一章

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一章

「おはよう、高春」  朝日の色が暁から白銀へと変わる頃、その二人だけの空間に挨拶が木霊する。 「この前の数学の問題は解けた?」 「うぅん、もう少しってところかな。どうしてもあと一手足りないんだよ」 「そっか。今日の朝、またフィクス教授からの催促が来てたよ」 「いやぁ、俺にだって解けない問題くらいあるよ」 「へぇ、高春にもあるんだ」 「俺は神ではないからね」 「でも理学の神って呼ばれてるんじゃないの?」 「ただ単に呼ばれてるだけだって」 「それに自分が神であることを肯定することも否定することもできないって証明したのは誰だったっけ」 「俺は世界には常に矛盾が存在することも証明した気がするけどなぁ」 少しの沈黙。どうやら文音の返す言葉が尽きたようである。 「と・に・か・く・、早く解かないとまた催促が来ちゃうよ」 無理矢理な結論への帰着。それは、まさに分かりきったことであって、 「分かったって。でも、他にも解かないといけないことがたくさんあって………少しは体を労って欲しいな」  包み隠さぬ本心。事実ここ最近は依頼のせいで慢性的な睡眠不足である。 「じゃあ、私が高春の目の保養になってあげる」  事の唐突さに一瞬の思考停止。そしての再始動。 「柄にもないことを言うなよ」  当の文音は上目遣いで、「みてみて」と聞こえそうなほどにこちらを見つめている。  可愛い。いつもの少し大人びた感じとは異なり少し幼げな表情である。  このままでは文音の魅了に飲み込まれそうなので取り敢えず再びの思考中断。 「じゃあ、来週までには完成させとくって伝えといて」 「うん、わかった」  文音が少し残念そうな目でこちらを見ているが、きっと気のせいであろう。  ここでお互いの作業に戻るために会話は途切れた。 辺りは静謐に包まれる。  ここは難問研究所といって、世界中の未解決問題の解決依頼が送られてくる場所である。この研究所で俺と文音は依頼された問題に昼夜頭を悩ませている。  その後小一時間程してその静けさは破られた。  ただ文音が椅子を引いただけの音、それが異様に響いた。 「高春、私昼から講義があるから一旦帰るね。夕方ごろにはまた戻ってくるから」 「うん、わかった」  そして文音が部屋を出ると辺りはより一段と静寂を増した。  文音はこの研究所に通う大学生である。ちなみに俺と文音は同い年だが、俺の方は問題解決に専念したいので大学には行っていない。そして、問題解決にあったて不足する知識はその都度専門家から仕入れている。既存の知識を絶妙に組み合わせて、未解決問題の答えを導くことが得意なのである。  それから数時間がたった頃だろうか。その専門家の一人の訪問で、再びその静穏が崩された。 「Hello Mr.才加」 「Hello Mr.フィクス」  突然の声に驚きも滞りもなく返事する。 「この前の数学の問題は解けましたか?」 「これを見てくださいよ。絶賛進行中です」 「Oh you can do it!  頑張って!!」 「無責任過ぎませんか、少しは手伝ってくださいよ」  フィクスの絶妙な英和の混ざり具合に少しイラつきながら言葉を返す。 「そういえば、Ms.木原は」 「文音なら今は大学ですよ。暇な貴方とは違って彼女は忙しいですから」 「Oh, my princess!」  盛大に叫びオーバーアクションをするフィクスとは裏腹、  俺はすかさず鋭く冷たい目でフィクスを見る。  そこら辺の事情は分かっているらしく少し笑って誤魔化している。こういったフィクスのキャラクターは苦手なのだが、これでもIQが200を超える一握りの天才なので重宝している。 「とりあえず暇ならそこに積んである計算問題を片づけておいてください」 「おっ、これかい?  OK. It's piece of cake!」  さて、俺ももうひと頑張りするぞ。俺は再びペンを動かす。  小一時間経って先に沈黙を破ったのは俺であった。 「フィクス教授、この問題はこの解き方はどうですか」 「Oh なるほど  Thank you このやり方で計算してみるよ」 「ふぅ、やっと終わった」 「こっちの計算もあと少しなので片づけておくよ」 「ありがとう、じゃあ俺は先に休んでるよ」  そう言って俺は研究所併設のキッチンへと入っていった。 「こんにちはー」  俺がコーヒーを淹れていると玄関から元気な声がした。この雨をも吹き飛ばす風のように元気で爽やかな声の持ち主は俺の姉、真由である。どうやらもう一杯淹れないといけないらしい。 「ほら、差し入れも持ってきたよ」  遠く、声が聞こえる。 「あれ? 高春は?」 「えっ、キッチン?」  そこまで慌ただしい声を聞いてから二人のもとに向かう。とりあえず手には2杯のコーヒー。姉貴は欲しいんだったら自分で淹れてくるだろう。なぜなら姉貴は一二を争うほどに研究所に出入りしている部外者なのだから。