姉の靴、弟の声

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 家から路線バスに揺られて二十分の県道沿いにある総合ディスカウントストアは、いつものように適度な賑わいを見せていた。人の気配は常に感じるものの視界にはあまり入らず、落ち着いて買い物できる雰囲気。ずっとこの状況が続いてほしいものである。 「姉ちゃん、また変なこと考えてる」  数歩先でエスカレーターに乗って振り返っていた弟が良く通る声を張る。私はよそ見をやめて、エスカレーターに慎重に乗り込んだ。すると弟が私の乗ったステップの一段上のステップまでたん、たんと降りてくる。 「そんなんじゃまたコケるぞ」 「うん」  足の位置をずらし終わって顔を上げると、弟の体が目の前にあった。ほんの少し前までは手を繋いで並んで乗っていた気がするが、いつから前に乗るようになったのだったか。……いつか後ろに乗られる日が来るのだろうか。うまく想像できない。 「これくらいの身長になりたいなあ」  弟が軽く背伸びをしながら私の額に向かって言う。まあ、それくらいには余裕でなるんではなかろうか。わからんけど。 「別にならなくてもいいよ」 「姉ちゃんのためになるわけじゃねーよ」  弟が前を向く。なんとなく落ち着かない。弟の背中についていってるような感じ。昔はこっそり私の後ろをついてくる危なっかしい子だったのに。……なんか変な想像をしてしまった。 「弟。エスカレーターは二列で乗るものだよ」 「もう着くからいいだろ」  弟はステップを早足で何段か昇り、私と間を空けてからエスカレーターを降りる。 「気を付けろよ」 「あい」  乗るよりも降りる方が苦手な私はより慎重にタイミングを計り、だん、だん、と着地して素早くエスカレーターという名の崖から離れる。ふう。 「で、靴屋で何見るの?」  いつの間にか隣にいた弟に訊かれる。 「スニーカー。体育祭で裂けたから」 「へぇ……。八百メートル走だっけ、いつ裂けたの」  弟は、またか、というような顔をする。 「走り終わって、ざらざらすると思ったらパカパカしてた。靴下も犠牲に」  私は中学時代に運動靴を崩壊するまで履き続けたことがあった。あれは今回よりも割とひどく、我が家の鉄板ネタとなっている。小学生の頃は壊れる前にサイズが合わなくなっていたので、成長が止まってしまうといつ替えればいいのかわからないのだ。 「姉ちゃんは意外と酷使するからな……」 「そうかな」 「路線バスのルートを徒歩で踏破するとか普通はしないからね」 「あー……」  そうか、のんびり歩いても靴は痛むのか。 「じゃあ、おれは革靴とか見てるから」 「ん」  そう言って弟は靴の山の向こうに姿を消す。革靴……? ああ、来年か。気が早いことで。中学生の革靴なんてなんでもいい気がするけど。  私は二十三センチの夏用スニーカーを探して山を掻き分ける。冬靴が並び始めていて、選択肢はそれほど多くなかった。メーカーにこだわりはないので、手当たり次第手に取ってはサイズを見て、該当していたら値段などを確認していく。似たような横文字やどう違うのかわからないナントカ性を謳ったものばかりで、途中から機能説明っぽいタグは見なくなった。  一足、これかな、という靴が見つかり、試し履きしてみることにする。久々に靴箱から引っ張り出してきたローファーを脱ぎ、まず片足を履こうとしてロール紙が詰められていることに気づく。それを靴がディスプレイされていた場所に置かせてもらい、改めて足を入れる。なんとなくスースーする。そして、鼓動が高まる。まだ自分のものになっていない商品に足の裏をくっつけて体重をかける罪悪感。試し履きは初めてではないが、いつも緊張してしまう。勢いでもう片足も履き替え、ローファーを邪魔にならない場所に揃えて置くと、この靴が自分のものになった感じがして少し落ち着く。そのまま靴屋の奥の方に向かって、一歩、二歩と足を踏み出す。玄関で靴を履いたときには感じられない清々しさが立ち上ってくる。肝心のフィット感は、よくわからない。痛みはないし窮屈ではないと思うが、少し緩く感じる。紐を結んでないから当たり前か。紐はディスプレイ用に穴を通さず縛ってある。これを解く勇気はなかった。せめて見える部分はディスプレイされていたときの状態を保っておけば、問い詰められてもしらを切れる気がした。  突き当たりまで行って戻ってくると、私のローファーの傍らに弟が立っていた。 「決まった?」 「うん、これにする」 「ん」  弟がローファーから少し離れる。ふと、思いついた。 「ねえ、これ履いてみたら」 「え?」 「ローファー」 「……」 「まだ履けるでしょ」  弟の顔が引きつる。あー、やってしまった。今回はわざとではない。 「……ばかにしてる?」  意地の悪い姉にいじめられて怒ったときの、少し震えた高い声。この十年間で何百回と聞いた声。この声ももうすぐ聞けなくなるんだろうな。 「してないよ」  革靴選びの参考になればと思ったけど、同じローファーでもメンズとは違うだろうし。違うのかな? 「……そういう変なことは彼氏としなよ」  弟の怒りは思ったより早く収まったようだ。お店だからかな。 「これ履ける人探すの大変だよ」 「じゃあ子供と!」 「それなら、まあ」  私はこれから自分のものになる、まだ自分のものではない新品の靴を脱ぎ、ローファーに履き替えた。 「じゃあ買ってくるね」 「……ねえ」 「ん?」  弟の方を振り返ると、そっぽを向いて目を泳がせている。 「おれの足が小さいのは早生まれのせいだから、気にすんな」 「……このあとパフェでも食べてこ。おごるから」 「やった! おれチョコサンデーね。先行ってるよ」  私の弟が小学生らしい笑顔を見せて駆け出していく。その小さい背中を横目に、私はレジへと向かった。
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