ミントが花咲く季節

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 バーテンダーは先ほどからストレートグラスを磨き続けている。  ミントたっぷりのモヒートをおいてから一言も話していない。  いつものそんな優しさが嬉しい。  最初は一生懸命堪えていた。  だけれども止めどなく押し寄せる感情の振幅が私の目から涙をあふれさせる。  甘えている。  私は甘えているのだろうか。  辛いときに辛いと叫ぶことがどんなに難しいことなのか。  私は大人になってから知った。 「あんたは良いわね。泣けばいつも周りがフォローしてくれる。割を食わされるのいつもこっち。私が泣きたいわ。」 「またお得意の反省してますポーズ? いつになったら本当の反省をしてくれるの?」 「あんた得してる~。ミスってもやりたい放題。うらやましいなぁ。私もそうなりた~い。」 「いつまで遊んでいるつもりですか?」  切っ先の鈍った刃物で叩かれる感覚。  あえて加減してなぶられる痛み。  私はこの痛みに耐えかねて涙を流したんじゃない。  そういう言葉を呵責無くだせる強さをうらやましく思った。  手に入れたいと強く思った。  それを私が持っていたら返す刀で立ち上がれる。  何度だってやり直せる。  そう思った  だけど今、この瞬間だけは自分の無力さに涙が止まらない。  惨めだ。  空気の読めないドアベルが盛大に鳴ると、客が視界に入る絶妙なタイミングで、マスター-のバリトンボイスが響いた。 「いらっしゃい」  サラリーマンだ。  仕事終わりを示すようにネクタイをだらしなく締めている。  歳のころは私と同じだろうか。  私の方をちらっと見た後。 「今日も暑かった。良い香りがするね。ミントジュレップください。」 「かしこまりました。」  じろじろ見るつもりは無かったのだが、目が合ってしまった。 「申し訳ない。タバコに火をつけてもいいですか?」  今日の天気を聞くような気軽な尋ね方だったから 「ええ晴れていますね」 と同じ感覚で「どうぞ」と返す。  私の周りには同性の喫煙者がたくさん居るので気にならない。  せっかくのミントの香りはとんじゃうけど。  男は赤いパッケージのタバコのフィルムをくるくると回して器用に開けると優雅に火をつけた。  紫煙を吹き出しながら会話が始まる。 「マスター。客商売は永いの?」 「ここを開店する前からですから、結構な期間になりますね」 「アドバイスがほしいなぁ。今日ちょっとやらかしちゃってね。」 「私が答えられる範囲でしたら」 「今日さぁ。商談フラれちゃってね。まぁ不可抗力もあるんだけど。こういう場合、マスターならリベンジする? それとも切り替えて次に行く?」 「お客様次第になるのですが、その理由に納得されましたか?」 「そうだね。仕方ないと思った。自分も相手の立場なら同じ決断をする。」 「でしたら答えはもう決まっています。」 「もし納得いかなかったら?」 「そうですね。ほとぼりが冷めてから再チャレンジいたします。今はだめだったとしても次は違うぞと」 なるほどなるほどと男はにやにやしている。 「マスターは温和なふりして意外とネチネチとしつこいね?」 「わかりますか? お客様のためならなんでもいたしますよ」  不敵な笑みを浮かべながら、すっとミントの葉を出す。 「カウンターのお二人がお飲みになっているカクテルに欠かせない、このミントというのはものすごい生命力を持っておりましてね」  男性がシャーレをのぞき込む。 「なになに。うんちく?」 「それほど大した知識ではございません。調べればすぐ解ることです。育てるのは簡単ですが、管理するのが非常に難しいのです。」 「簡単なのに、難しい。とんちかな?」 「もし少しでも庭の片隅に植えたらあっという間に庭を埋め尽くします。もうそれは縦横無尽に」 「へぇ。それじゃ庭を管理してる人にすればたまらないね。」 「消費する人から見れば大変素晴らしい香草なのですが、一部の園芸家からは嫌われております。根絶するのが難しいので」 「ミントのアイスにミントのお茶。ミントのお酒。」 「入浴剤やアロマにも。」 二人は掛け合いのように指をおっている。 「そんなに貢献しているミント君にも弱点があったとは。マスター。なんかほっとした。安心した。」  ミントジュレップを丁寧に飲み干すと、男性は勘定を支払って風のように出て行った。  あっという間のことで会話に入れなかった。  チェスのブリッツのような会話。  帰りのドアベルが鳴り終わると 「つまらない話をお聞かせして申し訳ありません」 マスターが深々と頭を下げる。 「いえいえ!とんでもないです!ものすごい勉強になりました!」 思いついたことをおずおずと口にする。 「ミントの種って普通に売ってますか?」 「それでしたら、こちらに苗の状態で少し残っております。十分な量です。差し上げますよ。」 「え、でも……」 「あっという間に増えますから。大きめの鉢植えなどで栽培するのが良いですよ。」  縦横無尽に根を張る。  最強の雑草。  私がほしかったのは、切っ先の鈍った刃なんかじゃない。  このミントのような根だ。 「マスターごちそうさまです。ミントありがとう。もう帰ります。」 「はい。ありがとうございます。またいらしてください。」  外の空気はまだ熱気にあふれている。  でも先ほどのミントの清涼感がまだ身体のなかで生きている。  私は何で泣いていたんだろ……。  誰一人として私の泣きはらした顔について聞かない優しさがミントとともに身体を包み込んだ。  もしまた我慢できなくなったら。  この店にミントジュレップを飲みにこよう。  それだけのことで。  もう強くなった気がした。  了
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