観光

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 別荘に戻ると既にお手伝いさんの姿はなく、かわりに彼女が作り置いた惣菜が冷蔵庫の中にあった。  鹿のたたきや山菜のナムル、手羽先と大根の煮込み、湯葉豆腐、出汁巻き玉子など、酒の肴にも晩飯にもなりそうな逸品ぞろいだ。  机の上にはとうもろこしの炊き込みごはんで作られた握り飯が、皿にラップをかけられていた。香ばしいにおいを嗅いだ瞬間、釜揚げうどんで満たしたはずの腹が小さく鳴る。  もっと高い酒を買うべきだったかと、少し後悔した。  缶ビールで流し込むより、日本酒をちびちびと飲みながらゆっくり堪能したい、そんな品ぞろえだ。 「頂き物の吟醸があるんだ。一人じゃ呑み切れないと思っていたからちょうど良かった」 「いいのか?」 「そのかわり、ビールは置いてってほしいな」  冗談めかして真織が開けてくれたのは、地元の酒蔵で造られたという大吟醸だった。  見た目の期待を裏切らない肴たちに舌鼓を打ちつつ、切子のグラスで冷酒を傾ける。 「美味いなあ。お前、いつもこんな美味い飯食ってんのか」 「まさか、週に一度来てもらっているだけだよ。藤田さんはもともと地元の小料理屋で働いてた人だからね、何を作ってもらっても美味しいんだ」  そう言いつつも、真織は料理にあまり箸をつけず、ほとんど酒ばかり飲んでいた。 手の込んだ品々や美酒に目の色を変えてしまう自分とは対照的な、本当に美味いものや高級なものを食べ慣れた、裕福な人間の佇まいだった。  不意に学生時代を思い出す。  大学生の時、真織は大学のすぐ近くにある、彼の叔父が所有する駅前のマンションで一人暮らしをしていた。大学から片道一時間半かかる実家住まいの自分は、時々泊まらせてもらっては、宿代がわりに掃除や料理をさせられてから帰ったものだ。  実家から食べ物が送られてくるたび、足の踏み場がないくらい部屋が散らかるたび、ハウスキーパーを雇うように私をマンションに招き入れた。  手先が器用なくせに、真織は絶望的なまでに「生活力」とは無縁な人間だった。  だから今日もてっきり、別荘の掃除をさせられると思っていたが―――― 「編集の仕事は楽しい?」  声をかけられ、ハッと我に返る。そういえば今、何をどこまで話たのだったか。  そうだ。勤め先の出版社で、今年に入って人事異動があったことだ。 「まあ、営業よりは向いてたみたいだ。それにしても、お前が働いてたとはなあ」  坂之井家は先祖代々続く大地元の名士の家系だった。  真織は学生時代にアルバイトはおろか、大学を卒業してから一度も就職したことがない。  高校卒業と同時に親から継いだという、株や不動産がもたらす不労所得で、十二分に生きてゆけるからだと聞いていた。 「働くってほど大袈裟なもんじゃないよ。あんなものは単なる暇潰しだ」 「だってお前、あの木彫りの人形を売ってるじゃないか」  思わず尋ねると、真織は首を横に振る。 「それで生計を立てているわけじゃないし、僕は職人になるほど根性はない。あれは見よう見まねで好き勝手に作っているだけだよ」 「そうなのか? こんな言い方もなんだが、お前の作品だって本職に充分ひけをとらないように見えたけどなあ」  周囲を山に囲まれたこの地域では良質な木材が豊富にとれるため、昔から木工が盛んだった。ここらの家具といえば、全国でも品質の高さで有名だ。 そのため家具屋はいわずもがな、木彫りの工芸品や仏像を専門に扱う店が多い。  古い町並みや商店街を歩いていても、木工品や材木の店が目につく。一枚板の専門店という珍しい店もあった。 「はは、専門のお店になんて到底卸せないよ。双樹堂さんのご厚意で品物を置かせてもらっているだけなんだ」  そう自分を下に置きつつも、さり気なく相手を上げ、自嘲や卑下を感じさせないところに、目の前の友人の育ちの良さを感じた。  とりとめのない近況報告や世間話、思い出話に花を咲かせているうちに、一時間ほどで吟醸を一升飲み干してしまう。 「長旅で疲れただろう。少し休んで、お互い目が覚めたらもう一杯やろう」  時刻はまだ八時前で、お手伝いさんの料理も半分ほど残っていた。  料理の礼に皿を洗い、客室に戻る。すでに布団が敷かれ、枕元に客用の浴衣が置かれていた。  心遣いは有難かったものの、私は友人ほど和装に慣れているわけでもなく、着崩れして皺だらけにするオチが目に見えていたため、持参したジャージに着替えて布団にもぐりこむ。  少し仮眠をとろうと枕に頭をおろしたその時、不意に気付いた。  別荘に遊びに来ないか。  そう誘われたのに、自分は別荘のほんの一部の部屋しか見ていない。  真織が案内してくれる気配もない。もしかすると片付けが済んでいないか、彼のことだから案内自体を忘れているのかもしれない。  そんなことを考えながら目を閉じれば、酔いも手伝って、私はあっと言う間に眠りについた。
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