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優しい神様
あのひとと初めて会ったのは、未明に雪がちらついた、冬の季節の始まりだった。
彼女は、ペパーミントグリーンのパジャマを着て、ライトブラウンのニット帽を被っていた。うなじからは、二本の三つ編みが覗いている。よく見ると、それは髪の毛ではなく、毛糸なのが分かったけれど。
購買の店員さんと親しげに言葉を交わすのは、きっと入院が長いからなんだろう。
思わず何の病気か知りたくなるほど、彼女は元気ではつらつとして綺麗だった。
でも都会育ちの僕は、見知らぬひとに話しかけるなんてことは出来ずにただ粛々とおにぎりのコーナーに向かう。
健康診断で朝食抜きだったから、お腹が減って仕方がない。どうせなら、一番の好物が食べたかった。
イクラのおにぎりに手を伸ばす。
「あ」
横からも、イクラのおにぎりに手が伸びた。
あのひとだった。
間近で見る彼女は、すっぴんなのに驚くほど肌が白い。そのくせ唇は仄紅く、この世の者とは思えない美しさなのだった。
「貴方もイクラ? じゃあ、じゃんけんしようよ」
外見とは裏腹に、親しみやすい笑顔を見せて、気安く声をかけてくる。
身長は百六十二の僕と同じくらいで、年上なのか年下なのか分からなかったから、取り敢えず敬語を使った。
「いえ、良いです。僕、違うのにしますから」
そう言ったら、彼女はぷっと噴き出した。
「嘘。凄く食べたいでしょう? 目が釘付けだもの」
「え」
僕はどう答えて良いものか分からず、頬を赤らめてしどろもどろに俯く。
「じゃあ、半分こにしよう。もう一個おにぎりを買って、それも半分こにしたら、おにぎり一個分だから」
八重歯が覗いて、それだけで心臓が早鐘を打つ。健康診断のあとで良かった。今血圧を測ったら、高血圧だと言われたかもしれない。
もう一個はカルビのおにぎりを選んで、僕たちはイートインスペースに移動した。
先客は、黒いスーツを着た渋い三十代の男性がひとりだけ、隅でサンドイッチを食べていた。
「美味しいね、イクラ。あたしも、大好きなんだ」
「うん。美味しいです」
可笑しそうに彼女は笑う。楽しくてたまらないといった風に。
「ねえ貴方、幾つ? 随分礼儀正しいね」
「中三です」
「あたしは十六。高一の歳だけど、入院と静養しててまだ高校には行ってない。ね、友だちになってくれない? 何回も入院を繰り返してたら、クラスメイトもお見舞いに来なくなっちゃった」
寂しい言葉の筈なのに、何でもないことのように笑顔で話す。何だかそれが、余計寂しく聞こえるのだった。
「……良いよ」
「やった!」
タメ口で返すと、彼女は跳び上がらんばかりに喜んだ。
「あたし、美羽」
「僕は大地」
よろしく、と握手して、僕らは『友だち』になったのだった。
* * *
きっかり一週間後、僕は健康診断の結果を訊きに来た。
お腹の調子が良くなくて受けたんだけど、大事はないらしい。
それから僕は、五○五号室に面会に行った。ひとり部屋で、ノックをすると小さな声でどうぞ、と呟かれた。
黒いスーツの男性と入れ違いに、病室に入る。
「こんにちは、美羽」
「……うん。大地」
一週間前に見た、八重歯が眩しい美羽ではなかった。顔色は青白く、唇も紅く染まっていない。
でもそれを美しいと思ってしまうのは、止められなかった。
幼い頃、生まれた時から飼っていた犬が虹の橋を渡るところに立ち会ったけど、役目を果たしゆっくりと弱って呼吸の間隔が長くなっていく老犬は、確かに美しかった。
今の美羽には、それと同じ美しさがあった。
「美羽、苦しいの?」
「うん。抗がん剤治療が始まったから。再発三回目なんだ」
「告知されたの?」
「ううん。パパやママは、隠してるけどね。今はスマホで、何でも調べられちゃうから。……見て、これ」
美羽は、左手に繋がった点滴を差す。その透明なプラスチック袋には、『生理食塩水』と書いてあった。
「がん患者に告知しない場合、生理食塩水、って書いた点滴をするの。でもすぐに具合が悪くなるから、抗がん剤だなって分かる。髪、抜けるし」
「そう」
僕は下手な慰めや励ましを贈らず、リュックを下ろして中身を漁った。
「これ。気分の良い時に食べて」
「なぁに?」
「イクラのおにぎり」
眉間に寄っていたしわが、ふと緩んだ。
「ありがとう。出来合いのおにぎりなら、あんまり匂いがしないから、食べられるんだ」
* * *
それから僕は、三日にいっぺんくらい、美羽の病室に通った。イクラのおにぎりを持って。
