17人が本棚に入れています
本棚に追加
ひそ、ひそ、ひそ。
夫の顔色が悪い。ふとそう思ったのは、いつも通り夕食を並べて、さあ今から二人で食事にしようと思った時だった。
「隆佑さん、どうしたの?仕事、忙しい?」
どこかふらついた足取りで席に座った彼に、思わずそう声をかける。営業職というものがどれほど大変なのかは、事務仕事しかやったことがない私では完全に想像することはできない。それでも、数字が上がらなければ給料に繋がらないというプレッシャーは、考えるだけで恐ろしいものがある。
現在の私は専業主婦。我が家は、彼の稼ぎで回っているようなものだ。今は子供いないが、もう少ししたら新しい家族が欲しいね、なんてことも話していたところである。今まで以上に仕事に邁進しなければ、と誠実な性格な彼は気負いすぎているのかもしれなかった。
「ああ、うん。忙しいというか……食事時、みのりにこんな話をするのも申し訳ないんだけど……」
その整った顔に渋い色を乗せて、隆佑は言った。
「この間異動してきた上司が、まあとんでもない奴で」
「パワハラ系?」
「というか、ヒステリー系で被害妄想系っていうの?元より、異動してきた原因が前の部署でトラブったからだっていうし。自分の仕事はさくっと部下に丸投げするし、休みがちなくせにプレッシャーかけることだけはいっちょ前だし、少し同僚とかに苦言を呈されると甲高い声で喚き散らすというか……」
なんとなく、その上司とやらは女性っぽいなと思った。元々、隆佑はあまり女性が得意なタイプではない。大学の飲み会で知り合ったのがきっかけだったが、綺麗な顔をしているわりに草食系を地で行く彼は、女性に声をかけられてたじたじになっている場面が非常に多かったのだ。長年陸上女子で短髪にしており、サバサバとした性格だった私と付き合うようになるのも必然であったのかもしれない。彼は女性の、“悪い意味で”女性らしいと言われる一面の多くを苦手としているタイプであったのである。
まあ、そのおかげで、こんなイイオトコを私がゲットできたと思うと非常に幸運と言えなくもないわけだが。女性に早口でまくし立てられることが大の苦手で、すぐ頭が真っ白になってしまう彼は(恐らく、彼の母がまさにそういうタイプで苦労してきたからというのが大きいのだろう)、そういった上司が来てしまった時心底頭を抱えたことだろう。
実に気の毒に思う、が。残念ながら、私に何かができるわけでもないわけで。
「……世の中、どうしても合わない人っているし。中には、お触り禁止案件な人もいるもんね。特に、自分はいつもいじめられてるとか、そういう風に思い込んで己が加害者になってることに気づかないタイプって超絶面倒くさい。……それとなくもっと上の上司に苦情言っておきなよ。隆佑さんがストレス溜め込むなんて理不尽でしょ」
私も愚痴聞きくらいならできるし、と。私がそう返すち、彼はぎこちなく笑みを浮かべて頷いた。
「ありがとう。……こういう時、一人じゃないってのはいいもんだな。みのりがいてくれるだけで、だいぶ楽だ」
優しい彼に、こんな顔をさせるなんて。一体どこのクソババアなんだ。私は顔も見たこともないその相手に怒りを抱く。
異動があってからまだ一ヶ月過ぎていない筈なのに、夫の憔悴ぶりは相当なものだ。あまりにも酷すぎるようなら、倒れる前に無理にでも休ませるしかない。あるいは今のご時世、リモートに変えてもらう方法などはないものだろうか。件の上司と顔を合わせなくていいだけでも、きっと楽になるはずなのだから。
最初のコメントを投稿しよう!