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喜
時刻は午前の十時。
イヤホンから流れる音楽に耳を傾ける。アップテンポな曲調は耳元から零れ、かすかに流れるその音は隣の席を占拠する誰かさんに聞かれる事となる。
聞いたことがある曲。……だけど曲名は知らないと答える彼女に、お気に入りの音楽家だと口端を上げて答えた。彼女はつまらなそうに仕事に戻る。
其処は読書に最適な、落ち着きのあるカフェテリア。
BGMに耳を澄まし、本棚に囲まれた空間に思いを馳せる。
そんなことが出来るから、僕はその場所が気に入っていた。
「ああ。……耳が天国。」
「何?今日を命日にしたいの?」
「……いや、死ぬ予定はないんだけど。」
相変わらず饒舌に毒を吐く彼女に対して、やれやれといった調子を見せる。
それがあまりにもわざとらしく見えたのか、不機嫌気味に蹴られた。不機嫌そうな表情を崩さない彼女は、さらに言葉を続ける。
「……陸は?」
「彼?ああ。今来るって。さっき連絡来た。ほら。ハートマークいっぱい付けたら良い感じにキレられたよ。」
「俊、火に油注ぐのだけは得意だよね。」
「それが本業なモノで。……っと。そうだ。コーヒーお替りでござる。」
そういって、ティーカップを目の前に。
さらに不機嫌な顔を続けるが、業務中の彼女は断らない。彼女は舌打ちをしてそれを片付けながら、厨房の方へと戻っていった。その様子を眺めながら、パソコンに向かい作業の続きとする。
おとといの動画を編集しながら、先ほどのコーヒーを思い出した。
苦みらしい感覚を持つそれは、名称をそう呼ぶらしい。
だけども、舌が効いていない僕にとって、その名称は意味のあるものではなかった。
食べ物に至るまで、飲み物に至るまで。
泥水と変わらないそれらは、栄養学を基にしなければ食べ物でさえない。
……それを詳しく語るのなら。
僕は、一般的な健常者とは言い難い。
耳は聞こえるし、目が悪いわけではない。
鼻は効いているし、感覚に障害はない。
だけども僕は、味覚が鈍い。
元をたどれば、昔から食べることが苦手だったことに起因する。
物が嫌いなのではなく、食べるという行為が苦手だった。口に物を運び、咀嚼を繰り返し、飲み込む。この一連の作業が、どうしても苦痛な人間だった。
その上、年月を重ねるにつれて味を感じなくなった。その原因は大抵がストレスと栄養失調という事らしいが、身に覚えのない話だ。
食事をしないのだから、栄養が無いのは当たり前だと思う人もいるだろう。
だけど僕にとっては食事こそ苦痛で、それこそがストレスとなる。
拒食症に近い症状だと言われても、自分自身ではどうしようもない。
食べることが苦痛な人間にとって、それ以上は望めない。
自分の常を理解しているのだから、それは何時しか、他人に言われる筋合いでも無くなった。
そんな自分も、コーヒーの苦みだけは理解出来る。
他人がどう感じているのかを理解できるのと、出来ないのでは大分違うものだ。
「もう。……一年か。」
溜息をついた。
あの惨事からもう一年だ。
そんな気分に浸っていると、友人達から返信が届く。
曰く、もう少しでこの店に来れるらしい。
別な友人の方は、もう暫くかかりそうだ。
「あいつら、もう暫くかかりそうだってさ。」
「……あっそ。」
「とりあえず、俺たちだけでも生放送始める?」
「全員そろってから。……って言ったの。何処のどいつだっけ?」
「さーて。誰だっけ。……ま、そうしますか……。あ、コーヒーまだ?」
「今炒ってっから待ってろ暇人。」
そういいながら、文句を吐きながらも真面目な部分は変わらない。
そうして仕事に戻る彼女の後姿を眺めながら、こちらも作業を仕上げる事にする。
文芸と書かれた記事と共に、五日前の動画を公開した。
同じ高校。同じ文芸学部の僕らは、何の縁かこうして集まり、日々作業している光景や、その他企画ものなどを考えて動画を投稿する中となった。
編集は 品川俊(しながわしゅん)が。
企画を 藤井竜輝(ふじいりゅうき)が。
機材担当は、大宮渚(おおみやなぎさ)が。
音楽関係を、八乙女光(やおとめひかり)が。
そして、デザインを渡部(わたべ)ミミが。
それぞれが得意分野を生かし、部活の宣伝と共にその他企画で、文化祭の盛り上がりにも貢献をした中。
今回集まったのは、冬に向けて校内限定放送の準備。
食材を買い込んだ男性チームと女性チームに分かれての料理バトル。又、文芸部で鋭意制作された書物の発表など目白押しな企画を消化するためである。
