古き流行りの揚げドーナツ

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 幸せは~歩いてこない♪  だ~から歩いて行っくんだね~  こんな陽気な歌を口ずさんで歩いていると、まるで今日良いことがあったようにも思えるかもしれないが、そういうわけではない。なんなら今日は悪い一日だったとすら言える。  それでも私は少しばかりの笑みを浮かべて、テンション高めに足を進めていた。  会社帰りの空を見る。  8月も最終週を迎え、少しは暑さも和らいできたものの、快適というには程遠い。  それを抜きにしても、定時に帰ればまだまだ空は明るいのだが、残念ながら見上げた空は真っ暗で、東京という街が明るすぎるせいか、それとも空気が悪すぎるせいか、星は皆無と言っていいほどに見えない。  会社を出たのは確か21時前だっただろうか。あー、疲れた。  今日みたいに帰るのが遅くなった日には無駄に路地の奥の方を覗いてみたり、空をいつもより多く見てみたり、なんか気分の高まる曲を鼻歌交じりに口ずさんでみたり。そうやって、その日の残業に対して、「ま、こんな日もあるか」と折り合いを付けるのが私の習慣だった。 「それ、ワンツーワンツーっと」  ようやく地下鉄の駅まで着いて、改札階まで軽くステップを踏みながら降りていく。  私の使っている駅は会社まで徒歩25分。もっと近い駅もあるけど、そっちを使うと乗り換え回数も時間も増えてあまりメリットがないのだ。散歩が趣味の私としては25分ぐらいの距離だったら歩いてしまおうと、この駅を使っている。  階段を降りきり、改札が見えてきたので、電車の定期券を出そうとする。そこで悲劇は起こった。 「え? 定期券がないんだけど」  いや、ちょっと待って? あれ? 私、左ポケットに入れなかったっけ?  右ポケットを確認してもやっぱりない。  鞄の中を探してもやっぱりない。  考えられるのは2つ。  会社の制服から移し忘れたか、途中で落としたか。  会社の制服から移した記憶は? あるようでない。  落とした記憶は? あったらその場で拾ってるっつーの! でも、何度か定期券と同じ場所に入れているハンカチは出していたから、落としていないとは言い切れない。 「…………うへぇ」  だらだらと冷や汗をかきながら顔をしかめた。いや……、嘘でしょ? こういうことってある? しかも残業して、明日も普通に平日で、できるだけ早く帰って寝たいっていうときに! 「うう……仕方ない、戻るか」  一瞬、今日は定期券を使わず切符を買って帰ろうかとも思ったが、万が一、定期券を落としていて悪意ある人間に拾われたらと思うと、そのまま帰って寝ても良い夢は見られないだろう。  うう、泣きたい……。    ◇◆◇◆◇◆  結論から言うと定期券は制服のポケットにしまってあった。  いつもはきちんと制服を脱ぐときに私服に移すのだが、今日は疲れていたから、忘れてしまったのだろう。 「あー、熱い……。しんどい」  夏の峠を越したとはいっても、まだ夏は夏。  誰かに拾われるという焦りから会社に戻る私の足は自然と速くなり、会社に着く頃には汗だくになっていた。  うーん。これ近場の駅から帰ろうかな……。あるいはタクシーを使うか……。  近場の駅なら10分ぐらいで行けるが、そうすると乗り換えは増えるし、最終的な帰宅時間も遅くなってしまう。  タクシーを使った場合は言わずもがな、お金が掛かる。 「それになんかここでそういうことすると負けた気分になるのよねぇ」  別に誰と勝負をしているわけでもないのだから、そんなことを思う必要はまったくもってないのだが、ともかく負けた気がして悔しいのだ。 「よし! 頑張って歩こう」  うん、そうだよ。どうせまた鼻歌でも歌ってれば25分なんてすぐすぐ!    ◇◆◇◆◇◆  それから私は、駅に戻り、、そして、今、ようやく、今度こそ、駅にたどり着こうとしていた。 「いやおかしいでしょ私!? なんで忘れ物を繰り返すのよ!?」  定期券を取りに戻ったときに、他に忘れ物はないかどうか確認するために、ロッカールームで一通り、鞄から物を出し、そのまま家の鍵をしまい忘れてロッカールームに置いてきてしまったのである。  あ、あるよねー……。こういうこと……。 「いや、ないよ!」  私が突然出した大きな声に前の人がビクンとしてこちらをチラ見してくる。  心の中で謝りながら慌てて頭を下げる。は、恥ずかしい……。  結局、会社と駅を2往復半したせいで時刻はもう23時前だ。正直、足も心も疲れ切っている。もちろん残業のせいではない。  