エイル(翼)

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彼女は朝からとても機嫌が悪く周囲の何から何まで関わる事物へ苛立ちを抱かずに居られないといったふうで私の前を足早に歩くその背中にも漂っていた。 今年やっと初めて夏らしい幾多もの蝉の声の反響した鬱蒼とした緑の生い茂る緑地に沿った路地を「もっとゆっくり歩ければきっと快いに違いないのに」と思いながら空を覆う木々の緑を仰ぎつつ後を追うように歩いていたら,なだらかな坂を下る道にさしかかった。上気した汗ばんだ顔をちらと後ろに向けて苦笑しながら「坂です。」と彼女は言った。 20年前も彼女と坂道を下った。そのときは季節が冬で二人で軽やかに駆け下りた。神楽坂というここよりは急な坂で当時は私の方が彼女の前を駆けていた。坂の上の時計店に事務のアルバイトとして二人して採用された事で知り合った。仕事初日の昼休み、坂の下のファーストフード店へ食事をしに初対面ありきたりな雑談を交わしながら小走りに駆け下りた。初めて会った時の彼女はにこやかに自分にまつわる当たり障りのない話をしながらこれからこの年上の同僚との関わり方について模索してる不安げな気持ちが言葉の語尾の調子や目の動きの端々に見て取れてたが当時の私は気づかぬふうに(実際に気にかからない程度には当時の彼女よりは私のほうが世間ずれしていた)相槌をうったりたわいもない質問をしてみたりしていた。 「専門学校に行って勉強をしながら、ここでバイトをしていこうと思ってて。」 と彼女はそれまでの会話と同じ親しげな調子で言った。 「専門学校?何になるための?何の勉強をするの?」 「会計士。」 咄嗟に私は立ち止まり彼女を振り返った。直後から私は後悔して一生懸命優しく接し直したのだがもう下手に取り繕ってるしか受け取られないお粗末なご機嫌とりにしかならなくなってしまった。それほどまでに立ち止まり振り返って見た時の私の眼はとても冷ややかで嫉妬の露わとなった形相をしていたんだと思う。すぐ後から、その日1日の彼女は会話としては依然として続けていたものの様子は完全に委縮してしまい終始に渡って私を怖がり気持ちとしては距離を置いている感じが漂っていた。 この時の事をこうして思い出すたびに恥ずかしいような申し訳ない気持ちになる。だけれど彼女はこの時の事を憶えてない、この時から既に彼女は前しか向いてないタイプの人間だったからだ。
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