大事な人と、他愛ない話を

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大事な人と、他愛ない話を

 今すぐに、あなたの大事な人と会話をしてください。  内容はなんでも良いです。難しいことを考えなくて済む明るい話題ならなお良いです。とにかく肩を並べて、笑いながらいくつも話をしてください。  意味が解らなくても、根拠を知らなくても、行動に起こせる方はこれを読むのを止めて直ちにそうしてください。それでもう、この文章に担わせたい役割は果たされます。どのみち、最後でもう一度同じ事を言います。  もし、訳が解らないままでは行動に身が入らない、なぜそんなことをしなければならないのか知ってからのほうが良いと思われた方は、もう少しお付き合いください。ただし、危機感を覚えた時点で読むのを止めて大丈夫です。どのみち、最後の一文は変わりません。  仮に、あなたの大事な人を「彼」とします。  彼が「死にたい」と思ったときは、もう手遅れです。すでに、その望みを全うするために行動を起こしているからです。そして、そう思う大元の「原因」は難しく、深く、あなたには解らないことかもしれませんし、「きっかけ」は気付けないくらいに本当に些細なことです。  たとえば、カレンダーを見たとき、目が覚めたとき、はっとしたとき、息を吸ったとき。「えっ、そんなこと?」ですが、彼はそのときこういう気持ちかもしれません。今年は2020年でなんとなくキリが良いなと思った、夜中に目が覚めたら動悸と汗で不快だった、朝の日差しを見て出掛けたくないとしか考えられなくなった、昔言われた嫌なことを突然思い出した、吸い込んだ空気が鉄錆び臭くて不味かった。これらが彼には引き金になり得ます。  なぜなら、もうずっと前からいつ糸が切れてもおかしくない状態だったからです。強風に煽られるカーテンに、奇跡的に留まっているたんぽぽの綿毛のようなものなのです。今は耐えていても次のそよ風にはさらわれていってしまうかもしれません。彼は今、そういう状況です。 *  一刻も早く危機感を持っていただきたいので、もう手遅れだったときの話をします。  「全然そんなふうには見えなかった」、「昨日も笑顔で別れた」、「悩んでる話は聞いたことがない」。誰もがそう言うでしょう。そう言う人々が悪いわけではありません。これは当然のことなのです。  彼は、自分がギリギリの場所に立っていることを、他人に知られたくないのです。あなたにもです。だから何でもないふりをします。上手に隠します。  それを受け取るあなたもまた、「そう」だなんて微塵も思わないまま接しているから気づけません。  悩み相談コールなるものがあるだろうと世間はおっしゃるでしょう。そこへ勇気を出して電話を掛けられるなら、まだ生きたいと辛うじて思えています。あなたと会話を続けることで早い段階で気持ちを持ち直せるのではないでしょうか。だけど、彼が電話を掛けられないとしたら。そもそも番号をプッシュすること、呼び出し音を聞いて待つことが、怖い。そして、自分が悩んでいることを、やはり他人に知られたくはないのです。だから機関にも頼れません。  悩んでいるならどうして言ってくれなかったんだと、あなたは嘆くでしょうか。こんなに親しくしていたのに薄情だと、憤るでしょうか。  違うのです。だからこそ、言えなかったのです。誰にも心配をかけたくなかった、誰にもらしくない姿を見せたくなかった、誰にも内面を知られたくなかった、他にも様々あるでしょうが、いずれも大事なあなたに対してなら尚更そう思います。言いたくても言えなかったのです。  彼がその望みを持った瞬間に、あらゆるものは力を失っていました。  あるとしたら、ここから飛んだらどうなるだろう、このまま絞まり続けたらどうなるだろう、そういうことを、ノイズや痺れの中で、考えていると言えるか解らない程度にただ思い浮かべているだけです。  あなたが悲しむかもしれないとか、守るべきものの行く末だとか、家族や友人のことに、思いを馳せる余裕はこのときすでにありません。すべての絆や義務や責任感から解放されること、それが「死にたい」だからです。だから彼がそう思ったときにはもう手遅れなのです。  このときもう、誰も彼を引き留められません。 *  彼は責任感が強いです。真面目で、誰にいつどんなことを言われたか、忘れません。