ある日、美羽のお母さんと鉢合わせた。帰ろうとする僕を、美羽は引き留める。
「ママ。大地くん。あたしの彼氏」
そう言ったら、美羽のお母さんは今にも泣き出しそうな顔をして、僕に何度もお礼を言った。
僕らが付き合っている事実はなかったけれど、話を合わせる。
「初めまして。美羽さんとお付き合いさせて貰っています」
告知はされていないのに、美羽が自分はがんだと確信している理由を知った。
美羽のお母さんは、嘘が下手だった。嘘は好きじゃないけれど、愛するひとを守る為の嘘は、上手でなくてはならない。
美羽は抗がん剤と戦いながら、がんを隠している両親にもひどく気を遣って生きている。何だか、残酷だと思った。
涙で鼻声になるのを隠そうとしてか、美羽のお母さんは黒いスーツの男性と一緒に、早々に帰っていった。
「……ねぇ」
「何?」
緊張に震える声で、美羽は細く言葉を紡ぐ。
「あたしたち……本当に、付き合えないかな」
「僕のことが好きなの?」
「分からない。でも、一緒に居るとホッとする。頑張れとか、必ず治るとか言わないから」
頑張っている人間に言う「頑張れ」ほど、お門違いな言葉はない。
「美羽は、もう十分頑張ってるよ。それ以上頑張る必要ない」
ビックリするほど不意に、美羽の瞳から涙が溢れた。いつもの笑顔が、嘘みたいに。
「大地は、あたしが欲しい言葉をくれるの。泣いちゃって……ごめん。メンドくさいカノジョにならないように、もう、泣かない、からっ……」
僕は、そっと美羽のニット帽の頭を撫でた。抱き締める代わりに。
「面倒臭くないよ。たまには泣いたって良いんだ。凄く頑張ってるんだから」
「大地は、あたしが……好き?」
「う~ん……」
僕は眼球を上向けて考える。
「ごめん……迷惑なら」
美羽の言葉を遮って、僕はさらりと呟く。
「ちょっと待って。今、キスして良いかどうか、考えてるから」
「えっ?」
「僕は、ファーストキスなんだ。だから、重い奴って思われたらどうしようかと思ってる」
「あたしも、ファーストキスだよ」
「じゃあ、何の問題もないな。目、瞑って」
「うん……」
そうやって僕たちは、そっと初めてのキスをした。
* * *
桜が散っていた。冬の始まりに出会ったあのひとは、ピンクの花吹雪が綺麗な季節に逝った。
最期は、モルヒネで意識のない中、眠るように旅立ったという。僕が学校に行っている間の出来事だった。
霊安室からひとけのない廊下に出て、長椅子に座る。迷いはなかった。
「……ねぇ。お願い、変えても良い?」
「念の為だが、死んだ人間を生き返らせることは出来ないぞ」
最初から座って待っていた、黒いスーツを着た男性が、真っ直ぐ前を見ながら言った。
僕も目は合わせずに、淡々と語る。
「違う。彼女と同じところに行きたい」
男性は、ふうっと溜め息を吐いた。
冬の始まりから一ヶ月後、僕は難病で死ぬ筈だった。だけど神様の気まぐれで、願いごとをひとつ叶えてやると黒いスーツの使者は言った。
僕は迷わず、延命を願う。――だけど。
「お願いを取り消すだけだから、ノーカンだろう?」
「都合の良い解釈だな。だけど、俺と取引をした事実は消えない。お前は、地獄行きだ」
「彼女は、天国?」
「ああ」
「じゃあ、それに願いごとを使う。天国に行きたい」
「ったく……。地獄行きの『罰』は変わらないぞ。『彼女と同じところに行きたい』という願いを叶えることは可能だが、彼女が輪廻の輪に戻ったあと、地獄に堕ちて永遠に罰を受けることになる」
スラックスのポケットに両手を突っ込んで立ち上がり、正面に立って僕を見下ろす。僕も見上げて目を合わせると、覚悟が伝わったのか、男性は迷うように後ろ髪をくしゃりとかき乱した。
「神様は、融通が利かないんだ。そうと決まったら、すぐに願いを叶えなければならない。ここで死ぬことになるぞ」
「構わない」
「誰にも看取られず、別れを惜しむことも出来ないぞ」
「それでも良い」
男性は、僕の真剣なまなざしを、たっぷり十秒うかがった。僕が、やっぱりやめると言い出すのを待つように。でも決心は揺らがなかった。
「……分かった」
「ありがとう」
感謝に名前を呼ぼうとして、彼にはそれがないことに今更気付く。
霊安室の前の冷たい床に倒れて、景色がかすんでいくのを意識した。
最期に見たのは、役目に似合わぬ優しい彼の、ひどく悲しい微笑みだった。
「ありがとう。優しいね。……死神」
End.
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