舌の感覚が無い僕にとってはあまり好ましくない企画だと思われるが、小食で名の知れている僕は料理に対する審査、および作る側に回れない。という事で、もう一人。この喫茶店のオーナーであり、彼女の父上に厳正な審査を以て決めてもらう事となる。
「ねえ、光。」
「何?」
店の奥で作業を続ける彼女を呼びとめる。
不機嫌を貫く彼女は、そうした表情でこちらを見る。
「やっぱあいつのこと諦めないん?」
「……急に何を言い出すの。」
「いや、やっぱあいつの事好きなんだなって。」
「……悪い?」
もちろん悪いことはなく、個人の恋愛感情に対して野暮を貫くことも無い。
彼女が僕の友人。藤井竜輝(ふじいりゅうき)に恋愛感情を向けていることは、その言動からして明らかであり、それは彼の友人。彼女の知人の一人として、祝辞を述べたいほどに筆舌に尽くしがたい感情が芽生える。
……彼女たちの境遇を知っているからこそ。
……彼女たちを理解しているからこそ。
そういった話に、応援の気持ちを抱かない訳が無かった。
しかして、現実はそうも言えない。
彼にはすでに意中の者が居て、それは僕らの友人でもある。
その事実を持っ得すれば、僕が述べた筆舌に尽くしがたい感情というのが分かってくれると思う。
その事実を知らないであろう彼女に伝える機会はなく、こうして半年が過ぎている。
誰が悪いという訳でもないし、恋愛感情に良しあしが無い事は分かっていても。
それが届かぬ淡い物だと知っているのなら、言葉がこぼれそうになる気持ちも理解してもらいたい。
この事実を知っているのは、多分僕だけだ。
この思いを知っているのは、多分僕だけだ。
零れそうになった言葉を慌てて飲み込んだ。
代わりに吐いたのは、この一年の思い出だ。
くだらない思い出話を、実に楽しそうに答える事しか僕にできる事はない。文字の羅列は、そのこと如くが意味ありげなくせに、尽くは意味を模さない。
僕の味覚のように、味気ない語りでも彼女は耳を澄ましている。時折混ぜる毒舌は、意味を模さない言葉ではなく、中身がまるでなっていない僕自身に向けられているだろう。反省するべき点を的確に示す言葉は、届いている癖に直そうともしない。
反省の色さえ見せない僕は、言葉を語る。
味気ない言葉は、それでも誰かを救っていたのだから。
僕は、あの食事だけを覚えている。
味気ない食事だけを知っている僕は、食事を楽しむという言葉の意味が理解できない。楽しむ食事というのが僕には苦痛だし、それは味を失った今でも同意だ。味気ない食事を咀嚼する行為は、行為自体に意味はあっても、感情や趣味は含まれない。
彼女だけは、それを楽しそうに取っていた。
自他ともに認める天邪鬼は、人の前で食事をすることを日課としていた。
他の友人が気を使ってくるのに対して、彼女は容赦なくその行為を見せてくる。
鮮やかな色で彩られた、自身の自信作であるといったそれをいつも嬉しそうに摂取していた。それが趣味だとでも言うように、毎日毎日。彼女はそれを見せていた。
……いつしか、それに興味を抱いた。
楽しそうに。それを趣味としていた彼女に。
それが出会いとなり、共通の趣味を持つことが分かり、中を深め。友人と言える中まで発展した。僕が味を理解できないように、彼女が痛みを理解できないことを知ったのは、それから数年後の話になる。
僕らの友人。絵を描くことを趣味としていた、渡部(わたべ)ミミ。
僕が初めて心を打たれた彼女は、一年前。交通事故により帰らぬ人となった。
彼女との別れは、最後の食事だった。
当時、進路がどうだとか先のことを語り合っていた僕たちは、部活動の合間を縫って食事をするのが日課になっていた。
もちろん、僕は食事を苦手としているので何もせずに、ただ運ばれている料理を眺めながら、語る言葉を絶えずといった感じで自分自身を表現していた。
……そんな僕に呆れたのか。それともただの悪戯だったのか。
突如として家に押しかけられた僕は、袋いっぱいの材料を見せつける彼女の指示に従って、渋々ながらテーブルに座った。
数十分の時間の後、僕の目の前には食事が用意されていた。断ろうと軽口を語ろうとする僕に、彼女は語る。
「君に、嫌がらせをしに来ました。」
いつも通りの表情。
いつも通りの振舞。
其処に悪意は感じられず、ただ、二人だけで食事をしたかったのだと彼女は続ける。
何とも情けない表情をしていたと思う。自分自身、あの場でどのような表情を浮かべていたか記憶はないが、……多分、人に見せられぬような顔をしていただろう。
