泣くつもりなんてなくて

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 トンシャカ、トンシャカ、トンシャカ、トンシャカ。台所で包丁を叩く音は、牛が草でも食むように、どこかのんびりだらりとしている。広香の母である素実子の人柄を表すように。牧場に一緒に行った時、共に食べたアイスの冷たさに、子どもの私よりも露骨に、顔をしかめていたのを思い出す。 あれから母にはいくらか白髪が髪に混じるようになったけれども、ぞんざいに後ろでまとめた髪型や、包丁を動かすリズムは何も変わっていないのだなと思う。  子どもの頃から大人になった現在までに、母の横で、ウサギの顔したピーラーで、数えきれないくらいのニンジンとタマネギとジャガイモの皮をむいた。最後の日の今日もそうしたかったけれども、今日は母の方が「広香ちゃんになんでもしてあげたいのよぅ」と言って譲らなかった。今日の夕食はクリームシチュー。基本のニンジンタマネギジャガイモ鶏もも肉に、更にシメジとコーン缶まで加えた、素実子の得意料理であり、広香の大好物でもあった。  せめてもの手伝いにとテーブルを拭いていると、いい匂いのするシチューの器と共に、ポテポテ母がやってきた。 「今日はいいっていったのにぃ、」 「お皿乗っける前に拭いた方がいいでしょ」  口をとんがらせる母に反論しているうちに、テーブルが綺麗になった。シチューの付け合わせのパンは、チョコチップのスティックパン。子どものころ、献立がクリームシチューの時にスーパーでこれが食べたいと駄々をこねてから、ずっとコレ。時々もう子どもじゃないんだから、なんて拗ねてみせた時もあったけれど、甘党で子ども舌がいつまでも直らない広香にとっては、今でもずっとご褒美メニューだった。 「甘い」  パンをかじって、シチューをすすって、対面の母に広香が言って見せれば、母はのほほんと微笑む。一人っ子の母子家庭だった広香の人生には、いつもこの笑顔がついていた。それがずっと、ずうっと続くものだと思っていたのだけれども。 「今度からは、広香ちゃんが愛しい人に作ってあげるようになるのねぇ」  しんみりと考えていたところに、母が言うものだから、やっぱり親子だなあ、行動パターンが似るなあ、なんて思いつつ、あやうく喉にシチューの具が引っかかりそうになった。 「まだ気が早いよ、結婚式も終わってないのに」 「でも新居はもう決まっているし、式はもう明日でしょう。広香ちゃんは私よりとってもしっかりした子だから、大丈夫だとは思うけどぉ」  ぽやぽやとしている割に、シチュー皿の中身が減っていくのは大変早い。母は昔から、食べるのだけは早いのだ。しみじみと閉じた目に、小じわが目立つ。わざわざ言わないようにしていたものを、のんびり屋の母が珍しくスパスパ的確に言うものだから、広香の心はざわざわと、波のように静かに揺れるのだ。 『おかあさん、カニさん!』  頭の中を、海に遊びに来た子どもの頃の自分が、パタパタと駆けて行った。連想するもの、全て母に結びついてしまっていけない。リモコンでテレビの電源を入れる。 「この芸能人、仁志さんに似てるわねえ」 「ええー! 似てないし、仁志はもうちょっとカッコいいし似てない!」 「あらあら、もういっちょ前におノロケ奥さんね」  あの広香ちゃんがねえ……。最近事あるごとに言われている決まり文句を聞くと、実感が新幹線のように迫って来る。おばあちゃんちに二人で遊びに行く途中で食べた、冷凍ミカンの冷たさ。ああなんかもうダメかも……と集中できないテレビから母に目を向ければ、いつも眠たげな瞳からボロボロ、ボロボロと涙の粒をこぼしている。 「ごめんなさいねえ、泣くつもりなかったんだけど……」  母はそのマイペースさでもって、嫌な事辛い事を上手い具合に無効化してしまうのだろうか、あまりなく人ではなかったはずなのだけれども。女手一つで子を育てるのは、色々娘に見せない苦労もあったに違いない。ほとんどの保護者参加の学校行事を、母は出来る限り来てくれたっけ。気恥ずかしい時もあったけれど。広香は、思春期そっけなくしつつも、やっぱり嬉しかったのだ。 「母さんが泣くから、もらい泣きしちゃったよ、もう!」 「そうねえ、いけないわねえ。広香ちゃんだってもしかしたら、色々あって戻って来るかもしれないし……」 「それはダメ! なし! そんなんなくても盆と正月くらい帰ってくるしっ」  コーンで甘いシチューに甘いパンの、広香の独身最後の晩餐は、温かくてしょっぱかった。
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