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 そろそろ23時を回る。終電を考えるなら、あと30分で席を立たねばならない。 「――聞かせてくれる?」 「つまり?」 「私のどこが魅力的なのか。」  吐く息が少し震えた。マティーニのせいではない。緊張しているのだ。聞けば後戻りし辛くなるとわかっているから。  多田はすぐには口を開かなかった。バーに入りカウンターに座って以降私に顔を向けず、じっと眼前のグラスの琥珀(こはく)色を見つめている。 「女の魅力とは何であろうか。肌の張り艶であろうか。凹凸のはっきりとした肉体であろうか。しなやかな四肢であろうか。」  突然の彼の朗読じみた口調に、私は軽く噴き出した。 「なにそれ。誰か文豪の作品の出だし?」  私の苦笑とは裏腹に、彼は真面目だった。 「いえ、僕の考えていることです。でも、もしかしたら昔読んだ本の一節かもしれません。――さて、浅井さんはどう思いますか?」 「ううん、そうね。そう思うわ。」 「本当に?」 「だって男はそういう女が好みでしょ。」 「それはあなたの意見ではない。」 「……たしかにそうね。でも、難しいわね、わからないわ。私の考えているのは女の魅力ではないもの。」 「そうかな。」 「そうよ。」 「わかった、当ててみよう。浅井さんの考える女の魅力とは、つまり中身の成熟である。」 「……ご名答ね。あなた占い師になれるわ。でも結局中身って女限定の魅力ではないわ。男だって中身は大事だもの。」 「女から見る男はひとまずどうでもいい。浅井さん、男から見た女なんです。まず女と男ってだけでそもそも全然違う、体つきから思考まで。中身の蓄積のある女はそこを踏まえて話をする。だから会話のすれ違いがない。これは男には実に魅力的なんだ。」 「なかなか説得力あるわね。でも残念ね、私には中身がないわ。」 「その謙遜は美しくない。」  彼の発言に比べると、私のは言葉遊びの感があることは自覚があった。だから彼の否定に私は少々むっとした。 「言うわね。じゃ、あなたの考えを教えてくださらない?」  演奏会後半の始まりを伝える調べが鳴り、私たちはホールに戻った。 「失礼でなければ、席を詰めてもいいですか。」 「え? ええ、いいですよ。」  すでにビュッフェに同伴した仲だし、断るのは不自然だ。いや、それは都合の良い言い訳かもしれない。正直なところ、この男の話の内容や時折見せる寛容な仕草に居心地の良さを私は感じていた。  後半は隣りの席の彼の体温と息づかいを意識しながらのヴェーベルンになった。演奏を聴きながら、どうしても彼を意識してしまう。でもそれも演奏会の醍醐味で、前半と後半で違った楽しみ方ができたと考えればいい。彼の隣りで聴くヴェーベルンは悪魔のささやきのようにも、自身の胸の内を反映させた嬌声のようにも聴こえた。  いい演奏会だった。カーテンコールが済み客が()け終わるまで、彼は席から立ち上がろうとしなかった。 「よかったらまだ座っていてください。この熱気が冷めていくホールの雰囲気は今しか味わえませんよ。さっさと帰るなんてもったいない。」  ユニークな考え方だなと思ったが、たしかに客と共に引いていく会場の熱は私も感じられた。奏者が去ったステージやホールの天井を無心に眺めていると、普段の慌ただしさなど無縁の心地良い世界が私の胸に広がった。  私たちはホールを出て、連れ立って歩いた。会話はない。わかっている、いい演奏会の直後ほど会話は弾まないものだ。でも、このまま別れ難い気もする。 「軽く飯でも食いませんか。悪くない店を知っています。」  私の心を読んでいるかのような彼のリードが心地よく、私は地下鉄への階段を目の端に捉えながら通り過ぎた。
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