゃんのことでお母さんは疲れきっていた。  お爺ちゃんが亡くなって、私は。  フライパンを転がる涙の球が、コーヒーに吸い込まれる。ティースプーンがクルクル回った。  転生。  終わりの続き、涙の理由。  私は席を立った。       
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