闇の中で

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 長く薄暗い階段を、コンクリで打ちっぱなしの壁にすがるようにして登る。  呼吸はすでに落ち着いているが、この夜のできごとは私の体を打ちのめし、体力を限界まで消耗させていた。  今まであったことが悪夢のように、静まり返って物音一つない。  そのとき階段の先にかすかな光を見た。  出口だ。  生き延びたという安堵感から自然と目尻に涙が溢れてくる。  何度もつまづきそうになりながらも、私の足は早くなる。  残った力をすべて吐き出すようにして、私は階段を駆け上がった。  四角い出口いっぱいに朝の陽の光が差し込んでいる。  いつの間にか夜が明けていたようだ。  私は階段を登りきって出口を飛び出した。           ・・・  その夜私は数名の同僚と一緒に地下の汚水通路のメンテナンスに出向いていた。  なにぶん人里離れたエリアの設備なので利用している者はごく僅かなのだが、かつて政治家が地域住民に対する公約として掲げた政策の一環として巨費を投じて建設されたと聞く。  だがそれも昔のこと、今となっては巨大な利権を巡って複雑怪奇な工事が行われた総延長30km近い地下迷宮が、過ぎ去ったときの中に埋もれて忘れ去られていったのだった。  おそらく数十年間まともなメンテナンスも行われなかったその巨大地下構造は、意外にも建設当時からさほど風化もせずちゃんと構造を維持してそこにあった。  私達が今回ここへ赴いたのはその施設の古い警報装置が発した某かの問題を発見し報告するためだ。  建設から半世紀以上経過したその地下通路にはデジタル化された資料などあるはずもなく、頼りになるのは概略レベルに留まる古い紙の図面のみ。  現在位置を把握するのにも四苦八苦しながら私達はその迷宮を進んでいった。  通路はいくつかの地域につながる巨大な汚水トンネルの脇を並走して建設されており、通路とトンネルは一定間隔の開口部で繋がれて向こう側を覗き込むことができるようになっていた。  また通路の途中数箇所には建設当時の作業員の休憩所や資材置き場を兼ねていたと思われる部屋が設置されていた。  汚水トンネルに並走している割に通路内の空気はよどみなく流れ、臭気も予想したほどの酷さではなかった。  仮にも当時のこの国の建造技術の粋を集めた設備だと言ったところだろうか。  だがそれも最初の数kmを歩く間の話だった。  地下道をいくつかの分岐を越えて奥に進むむに連れ、電装品が腐食したのか通路の照明が使用できない箇所が増えていき、手に持った懐中電灯に頼らざるを得ない場面が増えていった。  また数箇所に設置されている換気塔の内のいくつかが停止しているらしく、汚水の放つ臭気が次第にきつくなっていく。  警報の発せられた箇所を目指す足取りは次第に重くなっていくなか、私達は足跡のようなものを発見した。  なにぶん普段人気のない巨大な空間なのだから、まともな社会生活を営めなくなった手合が入り込んでいても不思議はないのかもしれない。  私達は進むか戻るか決断を迫られた。  外部との連絡を取る手段のない地下施設だ、なにかに遭遇してからではどうにもならない。  戻るなら今のうちだろうと私も含め皆が口をそろえる。  私達はもと来た道をたどり始めた。  数十分歩いてどうやら道に迷ったらしいことが発覚したとき、それは起こった。  壁に役に立ちそうもない概略図をおいて現在位置を見出す努力を続けていると、何かが床をこする音を伴った裸足の足音のような音がどこかからかすかに聞こえてくる。  訝しんだ私は懐中電灯を通路の暗闇に向け、音を発しているなにかを探そうとした。  一緒にいた同僚たちも同じように懐中電灯を暗闇に向ける。  だが通路には何者の姿も見えなかった。  同僚の一人が声を上げ、並走している汚水トンネルの方を指差す。  トンネルには暗闇の中何かがゆらゆらと揺らめいていた。  暗闇で懐中電灯に照らし出されたそれは、各部に人の頭や手らしきものこそついているように見えたが、それらをつなぐのは黒く毛羽立った短い毛に覆われた長い蛇のような体だった。  異形。  そうとしか呼びようがないそれは、すぐにトンネルの暗闇に姿を消してしまう。  それと同じくして一人が震える声で何かを叫びながら通路を走り出した。  皆が止まるように声をかけたが彼の姿も靴音も、時期に暗闇に消えてしまう。  残された者たちも口々に異形の正体と走り去った同僚の対処を口にするが、そのどれもが冷静さを欠いた発言の連続で、次第に互いの胸ぐらをつかみ合うような事態へと発展していった。  そのとき、汚水トンネルの中に誰かの悲鳴のような声が響いた。  誰か。  もちろんわかりきっていた。  今はここにいない先ほど叫びながら走り去った同僚の声だろう。  それがパニックの引き金となった。  正体不明の異形とその悲鳴は即座に結び付けられ、それが人を襲う怪物であるととっさに悟った皆は、それぞれバラバラに行動し始める。  あるものは先程の一人と同じように叫びながら走り出し、あるものはそれを追っていき、更にあるものは身を縮めてその場に座り込んだ。  私も湧き上がる恐怖に思わず走り始めていた。  それから私は何度も転び、懐中電灯を失った暗闇の中をひたすら走り続けた。  もはやどこをどう走ったのか全く覚えていない。  暗闇の中を何を頼りに走ったのかも思い出せない。  ただ時折聞こえる誰かの悲鳴が私を突き動かし、走り続けさせた。  頭の中にはここから一刻も早く逃げ出さなければという考えしかなかった。  そして疲れ切った私は上に向かう階段にいつの間にかたどり着いていた。           ・・・  階段から出た先は円形の巨大な縦穴の底だった。  中央には巨大な篝火が灯され、その周りを輪になって踊るように巡っているのは、地下で私達を追い回した異形たちの群れ。  その様子はまるで何かの儀式に興じている狂信者と言ったところだ。  大きさは様々でいびつな姿をしたそれらは、階段から飛び出してきた私を一斉に振り返り、笑った。  すべての力を使い果たした私はその場に座り込む。  篝火には何かが鉄の棒に串刺しにされて炙られてくすぶっていた。  それが何なのか知りたくなかった私は縦穴の上に見える僅かな星空を見上げ、涙が溢れてくるのを感じた。  ふとその視界に異形たちが入ってくる。  立ち上がることすらもはやかなわない私は、そのまま目を閉じ <<<終>>>
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