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四、さいはての竜
さいはての地はエダ山と同じ王の治める領地にあり、エダ山よりも遥か西、大陸の果ての寂しい大地の呼び名であった。海に沈む太陽を望むその渓谷は、地底に眠る竜の悪夢の発する死の霧に満ちていた。その霧にあたれば鳥は地に落ち、獣は狂い死に、草木は枯れ果てる不毛の地。ただ赤や黄の毒々しい苔に覆われた岩がどこまでも続く、恐ろしい谷であった。
月と海の鐘たる私を携えて帰郷した瑠璃の瞳の巫女を、エダの領主は丁重にもてなした。
冬の間を領主の館で過ごし、雪の下から可憐な春告げ花たちがふくふくと葉を広げはじめるころ、私たちはまた旅に出た。最後の旅、さいはての地を目指す旅に。
さいはての地に眠る竜を海底の国に還します、とリリアナは領主に誓った。竜がいなくなればその悪夢である死の谷は海底に沈みます、そこはやがて青く美しい湾となり、多くの船が行き来する港となります、と、カティア女神からのお告げと自分の使命とを語った。
谷に近づくと、硫黄を含む風が容赦なく吹き付けて、リリアナは始終せき込み、涙を流しながら進んだ。谷を見下ろす崖の先端まで進むと、膝から崩れるようにしてどっと倒れこんだ。
「大丈夫か、リリアナ。」
私の心配などお構いなしとでも言うように、リリアナは歯をくいしばり、私の柄を握りしめ、渓谷に向かってからん、と大きく鳴らした。日の沈む海の向こうまで響く、高らかな音色であった。初めて聴いた自分の音であった。
リリアナは何度も、何度も、硫黄の風にむせびながら私を天高く振って鳴らした。ひとつ鳴らすたびにリリアナは苦しみ悶えて絶叫した。それとは裏腹に、朗らかな私の音色は空と海とにこだまして、岩だらけの渓谷を月の光のように満たしていく。そうして何十回、何百回鳴らしただろう。ふいに轟音とともに地面が激しく揺れ、リリアナは私を握りしめたまま地面を転げ、近くの岩にしがみついてこらえた。
「ああ、竜が動いた。」
リリアナは渓谷を見下ろして笑っていた。もはや彼女の身体は乙女ではなかった。髪は白髪となり、背は海老のように曲がり、歯は抜けていた。苦痛をこらえて鐘を振り続けたその皺だらけの顔面は、汗と涙と涎が混じり合い、滝に打たれたように濡れていた。
見下ろせば、死の谷は轟音とともに海の底へと沈んでいた。夕陽に輝く黄金の海の底を、谷底の眠りから覚めた黒い巨大な竜の影が西を目指して悠然と泳ぎ、やがて夕陽とひとつになって見えなくなった。
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