いや、あるいは、残業で判断力が鈍っていたせいで今日みたいなことが起きたのだと考えれば、残業のせいとも言えるのかもしれない。  つまり、私、悪くない! 「ああ、心を癒やしたい……。っていうのと単純に休憩したい……」  そういえば、駅の近くにはあの有名なドーナツ屋があったではないか!  そう、ライオンのたてがみのようなドーナツが有名な『ミズ・ドーナツ』。略して『ミズド』である。  最近読んだ漫画のヒロインがミズドの『エンゼルなんとか』とかいうドーナツを食べていて、私も久しぶりに食べたいなぁと思っていたのだ。  といっても、平日は食べるとしたら夜になっちゃうから、甘い物は採りたくないし、休日は出無精でなかなか行く機会がない。  でも今日は問題ない! 疲れた心を癒やし、体を休めるという崇高な理由があるのだから!  お店に入ってみると、流石にこんな時間だからか客はいない。っていうかもう片付けようとしてない? 「えっとー、まだやってます?」  店員さんに聞く。深く考えずにお店に入ってしまったが、ドーナツ屋がそんなに夜遅くまでやりはしないだろう。閉店とはまだ書いてなかったと思うけど……。 「閉店が11時ですので、テイクアウトでしたら大丈夫ですよ」 「あー、そうですか……。わかりましたー」  本当はカプチーノでも飲みながらゆったりとしたかったけど、こんな時間だし仕方がない。  トレイを手に取ってドーナツが並んでいる棚に向かうと、思ったより品揃えが少なくて驚く。  ああ、そっか。閉店間際だから残りものしかないんだ。  目当ての『エンゼルなんとか』は……なさ、そう? 「まあ、そうだよねー」  だってあれ人気そうだもん。むしろここはきちんとその日の分はその日のうちに売り切るミズドの店員さんに敬意を表するべき!  うーん、どれにしようかな……。なんかノーマルっぽいのしか残ってない。  結局、古き流行りの揚げドーナツみたいなのとカプチーノを買って店を出る。 「なんだろ、心を癒やすために寄ったのに、結局普通のドーナツを買うっていう」  少しお行儀が悪いけど、ドーナツをかじりながら駅の階段を下りる。 「あ、結構おいしい」  ミズドに最近行っていなかったというのもあるし、そもそもミズドではこの古き流行りの揚げドーナツみたいなのは食べたことすらなかった。  まあ、トッピングもなにもされていないドーナツをわざわざミズドまで行って食べる必要があるかと言われると微妙なところだけど、どこか懐かしい感じがするなぁ、これ。  ホームまで降り、ベンチに座る。  こんな時間だから、電車はすぐにはやってこない。  そういえば昔、お母さんに揚げドーナツを作ってもらったっけ。  別にドーナツが好きだったというわけじゃない。たぶん、アニメかなにかでドーナツを揚げているシーンを見て、食べたいとお母さんにねだったのだろう。  そんな懐古的な感傷にやられたのか、ドーナツを食べて膨らんでいる頬を涙が一滴流れた。 「あ、あれ? なんで?」  慌てて涙を拭う。  幸い、それ以上の涙が目からこぼれることはなかった。  別に泣くような場面じゃないのに。  そりゃ母親が小さい頃に亡くなってて、母の味はもう食べられないとかだったらそういうのもアリなんだろうけどさ?  お母さんバリバリ生きてるよ? この間お盆に実家に帰ったときも超元気だったし。  たぶん、仕事の疲労とか、会社と駅の2往復半とか、幼いときに食べたのとおんなじ味の普通のドーナツとか。  そういうのが混ざりに混ざって、複雑な化学反応を起こして涙になってしまったのだ。 「こりゃ、ドーナツもたまには食べないと駄目ね」  変なところで涙が出てしまってはたまったもんじゃない。 「あ、そうだ」  ひとつ、思いついて、携帯電話を鞄から出す。  そして、メッセージアプリでお母さんにドーナツの作り方を教えてほしいという内容を送った。 「まあ、もしかしたら、私だっていつか自分の子供にドーナツを揚げてやったりするかもしれないしね」  そう独り言を口にしつつ、カプチーノを飲む。そういえばあのときは流石にドーナツとコーヒーを一緒に飲んだりはしなかったな。子供だったし。  うん、ドーナツの甘さとカプチーノのまろやかな苦みがよく合っている。  少しして携帯電話が震えた。早くもお母さんが返信をしてくれたらしい。 『あんた、彼氏もいないのにドーナツの作り方なんか聞いてどうすんの?』 「彼氏がいるかどうかなんて関係ないでしょ!?」  駅に人がいないのをいいことに、お母さんのメッセージに声を出してツッコむと、私は半泣き状態で抗議の文面を打つのだった。    〈了〉
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