3・藤の簪

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3・藤の簪

 屋敷から藤の咲く庭園を囲んで伸びる廊下の先にある離れは、二年前から薄紅(うすべに)の部屋として使われている。病床の薄紅が少しでも安らぐようにとの配慮だったが、それは思わぬ形で功を奏し、離れから見える藤棚の美しさに薄紅を蝕んでいた病の影は徐々に薄れていった。  今ではいつでも藤が見られるこの部屋がいいと、元の部屋から箪笥や使い慣れた文机を持ち込んですっかり自室として馴染んでいる。この離れで薄紅がすることと言えば縁側に座って藤を眺めるか、青磁(せいじ)から借りた本を読み耽るかのどちらかだ。先程本を全部返してしまった薄紅が縁側で藤を眺めていると、襖の向こうで侍女が名を呼ぶ声がした。 「薄紅お嬢様。お茶をお持ちしました」 「常磐(ときわ)。ありがとう」  常磐と呼ばれた侍女は、薄紅が病に罹る前から彼女の世話をしている。薄紅と年齢も近く、共にのんびりとした性格なので自然と気が合うのだろう。常磐が部屋を訪れると、薄紅の纏う雰囲気は更に柔らかくなった。 「東雲(しののめ)先生が、明日青磁さんを寄越すと仰ってましたが……何かお約束でも?」  常磐に問われ、東雲の言葉を思い出した薄紅の頬が再び紅潮した。何となく居心地が悪くなって顔を背けると、常磐の小さな笑い声が後を追って背中を優しく叩いてくる。 「借りていた本を先生に預けたの。だから却って気を遣わせてしまったのかもしれないわ」 「そうですか。でも青磁さんもお嬢様にお会いしたいと思いますよ?」 「常磐まで先生と同じ事を言うの?」 「あら、お嬢様はお嫌ですか?」 「そういうことではなくて……青磁さんに、それは失礼よ」  この(さと)の女は、遅くとも十七、八には嫁入りする。薄紅はその頃を病で越してしまい、今年の春が来れば二十歳になってしまうのだ。二年間も臥せっていた病弱の、しかも婚期をとうに過ぎた女など、誰が好んで娶るというのだろう。  自分の置かれている状況を知っているからこそ、たとえ冗談でも二人を結び付けようとする話題が上がる度に、薄紅は青磁に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになるのだった。 「風が冷えてきましたね。羽織るものをお出しします」  過ごしやすい秋とは言っても、日が傾きかけると気温はぐっと低くなる。冷たい夜気に当たって熱を出しては大変だと、常磐が慣れた手つきで箪笥から一枚の羽織を取り出した。  その拍子に、白い何かが畳の上に転がり落ちた。白に優しい花模様の描かれた手拭いは、何かを包んでいるらしく細長く折りたたまれている。手に取ると、既に乱れた手拭いの端から、薄紫の藤を飾った一本の簪が滑り落ちた。 「常磐?」  背中に届く薄紅の声に、常磐が慌てて簪を包み直す。少し乱雑に包んだ手拭いを箪笥の奥に押し戻し、強張った顔に笑顔を張り付かせてから、常磐は薄紅の元へと戻っていった。
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