そしてその言葉の裏にある意味はどんなものか、自分に求められているものは何か、そのためにはどうすべきか、いえ、どう「しなければならないか」、それらを全て察して考えて一人でやり遂げようとしています。多くは、発言した本人も忘れているような言葉でしょうが、彼はそこで感じた思いや匂いや情景も含めて、いつでも昨日のことのように鮮明に覚えています。そして、全てに応えようと努力します。頑張らないことは良くないことだと思っているからです。  なんて難儀なことだろうと思われたかと思います。「そんなに重く受け止めないで」、「頑張らなくて良いよ」と声を掛けたくなるのではないでしょうか。でも、彼はそれを言われることにより、敗北感に似た絶望を感じます。自分は出来が悪いのだと、もう見放されたのだと、彼はそのとき思うはずです。  誰にも頼れないのに、あなたを含む他人の些細な言葉や仕草から、自分への評価を感じ取り、良くても満足できず悪ければとことん傷つく、それが彼という人です。  だったら掛ける言葉なんてないじゃないか。八方塞がりに思えますが、何も特別な言葉でなくても良いのです。あなたが彼の悩みを聞き出して解決しようとしなくても大丈夫です。  ただ彼に「大丈夫?」と言ってあげてください。気に掛けてくれている、それだけで確かに安らげます。悩んでいる素振りが明らかならきっと話を聴いて欲しいのです。自分からは言い出せない様子なら、「眠れてる?食べれてる?」から入って、彼の緊張を解すことからしてあげると良いかと思います。その末に「どうしたの?」があれば、彼は打ち明けられるかもしれません。  また、彼が明るく楽しそうで「大丈夫?」と言うのがあまりにいきなりだなという雰囲気なら、「調子良さそうだね」など、彼の近況にあなたが関心を寄せていることが解る、プラスの言葉を掛けてあげてください。もちろん、彼が悩みを打ち明け始めたら、手を止めて聴いてあげてください。  この「繋がっていられている」感じは、彼をその最期の望みから遠ざけてくれます。  あえて強い表現を使いますが、彼と話すときあなたは、「そうかもしれない」と疑いながら接してください。すなわち、彼は今はそうではなくても次の瞬間には「死にたい」と思うかもしれないと。そうすれば、仕草や言葉の端から、彼が悲しい思いをしている場合、それが感じられるかもしれません。  あっと思ったら、悩みを無理に聞き出すのではなく、何も考えずに笑える話題を、笑いながらとことん話してください。あなたも無理をしない程度で、時間が許す限り近くへ遠くへ連れ出してあげてください。その中から彼は、「自分で」緊張状態を解く糸口を見つけられるかもしれません。小さな小さなヒントでも、彼が今「死にたい」と思うことから遠ざけてくれるはずです。  あとは、お互いに疲れない程度に同じ空間にいてください。前述した「きっかけ」は、主に一人でいるときに発動するものだからです。人の目を気にする彼は、あなたの前で行動に移すことはしないでしょう。ここで、同じ空間とは、同じ部屋にいることとは似て非なるものです。一方が会話を望めば他方はいつでも応じられる関係を保ち続けることを言います。だから、例えばテレビの音と沈黙だけが流れているリビングは当てはまりますが、イヤホンをして動画を見る、読書に没頭する、というのは同じ部屋にはいたとしても空間を共有していることにはなりません。また、監視になるのも違います。繰り返しますが、お互いに、疲れない程度に、実行してください。  きっと彼が抱えているものは複雑で根が深くて難しい問題で、それは彼自身にしか解決できないのです。理論的にも、感情的にも。つまり、誰に何を言われても後退することはあっても前進はできず、彼が自分の力で、完璧に納得できる着地点までたどり着かなければ、その問題は解決されたと言えないのです。  誰にも頼れない彼は仲間を欲しません。なので、共に解決するのではなく、彼の奮闘をこまめに見守ることが、あなたにできる最良のことです。その一つが、会話です。  内容はなんでも良いです。難しいことを考えなくて済む明るい話題ならなお良いです。とにかく肩を並べて、笑いながらいくつも話をしてください。  それが、大事な人が悲しい思いのただ中から解放されることに、必ず繋がります。どうかお願いします。  今すぐに、あなたの大事な人と会話をしてください。
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