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 彼は再びグラスを静かに傾けた。 「氷の音、立てないのね。」 「随分細かいところにお気づきだ。」 「じゃあ、やっぱり意図的に鳴らさないのね。」 「ええ、ヴェーベルンに失礼ですから。」 「キザね。」  言ってから、そういえばこのバーは音楽が鳴っていないことに気づいた。私が店内を軽く見まわすと、奥に(いか)めしいオーディオが見える。 「気づかれましたか。ここのマスターは無闇に音を鳴らしません。」 「あら、好いわね。カクテルの味も複雑で立体的で、おいしいわ。」 「気に入ってもらえて何よりです。」  演奏会後の私たちに今、音楽はいらない。 「でも、強いわねマティーニ。ちょっと背伸びをしてしまったかも。」 「無理に急いで飲む必要はありません。どんどん食ってください。ここは料理も自慢なんです。」  そう言って彼はカツサンドを乱暴に頬張った。 「食べ方はヴェーベルンに気をつかわないの? いい加減ね。でもありがたいわ。ここ、また来るわ。気取らなくていいんですもの。」  まるで変幻自在で、正体を見せない彼との会話は楽しい。さて、どうするべきか。私はマティーニをひと口含むと、火照(ほて)った頬を感じながらグラスを回して、中のオリーブをそっと転がした。    演奏会はヴェーベルンの夕べだった。寡作(かさく)で、一曲の演奏時間も短いヴェーベルンの音楽のみで構成された演奏会はめずらしい。そして聴きようによっては何を弾いているのかすらわからない、無調の彼の音楽。案の定ホールは空席が目立った。   ヴェーベルンの音楽は不思議だ。そのときの体調や気分によって、彼の音は天使の歌声にも悪魔のささやきにも聞こえるし、危険が迫っているようにも、あるいは無機質な音の羅列にも聞こえる。ただし、どの音も決まって美しい。久々の一人きりの夜、私にはヴェーベルンの音楽が無機質に聴こえた。  演奏会前半の曲目が終わって、私はホールの入り口で手渡された今後の演奏会のチラシの束を一枚一枚見ていた。 「良さそうなの、ありますか。」  突然降ってきた声に顔を上げると、さっきのひとつ席を開けた隣りの男だった。 「え?」  一瞬、何のことだかわからずに私は聞き返した。 「チラシです。何か興味を引く演奏会はありましたか。」 「ええ、そうですね――」  私がチラシに目を落として答えようとすると、男がそれを(さえぎ)った。 「いや、当ててみます。そうだな、ハンガリー国立のモーツァルトでしょう?」  私は内心どきりとした。たしかにこの男の言う演奏会の広告は、魅力のある組み合わせだと思っていた。 「いえ、違います。」  何となく見透かされたような気がして(しゃく)(さわ)ったので、私はでたらめを答えてやった。 「ええ、そんな。はあ、それは……残念です。」  男は滑稽なほど、あからさまにうなだれた。そのあまりにわかりやすく落胆した姿が可笑(おか)しく、つい声が漏れてしまった。 「ふふ、ごめんなさい。実は当たりです。よくわかりましたね。」 「ああ、よかった。しかしお目が高いですよ。あのオーケストラは何年か前に聴いたときに大分よかったんです。それに、曲目が39番交響曲というのもいい。弦もホルンもいいオケだから。」 「あら聴かれたんですね、このオケ。そうそうこの曲、序奏で二度音程の和音を目立つように持ってきていて。でもすごくきれいなんですよね、不思議と。」 「そのとおりです。でもあれを美しく鳴らすのは簡単ではありません。このオーケストラなら輝く音を出すでしょう。」  その場で話が弾み、あれよという間に休憩時間の残りを、私たちは演奏会場備え付けのビュッフェへと連れ立って過ごした。  煌々(こうこう)と照る明かりの中で見る男は想像以上に若く、比して自身の容姿のくたびれていることを(かえり)みて、私は我に返った。何を考えて見知らぬ男と並んでジンジャーエールなど飲んでいるのか。
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