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「よしよし、ごはんだ」
かつてない優しさでステラを誘導する朝香に拍子抜けしながら、恵も洗面所に直った。くせっ毛を手櫛で整え、冷え切った頬をむにむにと動かす。
――君との交際を報告に来た朝香がね、すごく嬉しそうだったんだ。
丹羽の言葉を思い出して、つい顔が緩んでしまう。この幸福を朝香に伝えられないのが、なんとも悔しい。でも、言うわけには……。
「なにしてんだ。早く来い」
「ふぁい」
ほっぺたを引っ張った間抜けな顔を見られ、慌てて手を離す。ぷっと噴き出した朝香の背中に照れ隠しでもう一度しがみつく。
「寒くて強張ったんだろ。……早く帰ってくればよかったのに」
「よく言う。すぐに追いかけてこないのが悪いんだよ」
鼻歌でごまかす男に引っ付いたまま、キッチンへと移動した。いつもながら、きちんと片づいたテーブルには、理想通りの朝食が準備されていた。
「ワッフルだ! ちゃんと生クリームもついてる! 苺の切り方が薄くてプロっぽい! ブルーベリーとラズベリーまで添えられてる!」
歓喜の叫びを上げると、年上の恋人は満足そうに頷いた。
「朝イチで甘いものは、血糖値が上がってよくないんだぞ。血糖値上昇を抑えるために、せめて珈琲にしろ。ほら、お前のコップ――」
空のカップを受け取ろうと伸ばした手を、朝香に捕えられる。片手で抱き寄せられた体は、彼の胸になんなく収まった。
シンクに戻されたカップが、トン、と、軽快な音を立てた。
いつもの温もりに埋もれながら「今日はブラックコーヒーかあ」と、少しだけガッカリしていた。
「ごめん」
耳元で囁かれた謝罪に、バッと顔を上げる。穏やかな眼差しにぶつかり、言いかけた言葉を一旦、飲みこむしかない。緩やかに弧を描いた朝香の口元を見つめ、敗北に追いこまれた事態を悔やみ始める。
「……俺が先に謝りたかったのに!!」
「知るか。ま、でも、今朝の件はお互い様だよな。だから、先に謝った俺の勝ち、だ!」
力強く宣言した朝香は、爽快な笑みとともにくるりと背を向けた。恵の抗議を受け流す彼の手元には、湯気を立てるミルクたっぷりのカフェオレが完成間近であった。
🐾 🐾 🐾
【 おしまい 】
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