ハッピーエンドを目指して

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 晴が生まれたとき、俺だってそのこと少しも考えなかったわけではない。  翔平がしてくれたように、彼の両親の前できちんと頭を下げる。それは勝手に妊娠をしたうえ事後承諾の形しか取れない人間がするべき、最低限の礼儀だったと思う。  しかし肉体的には無理のあった妊娠出産によるダメージは思いの外大きく、まず退院までには産後二週間を要した。  その後も中々体調が戻らず、新生児の世話に手いっぱいだった翔平も何度挨拶に行こうと誘っても首を横に振るばかり。  いや、全ては言い訳だ。出産前だから、晴がまだ新生児だから、産休明けだから、転勤だから。忙しいからと理由をつけて、問題を先送りにしていた。どう考えたって軽蔑の眼差しを向けられるであろう現実を、今この瞬間まで誤魔化してきたのだ。 「まさか置き手紙ひとつで家を出て、そのまま音信不通だったなんて思いませんもの。叔母さまからお聞きしたときには本当に驚きました」  うふふと人の悪い笑みを浮かべている綾乃は、翔平の指定で助手席に座っている。近ごろチャイルドシートを脱出しようとばかりする晴を後ろであやしながら、俺はピリピリした二人の会話に恐れ慄いていた。 「そう言う綾乃さんはどうなんです。俺にひと言の断りもなく母を連れてくるなんて、何を考えているんですか」 「あら、私は時臣さんと一緒に本家に行って、直接絶縁状を叩きつけてきましたよ。父と弟のことは世界一嫌いですから、なんの問題も躊躇いもありませんでしたけど」 「えッ、あの伯父さん相手にですか!?」 「まあ家族ですから、その辺の遠慮のなさはありましたね。今でもたまーに連絡を下さるので、去年のお歳暮には珪藻土マットを送って差し上げました」 「……伯父さん泣いてますよ」 「あの人が泣くわけないじゃないですか」  あの榊の家長に『踏みつける』の意がある品を送りつけるとは恐ろしい。可愛い顔をしてやる事がキツイのは血の濃いアルファ女性らしいが、性反転をしたはずなのにあまり変わっていない気がするのは何故だろう。 「私よりも貴方たちの方が問題でしょう。晴ちゃんは叔母さまにとっては初孫にもなるんですから」 「綾乃さんなら俺の両親の気質はご存知でしょう。話しても通じないと分かっているから、一方的に出てきたんです。榊のレールから外れる息子なんて、あちらも願い下げでしょうしね」 「それは確かにそうですけれど、礼を欠いていい理由にはなりません」  返す言葉もないとはこのことだ。理由はどうあれ義母の方からこうして来てくれたのだから、こちらもそれを正面から受け止めなければならない。  ミラーに映る翔平の不満げな表情に、ますます胃が痛くなった。  ファミリー向けの2LDKとはいっても、賃貸の広さなどたかが知れている。  加えて基本三年に一度は転勤になる俺の職業。緩い南国の空気と自由気ままな生活に慣れた俺たちの家に、セレブな客をもてなせるだけの家具などあるわけがない。  夏用のい草ラグと、三人家族には不自由ない折りたたみテーブル。晴の玩具がなんとか彩を与えているが、男所帯の飾り気のなさがこの時ばかりは逆効果で頭を抱えたくなる。 「どこに座ればいいのかしら」 「お茶やお華のときもソファーに座ってるの?」  いきなりジャブを撃ち合う二人の間を、きゃーッと奇声をあげて晴が駆け抜けていく。毎日のように見ているのに、晴はこの部屋一番の美点、窓から望むエメラルドグリーンの海が大好きだ。 「みー、きえー」 「あら本当、海がすごく綺麗。眺めのいい素敵なお家ねえ、晴ちゃん」 「んー」  窓辺からの景色を見た綾乃が笑いかけると、もじもじと恥ずかしそうに晴が俯く。 「お茶を淹れますので、どうぞお寛ぎください。あ、椅子とかなくてすみません。離島からだと持ち出すときに高くなるので、あまり嵩張るものは買わないようにしていて」  他に選択肢もなくテーブル周りに置いたフロアクッションを勧めると、無言のまま義母は安いクッションに腰下ろした。その場違い過ぎる姿に、申し訳なくて泣きたくなる。 「そ、粗茶ですが」  謙遜でもなんでもない、しかし自分たちだけの時は買わない価格の茶葉を使ったお茶を出し終えると、シーンと効果音が浮かんでいそうな冷めた空気だけが残った。  お茶請けに出したサーターアンダギーは、そもそも綾乃のリクエストの地元人気店の品だ。咳払いすら憚られる狭いリビングで、晴だけが気にすることなく皿に並べられた好物に手を伸ばしている。 「葉書の一枚すら頂かなかったけれど、翔平さんは随分とお忙しかったようね」 「ええ。晴の世話と引っ越したばかりの環境下での生活。立派な主夫業をこなす傍ら、インストラクターのアルバイトもして家計を助けていましたから。毎日が楽しすぎて、すっかり転居連絡を出すことを忘れていました」 「まあ、ご立派だこと。それなら、見たところお嬢さんも大きくなられたようだし、そろそろ復学を考えてはどうかしら。まさかこのまま、転勤族の奥さまに貴方が一生付き合うつもりではないんでしょう」 「そのつもりですよ。復学もしません。榊で認められる生き方ではないことは百も承知です。ですから家とは縁を切ると、手紙にも書きました。俺はこの先の人生を、俺の選んだ家族と生きると決めたんです」 「……まあ」  頑ななまでにきっぱりと言い切った翔平の態度に、義母の手がほんの一瞬だけワンピースの裾を握りしめた。 「お父様が聞いたら、なんとおっしゃるでしょう」 「父をダシにするのはやめて下さい。家で決定権を持っているのは、榊当主の妹である貴女の方です。なんと言われようと俺の気持ちは変わらないし、いまの生き方も生活も恥とは思っていません。お話がそれだけでしたら、もう俺から話すことありません。お引き取りください」 「随分な歓迎ね。確かに、いま話し続けても無駄骨になりそうだわ。でもね、そもそも彼方の大学進学を希望したのは貴方なのよ。言わば私とお父様は、貴方の将来に投資をしたの。それをひと言の断りもなく破棄していいと、本気で考えているのかしら。中退をするならするで、きちんとケジメは付けるべきでしょう」 「叔母さま」 「……悪いけれど、長旅で疲れたようなのでもう失礼させていただくわ。綾乃さん、明日はゆっくりと観光でも楽しみましょう」 「は、はい。すぐ中野さんに連絡をしますね」  ぴんと伸びた義母の背中が玄関を向かうのを、俺は情けないまでにぼんやりと見送ることしか出来なかった。  座ったまま床を睨んでいる翔平も同じだ。義母の言っていることは俺たちには痛いけれど、どこも間違ってなどいない。抱えた命と目の前の幸せに手一杯で、たくさんの大切なことを疎かにしてきた付けが回ってきただけだ。 「翔平、ごめんな」  他に言葉が見つからなくてそう言うと、無言で翔平の首が横に振られる。その横顔がなんだか寂しそうで、一度も晴のことを気にかけてもらえなかった事実が悲しくて、俺は久しぶりに自分の選択を少し悔やんだ。
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