因みにそれを争っているのは今計算問題と格闘しているフィクスである。この二人は何も用がなくても立ち寄ることが多い。 「あっ、高春、元気にしてた?」 「見ての通りだよ」 「えっと、見ての通りということは、すごく疲れえているけれどまあまあ元気にやってるってこと?  あと、お姉ちゃんに死ぬほど会いたかったってこと?  やった嬉しい!」  すごい洞察力だ。当たってる、半分だけ。後半は余分だったけれど。 「で、今日は何しに来たの」 「ジャジャジャジャーン、差し入れでーす」 「おっ、プリンだ。どこでも買えるお値打ちな」 「だって、ここに来るまでにコンビニぐらいしか買える場所がなかったんだもん」  そうやってぶつぶつ話しながら三人が一つの部屋に集まった。 「Mr.高春、ここにあったぶんは終わりましたよ。  おっ、コーヒーですか。Thanks!」 「あっ、高春、私の分もありがとう」  結局もう一度淹れに行かないといけないみたいだ。 「ふぅ、この甘さが脳に浸みますねぇ」  俺もプリンを口に運び、その甘さに歓喜する。そして三人の空気は雑談へと流れていく。 「そう言えば今日、大学で文音ちゃんと会ったよ」  実は二人は同じ大学の先輩、後輩である。姉貴の知力は高春や文音には及ばないが相対的に見れば天才の部類に入る。 「文音ちゃん本当に頑張っているよね、大学でも人よりも多く講義を取っているみたいだし」 「姉貴は?」 「私は普通で手一杯。サークルのこともあるしいろいろと忙しいの。まあ、充実しててとってもたのしいんだけど」 「昼間っから遊びに来といて忙しいとはよく言うよ」 「弟を見守るのもお姉ちゃんの大切な仕事なんだぞ!」 「見守るならもっと静かに、邪魔にならないようにして欲しいんだけどね」 「ひどい……」  そんな会話がしばらく続き、窓から夕陽が差し込みだした頃に会話相手が一人加わった。 「ただいま」 「おかえり、文音ちゃん」 「Hello Ms.文音」 「あっ、こんにちは、真由先輩、フィクス教授」 「お疲れ、文音」 「ただいま、高春」 「それで、どうして今日は皆さん集まっているんですか」 「僕は数学の問題の催促と、まあその他の雑談のために」 「私は差し入れついでに皆の顔を見に」  姉貴はそう言うと「プリンが冷蔵庫の中に入ってるよ」とキッチンを指して言った。  そして、姉貴とフィクスは示し合わせたように席を立った。 「では、そろそろ帰るとしますか」 「あっ、いけない。この後予定あるのを忘れてた」 「See you, Mr.高春and Ms.文音」 「また来るね、高春、文音ちゃん」  二人の去った後の研究所は嵐の後のような静けさに包まれた。  俺たちの研究所「難問研究会」通称SDQC(Solving Difficult Questions Club)。そこから徒歩十分、そこからさらに徒歩十五分。  すっかりと日も暮れ、俺は文音を家まで送り届けた後に自らの下宿先へと向かっていた。  辺りは街中の喧騒とはかけ離れた静寂を保つ。時々見当たる街灯にはどれにも等しく虫らが集っていた。  川沿いのこの道は左手に工場群、右手に河川敷が広がる。工場の明かりはほとんどが消え、しかし、か細く静かな機械音が響く。  さらに歩みを進めていく。  まだ作業着を着た数人とすれ違う。  左にはこの町で最も大きな工場がある。  そろそろ帰路も半分である。  いくつか先の門からは未だに声が響いている。  どうやら会話ではなく、がなっているようだ。  そんな音にも耳は傾けずにただひたすらに我が道を行く。  少しして、その騒音は無視できない程となる。  忽然と入ってくる情報によれば、なにか失敗が起きたらしい。通りでこの時間にも関わらず騒がしいわけだ。  すると突然、小さく爆発が起きた。  音のした方を見ると飛翔物にあたったのか、頭部から血を流す人が一人。  距離にしてわずか五メートルほど。  考える間もなく俺は駆け出した。 「大丈夫ですか」  呼び掛けるも声は返ってくるが言葉は成さない。  他にも怪我人が出ているのか、はたまた人がいないのか、誰も駆けつけてこない。  取り敢えずスマホを取りだし119番、そして110番にコールする。この近くに住宅はなく野次馬さえも駆けつけてこない。  爆発した方向を見るも、未だに火はおさまっていない。  とにかくここは危険だと作業服姿の男性を抱えて動き出す。しかし不条理の神は二人を見逃さなかった。  再び何かに引火したようで先程よりも強い爆発が起こる。  俺は咄嗟に身を翻し、飛翔物を避けようと試みるが、その塊はそんな意を解そうともせず、また、その進路をずらすこともなく、さらにずらされることもなく俺の元へと到達した。  段々と意識が朦朧としていく。  先程呼んだ救急車とパトカーのサイレンが遠くに聞こえる。  爆発に薬品が絡んだのかやけに青白い炎が見える。  そして、最後に目を閉じたとき瞼の裏にはその青が鮮明に残った。
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