……二人だけの食事だった。
……いつものように、料理は味気ないものだった。
だけど、いつもとは違う何かがあった。味気ない食事の中に、会話の中に、何か熱するものがあった。
香りだけが一人前の料理を平らげ、食後にと渡されたコーヒーを飲む。
「ねえ、これに味はある?」
彼女が聞いてくる。
相変わらず味気ない料理。コーヒーだけは、確かに苦みを感じた。
それはそれはおいしいとは言えぬものだけど、味気ない料理よりは確かにマシかもしれない。
「……でしょ?君は、苦みだけは分かるんだ。」
彼女は何時も通りに笑っていた。
……その意味が分からないかった。苦いだけの味の意味に、ぼくは意味を示せなかった。
理解が出来なかった。
「今まで通りの味気ない料理だろうな。君にとっては。」
「今まで以上に味気ない料理だよ。」
「それは失礼だね。……私だって一生懸命に作ったんだよ?」
「何分苦みしか分からないからね。……君がどんなに頑張っても、ぼくは理解できないのさ。」
「……でも、苦みだけは理解できる。」
「……。」
それは確かな答えではなかったけれど、僕にとって精一杯の答えだった。
自分は語る事だけが一人前だった。そのくせ、飾れる言葉なんて一言も理解していなかった。
ただ、天邪鬼たる僕は、天邪鬼たる彼女にそんな答えしか答えられなかっただけに過ぎない。
「それはきっと、どんな味を理解できるよりも。……辛くはあるけれど、大切な事だったでしょ?」
ああ。自分だけが知ったのだ。
彼女があまり裕福ではないのを。そのくせ笑顔だけは腐らせず、表情を変えることなくこんな事をした理由を。……その話を理解していた僕だけが知っていて、この食事の意味さえも僕だけが知っている。
味気ない食事の中に、思い出が含まれていることを知っていた。
だから、嫌いな料理も、食事も。噛んで、噛み切り。飲み込む必要があった。
これが最後の食事だと知っていたから、ぼくは噛みしめてそれを飲んだんだ。
「この料理も、君が感じたこの味も。忘れないで。君が一番大切にしてきたものと一緒だから。」
彼女はいつか自殺をする。
それを理解しているのは僕だけだった。
……彼女が死んだのは、その後の話だった。
連ねていると、不意にスマホが着信を語る。
饒舌な話を其処までとして、不機嫌極まりない彼女に断りコールに出る。あて先はもちろん自分。相手はこれまた怒りの声を隠さない友人。藤井竜輝(ふじいりゅうき)。
何時にも増して怒る様相を見せる。着信とともに送った文面に嫌気がさしたのか、はたまた不遜な態度が気に食わないのか。
そんなに怒ると鉄分不足で熱中症の心配がある。僕は軽口としてそう話題を含ませた。
「お前、打つぞ?」
「直喩的すぎでしょ。んで、今どこ?あれだったら手伝う?」
「……ああ。それはいい。こっちで準備終わった。だけどお前。石名の電話無視しただろ。お前がやりたい事なんだからめんどくさいものも俺に押し付けるな。打つぞ?」
「あ。……それ真面目に忘れていた奴。ごめ。」
「……ったく。とりあえずそっちにはもう少しで着く、渚と一緒だ。」
「了解。車には気を付けてね。」
その言葉に、彼の声に熱はなかった。
それが冗談ではない事を知っているからだろう。
それ以外の理由が、僕には見つからない。
「……ああ。全くだな。」
真面目な彼はそう答える。
彼女との思い出は廃れていない。
あの時の料理の味は、同じような事を繰り返したって忘れる事は無かった。
自分が止めるべきだったという攻め立てる声も。
自分が守るべきだったという自分自身の声も。
今でもそれは確かにある。
だが、不幸な人間にとって、持続的な地獄はどうしても我慢がならない事も知っていた。
そして、それをしなければ改善されない状況も、確かに存在していたことも知っていた。
彼女が終わりたいと語っていた。
自分は止める事が出来なかった。
それがすべてであり、これ以上の話はない。
自分よりも不幸な人間に、語る言葉は意味をなさなかった。
「君が一番大切にしてきたものと一緒だから。」
自分が一番大切だったものは、もうこの世界にない。
だけど。僕は口角を上げる事にした。
もう一人の天邪鬼のように、それが自分自身であるのだ。
噛みしめるほど苦い思い出は。
過去になり、今を作る。
今日も、苦みを食んだ。
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