五辛女子

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 あれ、俺、なんで泣いてるんだ?  目の端で零れ落ちる寸前の水溜まりを感じて、そう不思議に思っているうちに、涙より先に、こめかみから頬へ汗が滴った。  なるほど、体外へ噴き出そうとする水分が、もはや顔や頭皮の汗腺では不足だと、涙腺に回ってきたか。いや、涙腺だけではない、鼻の粘膜からも体液が滲み出してきた。  今日、今、この時まで、辛いのが苦手だという自覚は無かった。幼き頃から口にしていた母お手製カレーに使われるカレールウは、辛口と中辛のハーフ&ハーフ。夏には、それに獅子唐が投入されることもあった。自分でレトルトカレーを選ぶ時は、決まって辛口。外食時に食べる欧風カレーにパンチが足りないと感じることも、しばしば。だから、どちらかといえば、辛いのは人よりきっと、少し好き、くらいの気持ちだった。  それが、「三辛」でこれか?カレーの味を感じない。ただ、辛い、むしろ口内が痛いだけ。  そろっとカウンター席の隣に座る人物を見た。黒いロングヘアで横顔の三分二を隠した彼女は、五辛のカレーを厚化粧の顔に汗一つ掻かず食べていた。 「それ、本当に美味しい?」  彼女…俺と同じ大学で同じ講義をとっている、不幸があったわけでもないのに全身黒衣の女、網代廣奈(あじろひろな)は、視線だけを動かし俺を見ると、心底呆れたという様子で言った。 「だから、一辛にしとけばよかったのに」 「だって、網代は五辛だろ?三辛でここまで辛いとは思わなくて…」  廣奈はカツカツと皿の上で殊更に音を立て、白飯と赤み強めのカレーを良い塩梅でスプーンに載せると、真紅に塗られた唇の奥に運び込んだ。 「それ、俺のカレーの辛さの三倍?四倍?よく食べられるな。やっぱ辛いだけで、味しないんだろ?」 「まさか。普通にカレーの味するよ。辛さだけを求めてる時は、七辛か八辛にするし。あ、言っとくけど、私、食いさしなんて食べたげないからね」  俺は、わかっている。辛い物を食べられることが、どれほど偉いということでもないのだ。ただの、味の好みなのだ。  だけど、女子と、しかも、とくべつ気になっている子と、講義終わりにカレー屋に入り、五辛を頼んだ彼女に向こうを張って…しかし、メニューに表記された唐辛子マークの数に怯んで五辛ではなく三辛を選び、それでも辞めておけとの忠告を聞かずに注文し、そして、汗にまみれ、涙を滲ませ鼻水をすすって必死でカレーを食べているこの状態は、どう見ても絶対的に恰好悪い。  一旦口内の辛味、むしろ痛みをクリアにしようと、水の入ったグラスに手をのばしたところを、「水飲むとますます辛くなるよ」と二度めの忠告が飛び、流石に今回はそれに素直に従った。  だがしかし、この辛さから一時避難することも出来ないのか。汗を手の甲で拭ったきり、スプーンの動きがすっかり止まってしまった俺の横で、廣奈がアイスミルクを注文した。しばらくして、カウンタ―の上に置かれたグラスはズズッと俺のカレーの近くに寄せられた。 「これ飲めば、辛さマシんなんでしょ。ガムシロも入れれば?」  ガムシロップの載った小皿も、俺の手元に寄せてきた。容器を開けミルクに入れるところまではしてくれないあたり、ただの友人同士だからか、それとも、廣奈の女子力の低さによるものかどちらかと、気を遣ってもらったにも関わらず、いささか失礼なことを考えた。 「こんなことになんなら、昼ごはん、他の店で食べればよかったのに」  俺が手間取っている間に、カレーライスを米粒ひとつ残さず間食していた廣奈は、俺には禁じた水を、ゴクゴクと喉を鳴らして飲んだ。 「俺がそうしたら、網代もそっちの店に付き合ってくれた?」  俺は、甘くさせた牛乳を、記憶にないくらい久し振りに口にした。おかげで確かに、口内の辛さ熱さが少し和らいだ感覚になった。 「まさか。だって、今日はここのカレーって気分だったし」 「だったら、俺もこの店でいい。網代と一緒にいたかったし」  本音ではあるが余計なことを言ったなと、俺はうつむき、対戦中の三辛カレーを睨んだ。  しかし、女子同士であればこういった言葉のやりとりはよくある筈…いやいや、俺は意識を全くされていないとはいえ、男だ。恥ずかしさのあまり、額から汗が滲んできた…と思ったが、そういえば、とうの昔に羞恥によるものの何倍もの汗を、既に辛味によって顔面に垂らしていた。  なんだ、心配する遥か以前にみっともない顔を晒していたのか。全く気分が落ち着いてしまった俺は、代金をどちらが持つかは不明にしろ、救済策のアイスミルクを頼んでくれたお礼を言おうと、もう何度目になるだろう、廣奈の横顔を見た。  廣奈は、両手を使いパタパタと自分の顔を扇いでいた。 「やっぱ、五辛でも最後に水飲むと、辛さ増すわぁ」  鉄壁のベースメイクで頬の赤味は読みとれなかったが、少し濡れた目の端は、さっきよりも血色が増しているのがはっきり判ってしまった。
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